どうにもこうにも「グローバル化」という言葉が好きな人が私の周りに多すぎて、ホトホト困っています。またネット内でもメディアも、また政府でさえ「グローバル化」が良いことだという前提でいるのがわかる。
ただ私としてはこういうおかしな人達はグローバルの意味とインターナショナルの意味がごっちゃになっていると感じます。これって似ているようで全く違うんですね。
国で言えば、それぞれはナショナル。これが交流を活発にしてお互いの個性を理解してうまくやりましょう、というのがインターナショナルだと理解しています。インターコンチネンタルは大陸同士の交流だし、インターステイツは州の交流。学校もそうですよね。インター校と呼ばれるのはインターナショナルから来ている。各国の学生が集まる学校。
ではグローバルって何かというと、ナショナルの対極にある言葉なんですね。地球を意味して使われる言葉ですが、「世界」を一つの単位として見る考え方。ですからそれは国それぞれの「ナショナル」、「個性」を否定する考え方とも言える。
もし学校でグローバル校というのがあるとしたら、そこでは各国籍とか各言語、個性はないものとするという学校だということ。それぞれの違いは無視して、ひとつの統一した基準で皆が同じという考え方。
これは平等を意味しているようにも思えますが、例えば男と女には明確な違いがあるのに、全く同じものとして見るというのと同じ。権利に関しては同じですが、同一視するのはおかしなことであるのは誰にでもわかるはず。つまりですね、男女別のお手洗いや銭湯を否定する考えなんですね。
私がグローバルという言葉からすぐ連想するのは「規格」です。世界にはインチがあったりセンチがあったり、そういう尺度だけじゃなくて山のように規格がある。でもこれじゃ違う国同士で交流が出来ないわけだから、統一規格を作りましょうよとなるのは当たり前。世界で統一しようという考え方も出てくる。これがまさにグローバル規格であって、各々の規格(個性)は捨ててくださいって意味なんですね。
人間とて同じで、グローバル化というとことは、どこの国、民族、言語、文化、伝統、そういうものは横においといて、皆で共通のものを持ちましょうってこと。
それは素晴らしいことだと思うお目出度い人もいるのかもしれませんが、そうだとするなら「個性を大事にしましょう」「伝統文化を伝承しましょう」って何?
ですから、我々が目標とするべきものって決してグローバル化じゃなくてインターナショナル化であるのが簡単に分かるはずなんですよ。でもその違いがわからずにゴチャ混ぜて使うとわけがわからなくなるんですね。
確かにインターナショナルなんて言葉は古臭くて使い古されていて、何だ?今頃みたいな感じがします。でもグローバル化ってなんとも新鮮で素晴らしい物のような印象がある。でも中身はまるで違うってこと。
そして気をつけないとならないのは、「規格の統一」でもそうですが、グローバル化(統一)を言い出すのは常に「強者」だってこと。「俺の規格に合わせろ」というのがグローバル化を言う人の正体。そうそう、すぐアメリカが頭に浮かぶでしょ?TPPも同じ。
つまり、グローバル化を言う人は、本来皆が納得する統一化を果たそうなんて考えていないのが普通で、「俺に合わせろ」をうまい言い方をするだけ。
でもこれまたお人好しの日本人はそれに乗っちゃうのね。これが流行りだ、これが世界の方向性だと思っちゃう。
アメリカは横に置いといて、アジアとか他の国を重視して、そこに溶け込もうとするのをグローバル化だと勘違いする人も出てくる。それはその国の「ナショナル」に近づこうとしているだけで、グローバル化でもインターナショナル化でもないんですね。
いやいや、その国は世界の中の一国であるから、そこでうまくやっていくのはグローバル化、インターナショナル化に繋がると。
でもこれも勘違いなんですね。企業でも国でもそうだけれど、やっぱり本来は「ナショナル」が基本なわけですよ。外務省だって「グローバル課」ってあります?北米、南米、アジア、いろいろ部署があるじゃないですか。結局そういう風に分けてその分野の「専門知識」が必要なわけで「世界統一」されたものなんかないんですね。
グローバル化とは個性とか専門性を否定する一面があるのを忘れてはならないと思うんです。そして世界はひとつのグローバルだなんて考えている人はどこか変わっている理想主義者だけでしょう。
でもいつかは世界が一つになる時がくるかもしれない。それは日本がかつて俺は会津だ、薩摩だと言っていたのが、今ではそういう人がほとんどいないのと同じで、世界でも「日本人」というのが「横浜生まれ」と同じような意味しか持たない時が来るかもしれない。
でもそうなる過程に「インターナショナル」という状態を必ず通るんですね。俺は会津、お前は薩摩、だから一切関係ないというところから出発し、次に、お前と俺とは価値観も違うけれど、お互いそれを認めて、理解しあってうまくやっていこうやという状態が来る。これがインターナショナル化。そしていつの日にか、会津とか薩摩とかって一体何の話をしているの?という未来が来る。これがグローバル化でしょう。
でも今の時代において、それを前提にするのは早過ぎるわけで、その前に「インターナショナル」の世界で「自分の個性」を失うこと無く、どうやって他の「ナショナル」と付き合っていくのか。それが重要であって、多くのグローバル化グローバル化と言う人達はそれを狙っているわけですよね。でも使う言葉を間違えている。
あるいは、世界が(強者の論理による)グローバル化しているのは間違いがないわけですが、その中で生きていくには「グローバル人間」になるんじゃなくて、「インターナショナル化」「マルチナショナル化」した人材が必要だと言うべきじゃないでしょうか。逆に自分の中の「ナショナル」を捨てた人間はまるで使い道がないはず。いや、大きな組織の小さな一つの歯車としては使いやすいのかもですね。
またグローバルな社会に将来なったとしたら、次に出てくる流行り言葉はなんだと思います?それはリージョナル化だと思うんですよ。地域とか地方とかって意味だと解釈していますが、「世界統一」されたものしか知らないやつは、ある地域や国の特殊性を理解できないから使い道が無いということが起きる。グローバル化とは最大公約数でしかないってことなんですね。
世界は多様化しているはずで、その中で「グローバル化」というひとまとめにして一元化する考えは逆行しているとも言えるはず。
グローバル言語が英語だとして、それしかわからない人は「グローバル」な世界では良いでしょう。ではリージョナルで通用します?世界中、どこでも大丈夫?チベットの山奥に行って、英語を話し、グローバルとされる規格を押し付け、会計基準はこれが常識だとか、そういう馬鹿なことを言うのが正しい?
ここでもフト、アメリカが頭に浮かんだでしょ?
つまりグローバル化なんてのはアメリカが言い出した、彼らに都合の良い「言い回し」でしかないってことなんですよ。
私は、それぞれの個性や伝統文化を大事にし、お互いにそれを尊重し合い、「人は違って当たり前」の社会が良いと思っていまして、スポーツをする時には同じルールを知らないと話しにならないけれど、そのルールが世界共通、唯一のものであると考える「グローバル化」とはいかにくだらない思想であるか、それを多くの人に考えて欲しいと思っています。
私が思うに、グローバル化でもない、インターナショナル化でもない、マルチナショナル化をこれからの若い人たは目指したら面白いんじゃないでしょうか。日本のこと?当然俺に任せてくれ。マレーシア?ああ、それも俺の得意中の得意。あとオーストラリア、ニュージーランドに関しても俺の専門範囲。とかね。(笑)
キリスト教もイスラム教もヒンドゥ教もいろいろある世界で、「真のグローバル化」が起こるのはきっと何百年も先の話で、今の時点では、まず一つの確固とした「ナショナル」を持ち、それと同レベルの理解を複数持っているマルチナショナル化が時代のニーズであって、グローバル化なんてのは本来誰も必要としていない絵に描いた餅。
国際人なんて言葉も同じで、そんなカテゴリーは世界のどこを探してもないし、それを目指すということは「自国を捨て」「他の個別の国のこともわからず」、「世界はね~~~~」と自己陶酔している難民と同じ。(笑)
目指すのなら国際人なんて言わずに「マルチカルチャリズム」の方向で行くべきじゃないんですか?
でもそんなこともわかっているんですよね。でもそれを「国際人」と言っては違う意味になるってことです。実は海外在住者の中でこの言葉を使う人は馬鹿にされる傾向があるのを知っておくのは良いかもしれません。海外在住者、海外で育った子供たちの中で「俺は国際人だ」と思う人って皆無と言って良いはず。
でも「マルチナショナル」「マルチカルチャー」という意味においてはそれなりの理解はあるわけです。ただ、グローバルなんてことを考えて基本中の基本である「ナショナル」を軽視すると、わけのわからない存在になってしまう。
こんな言葉の使い方なんて大した問題じゃないと思う方もいらっしゃると思いますが、まず言葉上で自分が(自分の子供が)何を目指しているのかはっきりさせることは重要だと思います。なんとなく「海外経験があれば・・・・」なんてのじゃどこに流されていくかわからなくなるはず。ましてや「英語ができれば・・・」なんてのは愚の骨頂で、日本に住み、あるいは育ちながら「日本語が出来れば・・・・」なんてことは誰も思わない。