90近い父がマレーシアに住んでおり、その父が突然具合悪くなって入院したのをキッカケに、また「マレーシアで住むとはどういうことか」を考えるようになったのですが、今まで「マレーシアの良さ」だと思っていたのが「マレーシアの落とし穴」だと感じるようになりました。
MM2Hという素晴らしいビザがマレーシアにあって、平均的な日本の退職者なら誰でもそれが取れる。そして10年という有効期限があるものの、ほぼ無条件で更新できるそうなので、これと「永住権」は似たような感じがします。一生住んでいようと思えば住めるんですから。
でもやっぱり「永住権」とは大きく違う。MM2Hは「住んでいてもいいよ」という許可ではありますが、その代わり「あんたの面倒は一切見ないよ」という条件が付いている。
これが「永住権」と大きく違うところで、「永住権」には様々な権利があるんですね。簡単にいえば「国民」に限りなく近い権利がある。
数年間、遊び半分の生活なら何の問題も起きませんが、長い間にはいろいろあるじゃないですか。でもそういう時には「帰るしか無い」のがMM2H。もし「永住権」があるのなら、社会保障が受けられる。「出て行け」とは「絶対に」言われないんですね。そして「どうにか生きる道」は見つけられる。
社会保障なんて関係ないね、と私も若い頃は考えていました。自分の力で自分の道を切り開くと考えていたし、そうしなくてはならないと信じていました。年金もそうで、「そんなものはいらない。自分で稼ぐ」なんて偉そうなことを考えていたもんです。(笑)
でもやっぱり病気や怪我はあるし、仕事だって常に順調なわけはなくて、それは自分だけではなくて家族全員がそうですから、「何かが起きる確率」は「かなり高い」んですね。でもそんな時に、「じゃぁ、みんなで引き上げるか?」なんてことは簡単には決められません。
詳しいことを今日書こうとは思いませんが、子供が犠牲になったり、離婚、一家離散、なんてのをここオーストラリアでも見てきました。でもそうなる前に「帰国という選択肢を取る」家族の方が圧倒的に多かった。
でも「帰れば良い」というのは非常にうまくないわけですよ。仕事は?学校は?といろいろありますし、そもそも「一体何のために来たの?」という所で悩むことになる。
永住権があってもそんなことは普通に起きるのに、永住権さえなかったらどうなると思います?やっぱり長い間には意識していなくても国や自治体に救われることってあるんだろうと思います。保険システムもそうですし。でも「永住権」がない場合は、「限りなく旅行者に近い」わけで、何かあれば「帰れば?」と言われるだけ。
だから「最初から遊びのつもり」で行くのなら良いと思うんですよ。「言われなくても帰るつもりだよ」で済みますから。
でも若くして、家族もいて、子供もいた場合にはそう簡単にはいかない。
でもマレーシアには「簡単に行ってしまう」。なぜ?
それはMM2Hが簡単に取れるからかもしれないと思うようになりました。普通、どこの国でもそこで「好きな様に生きる」には「永住権」が絶対に必要で、これを簡単にくれる国は世界には存在しないんですね。マレーシアのMM2Hは簡単ですが、ではマレーシアの「永住権」はどうかというと、これは他の国より厳しくてマレーシア人と結婚してもなかなか取れないと聞いたことがあります。
これが私は「マレーシアの本音」だと思うんです。「是非来てください」という宣伝は「遊びに来て、お金を落としてくれ」という意味でしか無くて、「あんたの面倒なんか見ないし、見ないとならないような永住権はやらないよ」というのがマレーシア。
また他の国でも永住権の取得は簡単ではありませんが、「それでもどうにか取りたい」と思う人は半端じゃない数いるんですね。例えば「オーストラリアの永住権を欲しい日本人」だけでも私は数万人いると思います。アメリカはもっと多いでしょう。カナダも同じ。ニュージーランドもそう。そして彼らは「欲しいと願う」だけじゃなくて「取るための努力」をしているんですね。それも数年を掛けて準備をするのが普通。お金がなければ永住権は取れないなんてのは「大間違い」です。
この準備期間にかなりのことを覚えるはずなんです。まず「どうして永住権がないと駄目なのか」という根本的なこと。そして「永住権があるとどう違うのか」、そういうところがわかるようになってきて、実際にし「仕事をし」「収入を得」「子供を育て」「子供の教育」「医療」「保険」「年金」「老後」「失業対策」「セイフティーネット」など、我々日本人が日本のことを知っているように、その国のことをとことん知るようになるんですね。そしてその重要性もよく分かるようになる。
ところが簡単に取れるMM2Hだとそこまで考えないように思います。まず私がそうです。「遊びに行くのだから細かいことはどうでも良い」、「駄目なら帰れば良い」という思いが基本にありますから。
そのままマレーシアでそのつもりで生きるのなら良いと思うんです。そして何かあったら「予定通りに帰る」。
ところがですね、年数がどんどん経ち、ましてや子供も現地で育っていきますと「駄目なら帰れば良い」なんてことは言えなくなるんですね。そしてその時に「自分が持つ権利の危うさ」に気がつくはず。「帰りたくない」「帰れない」「帰る場所がない」場合でも「国外に出るしか無い」状況がいつか来る。
「終わりよければ全て良し」といいますが「何かあれば国外に出るしか無い」という「現実」をいつか見ることになる。これって「我々日本人」が「いつか日本から国外に出される」のと同じだということをしっかり認識する必要があるはず。
それでも本人は良いでしょう。好きなことをしたんですから。でも家族は?子供は?と私は思うわけで、私がこんなことをいつも書くのはそれが理由です。
「永住権」を正面から考えるといろいろわかってくることがあるのに、「永住権みたいな」「でもまるで違うMM2H」を「簡単に取れる」ということによって、大事なところに目が行かない現象が起きている気がするのです。
「俺は大丈夫」「とことん考えている」と誰しもが思うはず。でも自分の心の根底にあるのは「行きたい」という「強い願望」ですよね。で、この根底にあるものが自分の思考方法にどういう影響を与えるかをきっちり自覚している人って「非常に稀」だと私は考えています。
というかそれが「自然」であって、「大好きな異性」に「微笑みかけられたらどうなるか」と一緒で、「冷静さなんかどこかへ消える」のがあたりまえだと私は思うんです。
私はその「異常さ」というかもしかしたら「当たり前」のことかもしれませんが、それが「マレーシア関連ではどこにでも見れる」という不思議さを感じるってこと。でも他国の場合にはそれがない。
このブログはオーストラリア関連にも登録されていますが、オーストラリアでもカナダでもアメリカでもニュージーランドでも「移住希望者」「永住権を取るために頑張っている最中」のブログは結構あります。そしてそれらを読むと「かなり真剣」なのがわかる。
でもマレーシア関連だけは違っていて「浮かれている」。また「おいで~~」と「呼ぶ人が多く存在する」。
この違いってなんなのか、その辺を考えてみることは重要だと思っています。
ジジババはどうでもよいです。どうせ先が短いのですから。でも若い人、ましてや子持ちの人は「マレーシア行きが目標」だとしても、他国へ行こうと思っている人たちの「真剣さ」をたまには見たら良いと思います。
「マレーシアは簡単に行けるからマレーシアにする」という考え方があったとしたら、それこそが「落とし穴」であると考えることも大事ではないでしょうか。
小さなお子さんをお持ちの方は、子供がすやすや寝ている寝顔を見ながら、「将来起こりうること」を真剣に考えるべきで、「自分は今、頭に血が上っているかもしれない」と考えるのも良いし、「リスクを取るのは自分ではなくて、この子だ」という現実を忘れてはならないと思うのです。
マレーシアに行くなって言っているんじゃないですよ。マレーシアに行くなら「それなり」の「行き方」「住み方」を考えるべきで、「移住だ」「お国替えだ」なんてことは「よーく、考えるべき」であって、またもしも「マレーシアは一つの通過点」だとするのなら、では「次にどうするつもりなのか」を夢見るのではなくて、「現実的に考える」必要があると思います。他の国は居住許可なんか簡単には出さないのにどうします?
「どうにかなるっしょ?」というのも一つの生き方だとは思いますが、それは「子供に対して」「自分でどうにかしろ」と言っているのと同じじゃないでしょうか。
それはそれでいいのかもしれませんが、「帰国子女の苦悩」とか「在日の苦悩」、ましてや「もし在日が永住権さえなかったらどうか?」(同じ立場になる可能性が高いわけだから)とかも「我が家の問題」として考えて見ることは大事だと思います。
それとですね、はっきり書きますが、【「永住権の重要性」はわかっているけれど「それを自分は取れない」】とするのなら、それは「その国が来て欲しくない人」だということなんですね。でもそれでもあの手この手でその国にしがみついたところで、何かあったらどうなるかなんて簡単にわかるはず。
もし日本に「永住許可」もなく、それでもどうにか住み着こうとしている外国人のことを想像してみれば良いと思います。
だから「永住権が取れない」なら「取れないなりの生き方」があるわけで、「永住権を持っているのと同じ生き方」なんて「絶対に」無理なわけです。そうじゃないなら誰も永住権なんか取ろうと思いません。
MM2Hって簡単に取れますから、こういう当たり前のことを考えない人が多いように私は感じるのです。そしてその影響を一番受けるのは「子供」であって「海外に脱出~~」なんてお調子こいている親じゃない。