私はこのブログで常に「海外生活を簡単に考えるな」「海外の子育ても良いことばかりじゃない」と書き続けてきたし、それは今でもそう思っています。これはゴールドコーストで失敗例を多く見てきたこと、また海外に何十年も生活している日本人が持つ問題点、悩みがわかるから。あるいは永住権もなくセーフティーネットもなく、ある日ある時、愕然とする人たちを見てきたから。
でも私は一度足りとも「チャレンジするべきじゃない」とは書いたことはない。
それどころか思ったらやるべきだし、チャレンジしない人生なんて意味が無いと思う。ただし、頭の周りにチョウチョが飛んでいるような人は決して少なくないし、私自身が浮かれていたことも事実としてあったし、しっかりとした調査とシミュレーション、万が一の時の行動計画がなければ「飛んで火に入る夏の虫」になるのは間違いがないんですね。
でもま、歴史は繰り返されるんだろうと・・・。
そんなことを書き続けていたわけですが、自分自身がチャレンジ精神を失っていることに気がついたんです。完全に守りの態勢に入っていた。
マレーシアに行くことは決まっていますが、マレーシアでの生活がまるでイメージ出来ないんですよ。私は好きなことをして生きてきましたし、欲がなくなってきたわけじゃないものの、ゴルフ三昧したいとか、あちこちKLを拠点に旅行したいとか、そういう「やりたいこと」がありません。
またどの程度のレベルの生活にどのくらいの生活費をかけるべきかもまるでわからないのです。
そんな愚痴を書き連ねていたところ、コメントに「好きなことをすれば良い。お金が掛かるなら掛ければ良い。お金がなければ削れば良い」みたいな、教科書そのものの意見を聞いて、この年寄りの悩みが理解できないんだろうなと思ったわけです。そもそも好きなこと、やりたいことがないんですから。
普通、予算ってありますよね。退職者で年金組なら年金+他の収入、あるいは足りなければ貯金を切り崩すとか。ま、限られた収入、限られた資産の中から、死ぬまでの計算をしてうまく使い、コスパが良く、満足できる生活をしようとする。年金組ではなくて、あるいは他の収入が多い人でも予算を組んでその中でやっぱり同じようにコスパを計算して生活するのは同じこと。
このアタリマエのことが私にはできないんですよ。
まずどのくらいの生活ならどのくらい掛かるのかがさっぱりわからない。だから予算の決めようもない。予算に限りがあるのなら簡単で、それ以上の生活を望むわけがないんですね。でも私は余裕があるといえば余裕はあるし、無いといえば無い状態。今の収入内でやっていこうと思えばそれはそれでいいような気はするけれど、いつも書いているようにインフレってとんでもなく怖いもので、収入を使い切るってことは先細りになるし、資産に対する一定の%(例えば3%)を積み上げる作業は止めるわけにはいかない。
でもその%を確保しながら悠々自適に生活するってのは簡単ではない時代に突入した。ここが問題。世界は金余りになっていてお金でお金を生むのがどんどん難しくなっていますから。
でもそもそも自分の終わりが遠くない将来に見えてきた歳になってまだそれにチャレンジし続けるべきかどうか。
ここで私は弱気になっていました。そして多くの退職者の様に自分も生きるべきだと考えるようになっていました。多くは望まず、背伸びもせず、できることをやってその中で楽しみを見つけていこうと。それが「老後」というものだと思っていたんですよ。
じゃぁ、自分としてはこの辺かなぁ・・とか想像してみるんですが、やっぱり面白く無いんですね。自分が想像していた老後とは随分違いますから。かといって蓄えたものを切り崩して好きな生活をするなんて恐ろしいことは出来ないわけですよ。これは理屈じゃないんですね。種籾を食べてはいけない、商品に手をつけてはいけない、なんてのは生きるための基本中の基本ですから、足りなければ倉庫から取ってきて食べればいいじゃん、なんてことは絶対にできない。それどころかインフレ分を積み上げないと長い年月のうちには破綻するのは明白。
また私は子孫にお金や知識も含めた「資産」を残すのはアタリマエのことだと考えていて、一般的にいう「美田を残すな」とかそういうのは「奴隷の発想」だと思っています。支配する側が支配しやすいような「倫理」を作って世に広げているような気さえします。親は親、子は子というのが世界の常識のように思われていますが、お金という意味ではなくて親から子に残し伝えるべきものってたくさんあると思うんですよ。でも多くは「子は社会から学べ」と突き放す。つまり、親と子が線で繋がっていないんですね。
これって支配する側からいうと最高のはずで、民が力を蓄え、それを結集して立ち向かってくることはないわけですから。
私は商人の生まれですから、この辺の一般的な考え方にはどうしても馴染めません。農家もそうでしょう。親が荒れ地を開拓しどうにかそこそこの田畑を作ったとして、自分の代が終わるときにその田畑を処分して老後の為に使う。子供は子供で勝手にやれなんてことはあり得ないじゃないですか。
これは商店も同じで、店舗や商品、資金、理念、ノウハウ、秘伝とか含めて子孫が受け継ぐから老舗が成り立つし、企業とて同じで創業者あるいは社長が死んだら会社は解散、あとはゼロから作りなおせば?なんてことはあり得ない。国も同じで我々の生活は過去の遺産の上に成り立っている。形のない技術、知識もそうで、残す側に残そうという強い意志もなく、継ぐ方は継ぐ意識もなければ全て霧散する。
それなのに個人の場合は、親は親、子は子で切れてしまって繋がりがないのが当たり前って絶対におかしいと思うわけです。一般的には教育を・・と言いますが、それはそれで良いってことじゃなくて、それしか出来ないというのが現実だろうと思うわけです。でもその教育さえ大事なお金のことは教えない。たとえば「個人保証」や「手形」ってどれだけ恐ろしいか義務教育で教えない事自体、教育制度そのものに何かの企みがあるんじゃないかと思うくらいです。
使いやすい部品、歯車の大量生産。それが今の教育の基本だと考えています。
でも治める側はそれを望んでいて、「相続税」はまさにそれだと思ってます。富の再分配と言えば聞こえは良いですが、富の蓄積をさせないという強い意志をそこに感じます。民は皆等しく平で裕福ではないほうが良く、ても貧困が広がるようじゃ困るけれど富は治める側が握る。企業も同じで社員は貧しく会社が金持ちのほうが良い。
飼っている羊には衣食住とそこそこの娯楽を与えておけば管理は容易い。
私はこれに反発したいと若い頃から考えていまして、オーストラリアには贈与・相続という税制上の概念そのものが存在しないのもいいじゃーんなんて思っていたわけです。でも税金が高い。(笑)
ま、そんなこともありまして、子孫に残すものは残すのが親の役目と考えていまして、それは金という意味ではなくて知識や技術ノウハウ全て含みます。
ところがやっぱり世の中は甘くなくて、そう簡単にはいかないし、老後にとんでもない金が掛かる。それも下手をして長生きすると生涯収入の大きな部分を食うことになる。悠々自適に・・なんて言っていると生涯収入の額と同じくらい掛かるかもしれない。これは自分と嫁の将来を考えてもそうで、悠々自適の生活を考えた場合、種籾も食うとか田畑も売る必要が出てきてしまう。
私がなぜ若い頃からサラリーマンを選ばなかったかというのはそういう考え方を持っていたからで、でもハイリスクを取る生き方をして果たして生き延びられるのかどうかはわからない。正直なところ、20代でこりゃヤバイかもと思ってました。自分の周りからどんどん人が消えていきますから。中には20代で自社ビルを持つような友人もいましたが、やっぱりすぐに消えていった。ま、中小企業の世界なんてそれが普通。私も結婚直後にサラ金にお世話になったこともあるし。(笑)
サラリーマンを一生続けないにしてもサラリーマンも学校、修行と同じように考えて、自分に実力をつけるという手もあるわけですが、そんなことに気がついた時には時すでに遅し。だから残念ながら私には商人の家に生まれて自然に身についた商人の感覚と、あとは自らの失敗の重なりの中から覚えた限定的、中小企業的な知識、ノウハウしか無い。小学校から進学校に通っていましたが、学校で教わったことは何一つ生きていない。大企業に関しては取引の中で外から見える部分しかわからず、内情はどうなっているのか全く知らない、経験もない。まさに野良犬ですよ。(笑)
でもそんな生き方をしていて今があって、過去を振り返っても当時は真っ青だったものの、今思えば微笑ましいことばかりで、大きな問題らしい問題には出くわさなかったのはラッキー以外の何ものでもないと思っています。
そういう生き方をしてきましたので、老後は大人しく背伸びもせずつつましく・・なんて人並なことを考えても途中で思考が停止しちゃうんですね。
で、そういう状態の時に読者の方からコメントを頂いたわけです。
「好きなことをすれば良い。お金が掛かるなら掛ければ良い。お金がなければ削れば良い」
と。これって正解だけれど乱暴で、じゃぁ自分が望む生き方をするのに年間2000万掛かるならそれだけ掛ければ良いじゃないかという考え方。
でも何かこの言葉が自分の心に引っかかっていて、ずーっと考えていたんですよ。どうして自分はこぢんまりする考え方になって、でもそのくせ、どうしたら良いのか良くわからないし、具体的にどうするか結論が出ないのはどうしてなんだろうと。
そこでハッと気がついたんですわ。いつの間にか自分からチャレンジ精神がなくなっていたと。
上の言葉にもうひとつ付け加えるべき言葉があって、私はそれを忘れていたということに気がついた。要は
「好きなことをすれば良い。お金が掛かるなら掛ければ良い。お金がなければ削れば良い」これに「お金がなければ稼げば良い」
ってことなんですね。私の生き方って若い頃からそういう考え方が基本でやってきたのに、自分は老人だから老人らしい生き方をするべきだと自分で自分を縛っていたんですね。でもなんだか面白く無い、なんか変だとうっすら感じていたのはそういうことなんだろうと。
自分が野良犬であることを忘れて、最後はまともに生きようなんてバカなことを考えていたんですね。(笑)
ま、基本的なことは変わらないにしても、基本は基本として、あるべき姿はそれは目標ということにして、やっぱり最後の最後まで自分を燃やさないとダメだってことに気が付きました。守りに入っては駄目だし、そもそも守りなんて経験したこともない。だからどうしても居心地が悪いしどう生きたら良いのかわからないのでしょう。
マレーシアに行ったらああしようこうしようというのはそれなりに計画はありましたが、その基本に「資産防衛」「安全は絶対に確保する」という箍をはめて考えていました。でもそれはチャレンジじゃないんですね。自分のできる範囲で何かをするのは、それはただ単に一つの道を選んだだけ。これじゃ飛躍は望めない。満足もない。そもそもマレーシア行きを決めた原点に「逃げの発想」があったわけです。だから盛り上がらない、生き方が決められない、なんとなく面白くないのは当たり前なんですね。
野良犬であることを卑下すること無く、楽をすることを考えること無く、達成すべき目標は失わないにしても、やらねばならないと思うことは躊躇せずにやる。その結果がどう出ようとそれで行くしか無いし、これが私の本質なんだろうとやっと気が付きました。
死ぬときにはヨメさんや子供に囲まれて「有難う」と言って死にたいと思っていましたが、「ごめんな」でも良いかもしれない。そして今までもそんな生き方をしてきたってことなんですね。それを忘れていました。
いやー、読者のちょっとしたコメントで目が開きました。やっぱりブログをやっていたよかった~~。読者の方にはキッカケをもらって本当に感謝しています。
ムラムラとここのところ忘れていた炎が燃え出しましたぜ。波乱万丈、大いに結構。その線で行きますわ。
マレーシア、待ってろよ~~~~。