持って行けない我が家の思い出・・・

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自宅の整理はかなり進んだのですが、フト、持って行けない思い出があることに気が付きました。

我々のオーストラリアでの出来事、子どもたちの成長、それら全て刻みこまれたこの家そのもの。家こそが何よりも大事な私達の思い出だと気が付きました。

毎日毎日、見て過ごしたこの眺望もそう。

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マスターベッドルームのバルコニーから裏庭を見た方角の眺望がこれ。

裏庭は川に面していて、自分の家から桟橋が出ていまして、こういうウォーターフロントに住んでいる人たちの多くはモーターボート。あるいはクルーザーと言っても良いような大型の船を持っている。中にはヨットというより帆船と言うべきマストが3本あるような大きな船を持っている人もいる。しかし我が家には船は無く、ポツンと桟橋があるだけ。(笑)

もちろんこの川を下れば大海に出られる。この川も単に川が流れているってだけではなくて、我が家の目の前のスポットは釣りの好ポイントでもあって夏休みの時期になりますと何艘も釣りを楽しむ船が停泊していたり。もちろん桟橋から釣りは可能で、年がら年中、黒鯛、キスが良く釣れます。冬場には黒鯛は40センチ級も釣れて、また夏場には小魚を追ってシマアジ(トラバリー)も入ってくる。たまにイルカの群れも見たり。

蟹の仕掛けを桟橋から投げておけば、いくらでも大型のマッドクラブが穫れるような川。でも底が泥地ですから透き通って綺麗に見える川ではない。

こちらに来た当時は釣り好きのヨメさんと、酒と肴を用意して桟橋で宴会を開きつつ、一晩中釣りをするなんてことをよくやっていましたっけ。

思い起こせば、ウォーターフロントの家ってなんなのか初めて知ったのが21歳の時にアメリカはシアトルへ行った時のこと。ワシントン湖の周りに家が建っていたんです。大きな家で芝生の綺麗な庭があって、芝生が終わるところは湖そのもので波打ち際には水がピチャピチャと・・。桟橋もあって大きなクルーザーが係留してあって・・・。びっくりしましたね~。そもそもクルーザーなんて個人が所有するということさえなんだか良く理解が出来ない私でしたから。またシアトルには世界第三位だったかの運河があるんですね。ワシントン湖と大海を結ぶ運河。そこへ行って見ていると、湖の遠くの方から船が集まってくるわけですよ。そして運河に入って、水位を上げ下げして海へ出て行く。

それを見ていた時に、目の前に大きなクルーザーが運河の中で停まったんですよ。奥さんはサンデッキで寝そべってボーグか何か読んでいたんでしょう(笑)。旦那と子どもたちは忙しげに動いて船が岸壁にぶつからないようにクッションを置き、船の様子に気を配っていました。

私は運河の上から大きな声で声をかけてみたんですよ。

「これからどこに行くんですか~~~」って。

「バケーションでバハカリフォルニアまで行くんですよ~~~」ですと。

バハカリフォルニアってどこだかご存じですか?ロサンゼルスより下のあのメキシコの左側にある細長い半島のこと。

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バハカリフォルニアって・・・、シアトルから一体何千キロ、何日掛かるんだろうか。家族のバケーションって、どれだけの休みなんだろうか。日本で家族の夏休み旅行って言えば、熱海か箱根に1-2泊の旅行ぐらいしか知りませんから、この人達、冗談を言っているんだろうと思いました。また、本当だとしたらどんな仕事をしている人たちだろう。いくらぐらい稼いでいるんだろう。資産はどのくらいあるんだろう、そんなことをずーっと考えていました。

またいつの頃だったか、サンフランシスコへの直行便でアメリカに行った時のこと。アメリカ大陸が見えてきて、やっと着いたか・・なんて思いながら下の方に見える住宅地を見ていたんです。するとあちこちがキラキラ光っているんですよ。あれってなんだろう・・と思ってスチュワーデスに聞いてみたんです。するとその答えは「ああ、あれはプールですよ」ですと。

プール・・・・。プールのある家がこんなに多いのか・・・ってぶったまげましたっけ。

そうかと思えばロサンジェルスに行った時、あちこちで石油を掘っているんですね。街の中、フリーウェイの横。ありとあらゆるところにあのシーソーみたいな機械が動いていた。

「日本って、こんな国と戦争をしたのか・・・。バカだ・・」と思いましたっけ。

20代前半の頃ですから、豊かなアメリカを見た時には本当にびっくりしました。カルチャーショックなんてもんじゃありません。当時の我が家はそこそこの生活をしていましたが、元はといえば我が家は新橋の小さな商人で、オヤジはバクテリアほど小さな中小企業のオヤジで、私が子供の頃は新橋のお店の上、6畳ぐらいの部屋が3つ並んだところで親子4人と住み込みの従業員数人が住んでいたし、もちろん風呂も無ければプライベートもないし勉強部屋どころか勉強机もない生活。ま、50年以上前の下町の商人の家なんてどこでも似たようなものですが、アメリカって豊かでなんでもあって・・・・、じぐしょ~~~~、今に見てろよとメラメラと燃え上がるものを感じましたっけ。

そんなこともあっていつかプールのある家、ウォーターフロントの家に住んでみたいと、20代の前半には思っていたんです。

で、紆余曲折の人生でしたが39歳の時にヨメさんと3歳1歳の子供を連れオーストラリアに渡り、それが実現した。

この時の達成感ってなんとも言えませんでした。アメリカで見た屈辱的といえるほどの生活の違いを自分は乗り越えたと思った。

ところがですね、所詮、貧乏人の浅ましさってのがあって、その後のことまで頭が回らないんですね。大きな家を維持するにはそれだけとんでもない経費が掛かることを甘く見ていました。芝刈り、プールの維持・清掃は当然のこと、バスルームが8つ、フルキッチンが2つ、サウナ、ジム、多目的ルーム(テニスの壁打ち練習が出来る)もある家の掃除を誰がするのか?また常にどこか不具合が起きるんですね。それの修理費も大変でした。また自治体へ支払う固定資産税みたいなもの(固定資産税は無い)水道、電気代だって恐ろしいわけですよ。

でも背伸びをして生きているアホにはそれが買う前に想像できなかった。(笑)

家も可哀想だと思いましたよ。まともなオーナーならちゃんときっちり手入れをしてくれただろうに、私達みたいなのがオーナーですからどんどん家は駄目になっていくんですね。買った当時は近所では良い家だったのが、時代の変化で周りの家はどんどん改装、改築して現代的な凄い家になっていくのに、我が家だけ取り残されて行きました。なんでここの地区にこんなボロ屋があるの?みたいな。(笑)

でもま、背伸びをしたからそういう家にも住む経験が出来たし、良い思い出をいっぱい作れたし、結果的には隣の家の半額以下という価格でしか売れないけれど、買った時よりは高いわけで、文句を言ってはならないと自分に言い聞かせています。

私は信心深いわけではありませんが、家を買った時には日本酒の一升瓶を買ってきて、敷地の隅から隅までお清めをして、盛り塩をして、安全・安泰な生活を祈願しました。きっとその気持をこの家も受け入れてくれたのでしょう。私達4人を静かに優しく見守っていてくれました。

ボロ屋のままで出て行くなんて本当に家に対して申し訳ないと思うのですが、我々にはどうにかする力もない。きっと新しいオーナーがピカピカにして素晴らしい家に戻してくれることでしょうし(改修に1億以上掛けるとのこと)、心の底からそれを願っています。

我が家よ、今まで本当にありがとう。

 
 
 

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