なーんもオーストラリアのことなんか知らずに「移民として」家族4人で渡ってきたダボ家。バカ、無謀としか言えないと今になれば思うけれど、この25年のオーストラリア生活って自分にとってなんだったのか、マレーシア行きを控えて考えることがあります。
やっぱり私が学んだのはオーストラリアの大自然を見て考えた「サバイバルの基本」。それは「自分で自分を守るしか無い」という当たり前のことでした。
十代の頃からグアムに入れ込んでいたのは何度もこのブログに書いていますが、私が初めてグアムに行きだした頃はまだ「横井庄一氏」がジャングルの中で生活していた頃でした。そしてその後、横井氏がいたというタロフォフォのジャングルの探検に入ったことがあります。いや、探検するつもりはなかったのですが、現地人の友人たちと8人ぐらいでタロフォフォのジャングルを抜けてタロフォフォの滝に行こうとしたのですが、案内役が道を間違え、なんと8時間以上、ジャングルの中をさまようことになった。
ジーパンの上からでも血を吸う蚊と戦い、偶然出くわすと襲ってくるというイノシシをよけつつ、腰まで川に浸かり道無き道を歩き続けたのですが、その時に思ったことは「ジャングルでのサバイバルって意外と簡単なんだな」ってこと。横井さんも大して苦労しなかったろうと思いました。なぜそう思ったかというと、私達8人はすぐそのジャングルを通り抜けるつもりでしたから、食料も水も持ってなかったわけです。でも結果的に8時間以上ジャングルをさまよった。
当然喉は乾くし、お腹も減るのですが、一緒に行ったのが現地の人達、チャモロ人だから助かったんですね。川はありましたがその川の水は飲まず、フルーツや「蔓」から摂りました。またフルーツもいろいろあって、噛んで汁を吸うだけで飲み込んではいけないフルーツとかがある。もし何日か泊まりこむことになれば、芋の類を探さなければならなかったはずですが、運良くそういうことにはならなかった(笑)。でもジャングルって食べ物の宝庫だと私は思ったんです。
だから横井さんも生きていられたし、世界に「未開の部族」がいるのはジャングルで、技術革新も何もいらなかったってのが理解できた。
つまりここでサバイバルするには、植物や動物の知識持ち、自分の手足を使えば生きていけるということ。サバイバルとはそういうもので、自分の人生も同じだと思ったんです。仕事も同じで、世界には「実」がたくさんあって、それをいかに手に入れるかを考えれば生きていけるのだろうと。
でもなかなかそう簡単には行かず、紆余曲折があったわけですが、その後、オーストラリアに渡った。
そしてオーストラリアといえば大自然。
ところがですね、オーストラリアの大自然とは「乾燥大陸の大自然」なんですね。水もなければフルーツもない。動物らしい動物もいない「無の世界」に近い。これって海外から見る「オーストラリアの大自然」とは違うはずで、草木も多く動物もたくさんいるのは「オーストラリアのごく一部」でしかなくて、基本的には「死」があるのみの砂漠、荒野。
ここで生き抜いたアボリジナルの人々はそれこそ、虫を食べ、根っ子を食べみたいな生活をしてきた。だからジャングルの未開部族と似ているようで似ていない。
大自然とは恐ろしいものだとわかったのがオーストラリア。そしていつも見ているゴールドコーストの海や空も基本的には同じだと思ったんですよ。私は子供の頃から「素潜り」が好きで、後にスキューバダイビングもやりましたが、日本の海って「フィンとマスク、シュノーケルと【ヤス】」だけあればサバイバルが可能な海だった。グアムのジャングルと同じです。海の中には食べ物が豊富にあった。
ところがですね、オーストラリアの海って違うんですね。って場所によっていろいろなのは当たり前ですが、透明度が高いということはすなわちプランクトンも少なくて「命が少ない世界」なんですね。これはグアムの海も同じで、サンゴ礁の海って「命がたくさんで、綺麗」という人は多いですが、私に言わせると「命が少ない世界」に見えます。言葉を変えれば、「人間にとって食べるものが少ない世界」。実際に、伊豆の海と比べてみればすぐわかるはずで、10メートル四方にどれだけの動植物がいるかというと天と地の差があるのね。もちろん伊豆のほうが「命の宝庫」。サンゴ礁、砂地、岩場でまるで生態系が違うのは当たり前ですが、日本はなんて陸も海も恵まれているんだとつくづく考えさせれました。
つまりですね、ジャングルの土人、オーストラリアの原野のアボリジナル、そして日本人の祖先も「サバイバル」と言葉では同じでも「環境もやっていることもまるで違う」ということに気がついた。
そしてですね、その環境の中で何千年、何万年も掛けて人間の価値観とか、生き方が決まるんだと思ったんですよ。そしてそれをそのままサバイバル方法も違うまま現代人が引き継いでいる。
自分の中にある「こうやって生きていけば良いのだ」ってのは、まさに日本の環境が産んだ「日本流の」考え方、ノウハウでしかないと。
農耕民族と狩猟民族と「個人」の考え方が大きく変わるのは当たり前だし、その考え方の延長に経済も政治も国家もある。だから世界の常識は日本には通用しないし、日本の常識は世界で通用しない。これは経済システムも同じで、進んだ海外から輸入しても日本には馴染まない。だから日本では「悪」とある日突然言われるようになった、しかし日本が長い年月を掛けて作った「年功序列」「終身雇用」そして「談合」さえ「駄目なもの」としてレッテルを貼られた。
それらの良い面もあるのにそれは無視され、西洋の考え方が良いと「洋行帰り」の学者が言えば「そうなのだろうと信じてしまう」。これは明治維新から続いた日本の悪習で、第二次世界大戦に負けてGHQによる「日本改造」によって日本は完全に変わってしまった。そして後はそれに追い打ちをかけるような外国の価値観に則った「グローバリゼーション」。
世界を相手に戦うには世界と標準を合わせなければならないのは当たり前だけれど、「日本的なるもの」を完全に壊してしまって良いのか?って思うわけです。
それとサバイバルとどう関係あるんだよ?なんて思う人もいるかもわからないけれど、我々の奥底に流れているものと、今の動きは違うってことが、人間の基礎を作ったサバイバルの違いを見てもわかるわけですよ。
そしてですね、何よりも問題なのは、「海外流の生き方」を輸入しても、まだ日本人は海外流のサバイバルを理解するまでに至っていないってこと。ここが大問題だと思うわけです。つまり、中身と着ているものが全く違う。ぬいぐるみを着て生きているのが日本人みたいな感じがするのです。
私が考える一番の問題点として、農耕民族特有の「他人を当てにする文化」があるはず。そして「変化を嫌う性向がある」ということ。皆で農作業をする社会では助け合いが当たり前で、大事なのは「和」であり「分配」。これが身についているのが日本人だと私は思っていて、これを「尊い考え方」と考えていると世界とは張り合えない。つまりコストが掛かるから。狩猟民族的な「個」を中心に考え無駄を切り落として生きていく人たちと渡り合えるわけがない。
これは自分自身、日本の経済や政治にも現れていて、一体何を大事にするのかが滅茶苦茶になってわからなくなっている。
では何を日本が切り落せば良いのかは簡単に決められることじゃなくて、「落とし所をどう見つけるか」が焦点であって、海外の真似も出来ないし、日本古来のものを押し通すことも出来ない。今、日本はそういう状態にあるという認識は大事だと思っていて、単に「原発反対」とか「戦争反対」「社会保障を充実させろ」ってのは上辺の話でしか無いと思うんですよ。逆に「経済最優先」も日本人には馴染みのない考え方で、それを主軸にした論議も空回りするだけ。
じゃぁどうするかって結論を急ぐのではなくて、今の日本の矛盾はまさに「日本の歴史」に関係しているのを理解して皆で新しい次の時代をつくるしか無いと思うわけです。俺が俺がという連中に日本の将来を託すことは出来ないってのはそういうこと。
また民主主義は海外から輸入された概念だというけれど、これもまた違っていて、日本は大昔から民主国家であったと私は思っています。まさかと思う人は「民の目線」でしか見ないからそう思うのであって、世界の歴史から見てみれば、日本は古くから民主国家であって、独裁者も奴隷もいなかった言って良いと私は思っています。戦国時代もあったけれど、あれは世界の歴史から見れば「兄弟げんかレベル」だと私は思う。私はこの日本的な民主主義も捨てて、海外仕様のものを輸入したところに日本の間違いがあると思っています。共産主義なんかとんでもなくて、あれは民のためという名目の独裁主義としか私には思えない。皆が平らであるためには「異端は抹殺する」となるのが当たり前で、これは世界だけではなくて日本の共産党の歴史でもあるのは皆が知っているとおりで、今の志位委員長の努力で日本共産党はソフト路線に見えるけれど、本質はまるで違う。
と同時にですね、嫌がおうでも世界の中に入っていくわけですから、「他人を当てにする考え方」。つまり言葉は悪いけれど「サラリーマン根性」と例えれば一番わかり易いのでその言葉を使いますが、これも「日本独特の価値観」だと思うんです。「寄らば大樹の陰」「事大主義」とも言える。つまりですね、皆でタバコを吸いながらあぜ道に座って「豊作を願う」のではなくて、「獲物を自ら探しに出る」積極性がない限りもう生きては行けないってことじゃないですかね。もちろん、「百姓一揆」をして「富を放出しろ」とか「保証しろ」なんてのもズレている。
でもそれが「日本という国土」で生きていくにはそれで良かったのは間違いがない。でも世界は変わった。
オーストラリアの大自然は日本人が思う大自然と全く違っていて「生命に溢れる天国」「富を分かち合えるパラダイス」ではなくて、「死が忍び寄る世界」だと感じます。私はアフリカや中東に行ったことはないし、ああいう原野、あるいはまさに「死の世界」の砂漠も知らない。でもそういうところに数千年生きて、サバイバルを続けてきた人々、文化や価値観をその中で作ってきた人々と我々は戦う、あるいは手を取り合って進まなくてはならない時代に、日本人は「豊かな大自然」を背景に持った価値観で生きていけるとは思えないわけです。
是非、若い方はオーストリアに来て、「素晴らしい大自然」を見るだけではなくて「生命が生き延びることさえ難しい荒野」を見て欲しいと思います。オーストラリアの上を飛行機で見るとびっくりするはず。テレビで見た大自然とは違う光景が見えるはず。赤っちゃけてくちゃくちゃにした新聞紙を広げたような大地が延々と続くのがオーストラリアの本質。
多くの人が素晴らしいと絶賛する大自然はオーストラリアのごく一部、大陸の周辺部にちょっとあるだけなのがわかるはず。
私達が感じる「素晴らしい大自然」とは「水と緑が多く命にあふれている自然」なんですね。砂漠を見て「大自然だ~~」と感動する人は少ないはず。
でもそういう「自然と死は隣り合わせ」の世界に生きてきた人たちが世界には大勢いて、その環境の中で「サバイバルをしてきた人たち」が日本人の競争相手であることを忘れてはならないと思うんです。
生きるということは「奪う」ことであると普通に考えている人、国が存在するのはそういうことで、歴史を見ればすぐにわかる。だから日本人は「民度が高い」なんてニヤニヤしていてはならないはず。でも彼らに合わす必要は全くない。しかしそういう存在があることに目を向けなくてはならず、日本人が「性善説」で人間を語るのは、単にそういう自然環境、協力し合えばどうにかなった環境、「(競争相手を殲滅することなく)話し合いで多くのことが解決できる世界」でサバイバルをしてきたからだけなんだということでしょう。「平和ボケ」なのは当たり前で、それだけ日本人は歴史的に恵まれた環境で生きてきた。常に「生きるか死ぬか、殺すか」を考えて数千年も生きてきた人たちを理解することは出来ない。しかしそういう「恐ろしい世界」が「生命の根源」であるのが自然界を見ているとよく分かる。「助け合い」は存在せずに「殺すか利用するか」しか無い。
私がオーストラリアの大自然に学んだことはそれ。日本流のサバイバルは世界に通用しないってこと。自分を助けてくれる人も友人も組織も会社も国も、手を伸ばせばそこに食べ物があるわけでもない。これが世界の原点じゃないんでしょうか。
それがわからない限り、世界と渡り合うことは不可能だし、生き残ることもできない、と私は思う。
でも日本人には当たり前の「和」の精神こそ、世界が何千年掛けて到達したいと願っていた理想であるのも間違いがない。これは憲法に何が書いてあろうが関係なく、9条があってもなくても日本の精神は消えない。逆に9条は日本の根底にある素晴らしさを規制している。そしてその日本人らしさが解き放たれることを怖がったのが世界を我が物にしようとしていた連合国。だから日本にあの憲法をおしつけ、(憲法の前文にあるように)連合国こそが世界の善と決め付け、過去の悪行を正当化し、日本の手足を切り落とした、と私は思う。連合国による世界制覇を邪魔した日本に対する制裁、世界に対する見せしめ。そしてそれを利用して、勢力を伸ばそうとする国々が日本の近隣に存在する。
つまり、「理想の世界」「人類の夢」を叶えるのには「日本人こそがそれを作れる基盤」を持っているってことでもあると思うし、それを武力や侵略によって押し付ける現代の日本でもないのに、それを忘れて「海外かぶれ」「自虐的」「日本にちょっかいを出す外国にへつらう、黙って見逃す」ようになるのはアホとしか言い様がないと思うわけです。「平和を望むのとは逆のことをしている」自覚がない。
それを私に教えてくれたのがオーストラリアの大自然だったってこと。
日本人を育て作った環境は「世界には無い」のであって、それによって出来た日本人の価値観は世界には通用しないってこと。そしてそれを押し通しても日本は勝てないし、消えていく運命にあると思う。
と、同時に、世界を救う希望も日本の中にあるってことだと思うんです。
「バカとハサミは使い様」。でも日本人はそのハサミの使い方にまだ気がついていない。ちょっと昔にバカなハサミの使い方をして痛い目にあって、そのハサミを封印しようとしている。ハサミは「軍事力」って意味じゃないんです。日本の良い所を何千年もかけてやっと集めた「大事なもの」。それがハサミ。