マレーシアの新規感染者の数だけ見ていると、ちょっとだけ減ってきたと感じる程度で、まだまだ楽観できず。
でも先程見たグラフだと、期待できるかな?と思いました。
それは実効再生産数がかなり急激に落ちているようだから。
下のグラフの【赤線】が実効再生産数。
2021年2月8日現在。
今は感染者数が多いからピンと来ませんが、「新たな広がり」という意味では確実に減っているのかもね。
私としては「全体の数字」って意味がないと思っていて、自分の生活範囲がどうなっているのかが一番気になります。
クアラルンプールのR0はまだ1以下にはなっていませんが・・。
生活範囲での広がりを知る手立ては、あのスマホのアプリしかなくて、それで「半径1キロ以内の2週間の感染者数」を見ると、21人とでる。かなり減っている感じがするのは気のせいかなぁ。
マレーシアのこの手の統計って、前はいろいろあったけれど更新されていなかったり、また保健省が出すグラフもなぜかコロコロ変わるのね。
最初の頃のほうが私は見やすかったんだけどなぁ。こういう表示方法を変えるということは、そこに「何らかの意図がある」はずで、それは日本も同じだけれど、「ある方向に誘導したい」のだろうと思ったり。
ただマレーシアの場合は「注意喚起」が常に中心にあって、一度も気を抜いた感じはなかったと思う。
気になるのは日本。
オリンピックを必ず開催する意気込みなのは間違いがなくて、必ずやるのだろうとは思うのだけれど、「開催反対の大きな声を抑える」為に政府は動くはずだと勘ぐっています。もうすでにそれをやってるかな?
ただPCR検査に関しては、今じゃそれが基本になっているけれど、元はと言えば「確認に使える程度」の精度しかないわけで、多く検査すればするほど「偽陽性」「偽陰性」が出るのは【絶対に間違いがない】こと。つまり真に陽性ではない人が隔離され、隔離すべき人は野に放たれる。
それと国によってまるで違うらしいけれど、えーと何ていうんでしたっけ。PCR検査って「何倍にも増やして検査する」わけだけど、その倍率が各国いろいろの様子。日本の場合はそれが異常に高いと言われていて、「RNAの欠片」があっただけで「陽性」と出るくらいだと。
また「陽性」と「感染」は全く別のことで、感染するにはそれなりの【ウィルスの数】が必要らしいけれど、それの数百分の1のウィルス、あるいはRNAの破片があっただけで「陽性」とでる。そしてその場合、「感染者」とされる。
「無症状が多い」のもこれに大いに関係があるんじゃないですかね。つまり「陽性ではあるけれど、感染はしていない」のかもしれない。
だからPCR検査を最重要視するって変だなとは思うし、そういう状態の全世界を否定する論者って少なくないのだけれど、「じゃぁPCR検査をしないでよいのか?」「何を基準にするのか?」という【代替案を出さない】のはたちが悪い。
政府も自治体も医師も「PCR検査とはそういうものだ」なんてのはとっくのとおにわかっていて、それでもそれをベースにやろうと「決めただけ」じゃないんですかね。またその方法を途中で変更するのも難しいはず。ただ上に書いた「何倍にも増やして調べる【倍率】を変える」こともこれから起きる可能性はあるわけで、そうすれば「陽性者数は激減する」。
でも検査対象者を変更したり、検査のそういう内容を変えると「過去とのデータの繋がりがそこで絶たれる」のは間違いがなくて、それも困りますよねぇ。これは学者にとっても非常にわかりずらくなるし、統計の意味もなくなるんじゃないかと。
でももし「感染者を少なく見せたい」と権力者が考えれば、そうする方法はいくらでもあることは我々も理解して置く必要があるんじゃないですかね。現状は変わらないのに「数字だけ減って」、私達がぬか喜びする様な時が来るかも知れない。
でも私が一番気になるのはそういう細かい話ではなくて、「陽性」と「感染」は違うことにプラスして【感染を広げる人】も全くカテゴリーとしては別だということ。
で、大事なのは「感染を広げる人」であるのだけれど、残念ながらこれの検査方法もなく【経験的にわかっている】ていど。
どういうことかというと、この図がわかりやすい。
赤線が「発症日」。
感染を広げるのは「発症日を挟んだ1週間ぐらい」と言われていて、つまり、「具合いが悪いなぁ、感染したかな?」と思ったときにはもう遅い。そしてPCR検査を受け、陽性となった頃には「もう感染は広げないステージに入りつつある」と。ましてやその後、具合いが悪くなるのは「ウィルスそのもののせい」ではなくて「サイトカインストーム」つまり「免疫システムの暴走」で、その時点では「感染は広げないステージに入っている」という学者も少なくない。
これが事実だとすると、かなり遅れて「後を追いかけている」となるし、防疫システムそのものが的外れとなる。(ただ「濃厚接触者」を徹底的に洗うのは良いかも知れない。症状が出るまで待たないから。そういう意味でマレーシアは結構頑張っていると思う。スマホのアプリも無駄じゃないんじゃないかなぁ。)
でもねぇ、防疫システムが後追いでしか無いとしても、はいそうですかとシステムの変更はありえないですよね。もしもその理論が99%正しいとしても「万が一、間違えていた場合」「例外がそれなりにあった場合」は感染爆発は起きてしまうわけだから。そしてそれの責任を取る勇気がある学者も政治家もいないはず。
きっとこれはコロナも終わって何年もしてから「検証」するべきことであって、今の時点で何が出来るわけじゃないんじゃないですかね。
ただ今でも「隔離は10日~14日で良い」と考えているのは、「感染を広めるステージ」の事がわかっているからですよね。そしてなおかつPCR検査で「陰性」と出れば問題なしと。
結局、「人と人の接点がなければ感染しない」のは間違いがないので、【行動制限を掛ける】のは正解なんだろうと思う。
でも本来は、「全ての人がちゃんと防御に徹すれば感染は広がらない」のも事実なんでしょう。でもそれは理想論でしか無くて、「自分は自分のやりたいように生きる」「危険とはわかっていても仕方がない」という人が多いわけで、理想論を言ってもどうにもならない。
今、日本では医療従事者が疲れ果てていて、「離職を考える人」がとんでもない数だそう。
そんな記事を見ていたら、ある看護師のこんな話しがあった。
「回復した患者さんに話を聞くと、カラオケか宴会でかかったという人がものすごく多かった。プロとしては、命を助けるために全力を尽くしますが、理由を聞いたらがっくりとくる。モチベーションも下がってしまいますよね」
結局、日本もマレーシアも「安全策を取る」しかないわけで、それが論理的にどうじゃこうじゃいうのは学者ならまだしも、素人が「自分が賛同できる論者の意見ばかり集めて【ああしろこうしろ】という」のは百害あって一利なしでしょう。
「決めたことは守る」のが我々のするべきことであって、それの批判をするのは自由だけれど、行動としては決まりを守らないとそこから「ダムの決壊」みたいなことは起きる。
私達はそういう意味でも、多くの感染者の意見を聞くべきだと思う。
自分が簡単に考えていたのが原因で、大事な人が亡くなってしまったり、中には、感染を家族にも黙っていた奥さんがいて、結局、一家全員死んだ例もあった。
「コロナなんて風邪と同じだよ」と考え、それを口に出すのは自由。でも行動としては「決まっていることは守る」ようじゃないと、それは「他の人達に対する【攻撃】と同じだ」というのを理解すべきだと思う。行動制限、SOPを守るのは「個人の問題」ではなくて「コミュニティーの問題」だという認識は重要だと思う。それどころか、明文化されていないことでも、「もっと自分にできることはないのか」を探すのがコミュニティーの一員としての義務だろうとさえ思う。
「マスクを着用してください」という【決まりがある】飲食店に、「なぜマスクを着用しないとならないのだ」と議論を吹っかけた超有名人がいて、結局それが元となって炎上し、その飲食店は営業を止めたなんてことがあったけれど、どうしてああいうトンチンカン、自意識過剰、ナルシストが世の中でもてはやされるのかが私には理解が出来ない。
どういう考えを持とうとそれは構わないんですよ。でもその自分の考えを元に「他人に迷惑を掛ける」なんて私には考えられない。矛先を向ける方向が違うんじゃないですかね。決まりを守り、努力をしている一般の人たちに文句をつける、議論をふっかけるのは八つ当たり以外の何物でもないはず。
それとは逆の「自粛警察」なる人達も存在する。感染者や感染者の家族を攻撃したり、他県から流入してくる人たちを排斥したり。マスクをしていない人に喧嘩を売ったり。
結局、この両極端は「一枚の紙の裏表」でしかないんじゃないですかね。私には全く同じに見える。
去年のいつだったか、行動制限があるのに「ジョギングぐらいは構わないだろう」と思ってジョギングしていた日本人も逮捕されましたよね。そしてすぐ裁判。
そしてその罪状は「公に対する攻撃」なんですね。
その裁判にかけられた人が「公に対する攻撃だとは思わなかった」と供述していたことも報道された。
「どうしようと自分の勝手だろう。感染したら感染したで自己責任なのはわかっている」という【日本的な発想】は世界に通用しない。
そういう意味では、テレビのインタビューに答える「飲食店のオーナー」の多くは「冗談じゃないけれど、決まりは守る」というのは流石、日本だと思ったり。彼らの経済的、精神的負担は大きく、彼らにそれが集中しているのにも関わらず、決まりは守るという態度に頭が下がる思いがしました。(当然、そういう人の意見しか報道しないにしても)