終戦記念日に思うこと。
私たちは誰でも「善人」でありたいと思う。
それは当たり前で、そういう社会でなければ皆が平等で安心して生きていくことは出来ないし、その社会が混乱しないように「法律」も作れば、善人であるべきと教育もする。人類が宗教なるものを作ったのも同じでしょう。
でも世の中って善人ばかりではないし、善人でも「自らの生存」が難しくなったら大きく変貌する。法律を守ることによって自分が生きられないのがわかってもしょうがないと死を受け入れますかね。
それは国家そのものも同じだと思うんですよ。どんな汚い手を使ってでも生き延びようと考える。
でも「そんなことがあってはならない」と皆が思う。
私はそんなのは理想論でしか無いと思っています。
戦争も同じで、「面白半分で戦争するバカはいない」でしょう。「このままでは国家そのものの存続が難しい」と考えれば、生死を賭けた勝負に出るのは【当たり前】だと思うわけです。
でも中には「より豊かな生活」を求めて、「他を攻撃して利益を得よう」と考える人、国家も出てくるんでしょう。
でもよっぽどのことがない限り、「生死を賭けて戦う」ことを選ぶケースは少ないんじゃないですかね。だから「戦争をちらつかせて、弱い相手から妥協を引き出す」こともする。
そしてまた、「今はまだ大丈夫」だとしても、「このままでは将来的にまずいことになる」と考えれば、ルール度外視で行動に出るのも当たり前。私は中国がこの状態だと思っています。あれだけの人口の国民を豊かにする(押さえつける)には資源も金も足りない。
でもルールを無視すれば風当たりは強くなるから、「消したい相手をジワジワと追い込んで、その相手が先にルールを破るようにして自爆させる」ことは誰でも考える。
私はロシアのウクライナ侵攻はまさにそれだと思っています。プーチンは乗せられた。乗らざるを得なかった。
近代の戦争ってそういうケースが多いんじゃないですかね。「先に手を出したやつが悪い」のは世界の常識だから、「先に手を出すように相手を追い込めば良い」ことになる。あるいは「とんでもないことを計画していると嫌疑を掛ける」。真珠湾攻撃もベトナム戦争のトンキン湾事件も、湾岸戦争、イラク戦争も同じ。
でも実際にどちらが悪いのかは民衆には見えないし、当然、仕掛ける国はその大事な部分は見えないように計画をし行動する。
これに「理想論ばかりで現実を見ない民衆」は乗せられてしまう。
これは後になってわかることであって、その時にはわからない。
そもそも「戦争反対」と叫べば戦争がなくなるのか?
「核の廃絶」と叫べば核はなくなるのか?
私は絶対にそれはありえないと考えています。
自分は戦争はしないと決めても、仕掛けられたら戦うしか無いし、戦うことを拒否すれば、「相手の思うつぼ」になるだけ。国家や民衆、文化伝統、言語も消滅させられることもあるのは世界の歴史と「今起きている現実」を見れば簡単にわかること。
この「戦争反対派」の質が悪いのは、「戦争反対を叫んでいたのに侵略された国を助けようともしない」こと。そしてそれが将来の我が身にも起きるかもしれないことを想像さえしない。「いじめをするな」と叫ぶだけの人たちと同じで、いじめを見ても見ぬふりをする。
「戦争反対」という人たちは、私にしてみれば「臭いものには蓋をしろ」と言っているのと同じに聞こえるんですよ。「戦争反対」というのは【絶対に解決策にはならない】のに。「9条を守れ」も同じ。この9条を守れという信条が恐ろしいのは、「いじめを見ても見ぬふりをしろ」というのと同じで、「家族が暴漢に襲われても何もするな」という考え方。
核も同じで、全世界で核廃絶を決めても、あれほど強力な武器を手にした国がそれを捨てる訳がないし、捨てると表明しても「隠し持たれたらアウト」じゃないですか。もし隠し持っているのが発覚したらどんな「罰」を与えるんですかね。当然、その国家、政府は消滅するぐらいの罰を与えなければ「隠し持った方が得」となるし、唯一、核を持っている国家にどうやって「その国や政府が消滅するほどの罰」を与えることができるんですかね。
結局、「核廃絶」ではなくて、「使えないようにする枠組み」を考えるしか無いんじゃないですかね。
でもそんな条約をアメリカは批准することはない。そしてそれに日本も後を追う。
「戦争反対」も「核廃絶」も私は【恐怖に慄いているだけ】に見えるんですよ。解決策を考えないとならない時に、「恐怖に凝り固まって何も出来ない状態」と同じ。
でもその気持はよく分かるし、そうなるのが普通かもしれなくて、戦争になった時に「お母さん、僕は国を守るために戦争に行くよ」という息子に「お願いだから行かないでくれ」とすがる親の気持ちと同じじゃないですかね。これはウクライナの人たちも気持ちとしては全く同じなはず。でも本当に皆が戦争を否定したらウクライナはどうなるんですかね。
ウイグルがどういう状態なのかを知らない人はいないと思うけれど、日本で活動をするウィグルの人たちの話を聞いたことがありますかね。彼らは「もし私達が日本と同じ力を持っていたら、間違いなく中国と戦う」と言います。こういう彼らをどう思いますかね。「戦争反対派」だとすれば、「バカなことは止めておけ」という?
いやいや、ウィグルもチベットも見ないことにして、ウクライナで何が起きているのかも忘れて「頭を穴の中に入れて隠れたつもりになって【戦争反対】と叫んでいれば良い」と?それが平和?
かなり昔ですが、私の知人に「太平洋戦争時にアメリカ軍の戦闘機から機銃掃射を受けた経験」がある人がいたんですよ。当時その人は子供だったのですが、「あれほど恐ろしいことはなかった」と。そして「絶対に、どんな理由があろうと戦争をしてはいけない」という人でした。当然、眼の前で手足がちぎれたり、頭をすっ飛ばされたり、内臓が飛び出て死んでいく家族や友人知人を見たら、そりゃ「戦争をすべきじゃない」と思うのは当たり前。
でも問題を解決するには「その恐怖を乗り越える必要がある」んじゃないですかね。
もし攻め込まれたらすぐに手を上げて降参するのもわかります。でも「侵略を許したら次に何がおきるか」の想像も大事じゃないんですかね。
私の年上の友人に「満州生まれ」がいるんですが、彼は戦争末期にソ連軍と中国人が何をしたのかをよーく知っているわけで、彼は「戦争反対」とは言わないんですよ。彼は「戦争の悲惨さ」ではなくて「侵略の恐ろしさ」を見たのね。だから「侵略を跳ね返す力が何よりも大事だ」という論者になった。逃げ回っても捕まって殺される、犯される、略奪される、連れ去られる現場にいたから。
私の母は戦時中は東京から茨城県の田舎に疎開していたのですが、アメリカの爆撃機が引き上げる途中に「余った爆弾を投下する」(飛行機を軽くするため)場面に出くわしたと聞きました。危機一髪だったそう。当然、多くの家族や友人知人も戦争で失っていますが、「戦争反対」とは言わない人。でも「自分が正しいと思うことをしろ」という人でした。
面白いのが父(昭和二年生まれ)で、戦時中は高校生で東京にいましたが、戦争の話は一切しません。戦争が良いとも悪いとも言わない。何も話さない。私は偶然、父の当時の「日記」を見つけたのですが、それを父に言っても何も興味を示さないんですよ。読もうともしない。私は興味があって全部読みましたが、不思議なことに戦争に関することはほとんどなくて、毎日の普通の出来事が書かれていること。そしてその日記は「広島に新型爆弾が落ちたらしい」というので終わっていました。
ヨメさんの父は「特攻隊志願」だったそう。でも年齢が若かった。そんな人ですから「右傾している」人だったんでしょう。そんなお父さんを尊敬しているとヨメさんは言いますし、私が右傾しているのに違和感を感じないのもそれが理由かもね。(笑)
国って本当にずるいことを平気で決めるし、やると思うんですよ。この恐ろしさってとんでもなく深く強大だと思っています。まず、命を命と思わないという原点がある。いや、それは言いすぎだと思うけれど、犠牲が出ることに後ろ髪を引かれたら前に進めないのをリーダーはわかっているってことじゃないですかね。
これは企業の経営も同じで、失うものもあるわけで、その恐怖に慄いていたら前に進めないのは同じだと思う。投資も同じで、負けることもある。失うものもあるのを受け入れるしか無いじゃないですか。
「そうしないと生存競争に負ける」わけで、場合によっては国家が衰退し消滅することさえ起きるわけで、理想論をいう国は餌食になるだけ。これってトレードの世界も同じで、理論理屈を振り回したり、欲望と恐怖をコントロール出来ないトレーダーは「カモ」なんですね。私としてはそういうトレーダーが多いほど嬉しい。(笑)
弱肉強食って本当に怖いけれど、いつの時代になっても、どんな世界、分野でもそれは変わらない。
国の本質が良く分かる物語があります。
誰でも知っている「第五福竜丸事故」です。アメリカがビキニ環礁で行った広島原爆の1000倍の威力がある水爆実験をしたときの話。日本の漁船である第五福竜丸がそれに巻き込まれた。
でもそれはアメリカの圧力で公にされることはなく、犠牲者の生き残りは「放射脳の影響を調べる実験台にされた」のね。そしてそれに日本政府も協力した。そして後年、ビキニ環礁の住民の一部も「実験台として爆発地点の近くに放置された」のもわかってきた。
こういうことは「過去のこと」ではなくて、コロナと重ねて考えるのも重要だと思うし、それは未来永劫変わらないと私は考えています。
こんなことはあってはならないけれど、「仕方がない」と考える人達は多い。そういう実験やデータを集めることによって、他国より一歩進めるわけで、それは将来的な国の存続にも関わるから。
私たちは「真実を知りたい」と思いますが、【常に情報は操作される】し、【情報とは操作されるものである】くらいに私は考えています。真実を知らせることが良い結果を生むとは言えないわけで、戦争においても敵に対しては戦意喪失するように仕向けるし、味方に対しては戦意高揚するようにする。それは【国や国民を守るため】であって、しかし一人ひとりを助けるという意味ではない。
そんな酷いことを・・・と思う人が大半だろうけれど、人間って追い込まれるとどういう状況になると思います?
食べるものもなくなれば餓死するしか無い?
でも歴史的にはそんなレベルではなくて「他から奪う」し【人肉さえも食らう】のが人間の本性じゃないですか。
そしてそういう状況には意外に簡単になってしまうのが歴史を見るとよくわかる。あるいはそう追い込まれることってあるわけで、【国家はそういう最悪のことさえも想定して、物事を決めている】と私は思うんですよ。
歴史的にもとんでもない数の人々が餓死した例は多いし、その報告の裏には「人肉をも食べた」というレポートも多い。
こういう話は「興味を持って調べないと出てこない」わけですが、世界のトップはそういうことさえも起きるのをよく知っているはず。だから「理想論ではなくて現実的にどうするべきか」を考える。絶対に生存競争に負けるわけにはいかない。企業も同じで、簡単に破綻するようなことが起きるのをトップはよくわかっているし、常にそれを想定しているはず。
でもそれを一般の国民(社員も)は理解することはない。出来ないんじゃないですかね。いやあえて理解しようとしないんでしょう。
私はそれをコロナやワクチンに関しても感じました。
理想論者はああじゃこうじゃと言うけれど、国のトップが考えていることってそこじゃないと。
これは企業のトップも同じで、存続することが第一優先で、そのためにはある一定数の犠牲は受け入れる。人の命でも、物品やお金と同じ様に計算して、「切り捨てる許容範囲」を考えて物事を決定するんじゃないですかね。
でも政府は「XXXXX人ぐらいの犠牲は想定している」なんてことは【絶対に言わない】。
この「許容範囲」って私達が考えるのと国や企業が考えるのと大きな差があるわけで、生き延びるためには「手足さえも切る」ことをする。企業で言えば本社ビルや基幹工場でさえも売り飛ばし、従業員の半数を首にすることさえする。国で言えば、たとえ国民の多くが死んでも国の存続を選ぶ。まさに今、ロシアやウクライナはその方向へ動いているじゃないですか。
どの政府も「国民を守る」というけれど、それは「国民という集合体、全体」のことを言っているわけで、一人ひとりを守ってくれるわけじゃない。
理想主義者や人道主義者はこれに猛反対するけれど、そういう理想・人道主義者は国家や企業の存続に責任を持たない。自分が見て考える「狭い範疇」でああしろこうしろ、あれは駄目これは駄目というだけ。
ま、私が左翼リベラルを嫌いなのはそれが理由で、自分の理想論をぶちまけても社会も企業も国も良くならない。彼らは「あっちを立てればこっちが立たない」ことを考えないし、それどころか逆に存続の危機をも引き込んでしまう。
そして彼らの多くは「自分の理想を無視する国なんか存在する価値がない」という。でもその理想を追いかけたら国が存在しなくなるかもしれないことは考えないのね。そして本当に国が無くなったら「もっと酷い状況になるかもしれない」ことも考えない。これがまさに「革命思想」でもある共産主義の怖さで、「一度ぶち壊して新たな国を建てる」ことを考える。これは本当に馬鹿げた考え方で、新たな国を建てようと思っても、他国が勝手にそれをする事になったら意味がない。でも相手が共産主義国なら、裏で手を結んで自国を破壊することは受け入れる。
まさかと思うけれど、それこそがあの太平洋戦争の裏の顔で、コミンテルン(米政府内にも多くいた)と同じ理想を持った日本の共産主義者は「日本が負けることを歓迎した」じゃないですか。そして実際に、戦後、共産主義者が我が物顔で闊歩して、進駐軍と共に今の日本を作った。その名残が今の日本のメディアであり、教育界であり、日本学術会議であり、日教組もそう。彼らが恐ろしいのは「国家より自分の思想信条の方が上にある」という点。まさに中国のように憲法の上に共産党があるような国が理想。自由だ人権だと言いながら、実は自分たちの思想信条で国民を縛るのは【善】なのね。多様性を認めることはありえなくて、「決められた狭い範囲の中の自由と人権を大事にする」だけのことで異論は徹底的に排除する(この傾向は左傾した今のアメリカにも強くある)。仲間内でも意見が別れれば排除、粛清する恐ろしい思想。こんなことは世界史を見ればいくらでも出てくる。
左翼リベラルが力を持った企業や国がどうなったか、どうなっているかは世界を見渡せばすぐわかることじゃないですかね。今のアメリカもそう。
でも私は左翼リベラルの全てを否定しようとは思っていないどころか、「現実主義者である左翼リベラルが良い」と思っているんですが、なかなかそううまくはいかないのが現実。でも保守派が良いかというとそうでもなくて、結局はその力関係の変遷の中で私たちは学んでいくしかないんでしょうね。
戦争なんか無い方が良いに決まっている。でもどうにもならない時にはどうするべきなんですかね。またそういう時が来るかもしれないから自衛隊も存在するわけで、そんなことを考える、想定する必要もない?自衛隊は災害の時に出動してくれればそれで良い?
自衛隊は戦闘集団だと私は思うし、そうでないと困ると思うけれど、それを否定する国民も多い中、「そういう人たちをも含めて私たちは命を賭けて守ります」という自衛隊の人たちには私は感謝の念で一杯です。
【自分の命を賭けて守ります】という言葉を一文字ずつ噛み締めてその意味と意志を自分と照らし合わせて理解することは大事だと思うし、当然、日本を守ろうと死んでいったご先祖も同じで、彼らに感謝もしないどころか非難し、祀ることもしようとしない日本人が多く存在することが私には信じられないのです。
私は自分の命を賭けて何かを守ったこともないし、そう思っても本当にそれが出来るかどうかもわからない。
でも実際に命を賭けて国や国民を守ろうとする人たちが現在も過去にも存在する。これってとんでもなく凄いことだと思うわけです。
そういう人たちを捨て石にしてはならない。そういう人たちこそ、私達一般人がどうにかしてでも守らなければならない対象じゃないかと思うわけです。「命を捧げる」という人たちに、そんなことをしないで済む世界を作るのが私達一般人の責任なんでしょう。
でも現実を無視して理想論をぶちまけるのは「命を弄ぶのに似ている」と私は思う。命を守るためには命を賭けなくてはならないのが現実で、理想論が命を救うほど世の中は甘くないんじゃないですかね。
そんなことを考えていた終戦記念日。