日本の地方都市は半端じゃなく恐ろしいことになっているようですね。
私達家族は日本を出てから30年以上経ちますし、日本に頻繁に帰ることもなく、日本の地方で何が起きているのかなんて知りませんでした。ただ、「地方が廃れている」と聞くばかりで実態はわからず。
日本の様子はニュースやユーチューブで見ていますが、その多くは「面白く興味があることばかり」で、地域の人口が激減したとか、商店街が壊滅したとか、かつての賑わいが消えた都市とか、そういう実態を知ることはありませんでした。
ところが最近、良く見ているユーチューバーのそういう地方の実態を調べる動画が増えてきて、それらを見て驚愕しました。かつては誰でも良く行った「鬼怒川温泉」が【廃墟】になっているとか。私の大好きな「富山市」も閑散としている。そして思い出がたくさんある「高岡市」なんて灯火が消えそうに衰退している。北海道の「夕張市」が破綻したのはもちろん知っていましたが、現在の状態が本当に酷いのね。そしてそれに似たような地方都市がゴマンとある様子。
ま、「仕事がない」「収入が低い」となれば「仕事があって収入が良い地域に渡る」のは当たり前で、いくら愛着がある故郷でも「人口が激減し、経済が衰退し、生活が難しい」となれば、出ていかなくてはならないのもわかる。
そして私が思うことは、【日本そのものにもそれが起きている】ってこと。
ま、我が家の場合は1991年に日本を脱出し、オーストラリアへ移民したわけですが、当時の日本はバブルが弾ける状態で決してどうにもならない日本ではありませんでしたが、ある種の「日本の限界」を感じて「将来性はない」と思ったのが日本脱出を決めた理由で、特に「子どもたちにとって日本は良くない」と考えました。「オーストラリアが良い」のではなくて【日本を脱出すること】が目的だったわけです。
その日本が変化し、そして伸びることはないという予感は段々と確信に変わってきて、このブログでも「もう日本は終わった」といつも書くのはそれが理由。
特に決定的だったのは「リーマンショック後の日本」を見たから。
私もオーストラリアでリーマンショックでは大打撃を受けましたが、日本の対応を見、その後の動きも最悪で、ちょうどその頃からこのブログを始めましたが、「日本の政策」に文句ばかり書いていたのを思い出します。案の定、アメリカを始め海外の多くはリーマンショックを乗り越えどんどん発展するのに、リーマンショックの影響が少なかった日本なのに【低迷は続いたまま】でした。
だからこそ、安倍首相の出現に私は夢を託したわけですが、日本は「選挙で選ばれた政治家でも好きなようには出来ない、日本の根本的な体質」をまざまざと見せつけられるばかりで、【日本は終わった】と確信したわけです。
日本という「巨大船団」なのに、指揮官、指揮艦は【名前だけ】で船団を動かすことは不可能で、各船の船長は自船のことしか考えず、しかし船団の中にいるから生きられるということから船団そのものは分裂せずに、【迷走するばかり】に見えます。
要は政治家も多くの国民も興味があるのは【既得利権】【自分の金】でしかなくて、「日本を良くしたいという思いがない」とずーっと感じていたということ。【大志がない】のね。かつて三島由紀夫が「将来の日本」に関して嘆きながら語っていたことがその通りになった。
中には将来を託したいと思う政治家もいるんですが、バックグラウンドの無い政治家が上に登ることは出来ない仕組みになっていて、それを変えようという国民運動も起きない国。トップクラスの政治家は「権力闘争」にご執心で、国民の方を向いているとも思えず。【国士がいない】のね。そして国民も国士を求めていない。
そして日本という船団そのものの危機が見えてきた時に、船団を内部から変えて強くするのではなくて、「外からわけのわからない船を招き入れ、船団が持つ個性をかなぐり捨てて、【船団を維持しようとする】ことだけに注目する」という最悪の選択をした日本。私が10年以上前から「グローバリズムに反対」してきたのはそういうことなんです。向かう方向がズレている。
当時の日本は【グローバリズムを絶賛】していて、私みたいなのは馬鹿にされるだけでした。日本人って本当に「グローバル」「国際的」「国際人」みたいなのが大好きなのね。【外国に憧れる】【英語に劣等感がある】のも同じでしょう。でも時代は変わって「グローバリズムの本性は全体主義である」のも見えてきたのね。人の個性を大切にというくせに、国の個性は認めないというダブルスタンダードに気がつく人が増えてきた。そしてグローバリズムは民主的ではなくて、それを動かす強力な勢力の言うがままだというのもわかってきた様子。EUがまさにそれで、私はEU崩壊の序章は始まったと思っています。
2022年はそれがよーく見えた年だと思います。そして世界が「反グローバリズム」に動いてきたし、日本でも反グローバリズムを言う人達が増えてきた。
でも日本は大きな円安に見舞われ、輸入品の価格は暴騰し、多くの中小企業や一般庶民がコストアップインフレに息の根を止められそうなのに、なんら効果的な政策を打てない政治。でもそれはそれでわかるわけです。今までのツケが表面化したわけで、カンフル剤を打ちたくてもそれを打ったらショック死するようにまで弱体化しているから。
そして大規模な転換を模索する政治ではないし、そもそも金がない。いや、金が無いと皆が信じ込んでいる。
この日本の動きを見ていると、まさに「地方都市の衰退と全く同じ」に見えてくるわけです。
解決策はあるのか?
そんなことが私にわかるわけもありませんが、少なくとも「少子化」「人口減少」だけは何が何でも食い止めないと【経済の根源である住民がいない】のではどうにもならない。だから「移民を増やせ」という短絡的な方向に行くのでしょうが、これって【衰退する地方都市に移住者を呼び込もう】というのと同じで、果たして「欲しい人材」が来てくれるんですかね。
きっと「徹底的にロボット開発に注力」して【生産性を上げる】ことをすれば「人口は減っても良いかもしれない」し、本来はその方向に行かないと地球そのものの存続が出来ないんじゃないですかね。世界的に見れば「人口削減は急務」なのは理解できます。
でもそんなことは私の夢想でしかなくて、現実的に出来ることかどうかはわからない。
だから「衰退する地方都市から、大都市に移り住む」ことしか選択肢がなかったのと同じで、【日本に住む日本人も同じ状況にある】のではないかと思うわけです。
日本にとどまって日本を良くするのが日本人のあるべき姿だとは思いますが、ここでもやはり「日本の地方都市の現状」を見れば、そんな理想論に付き合っていたら生きていけない。それでは「故郷が益々衰退する」わけですが、【沈みつつ船に残ることが重要なのか否か】は難しい問題。
これもですね、「将来に希望がある」とか、「素晴らしい指導者がいる」とか、「大きな技術革新が起きた」とか、「全住民が心を一つにしてやる気を出した」とか、そういうとんでもない大変化があれば話は別なんでしょうが、そもそも今まで対処らしい対処が出来なかった「日本」という国に、そういう変化が起きるとは私には思えない。
「日本とともに沈む」のも日本人らしい選択だと私は思うのですが、【日本を捨てる】のではなくて、【避難する】という考え方があっても良いはず。
故郷である地方都市から出た人たちも、「いつか帰りたい」という願望を持つ人は多いだろうし、でも【帰れる状態に変化させる力は自分にはない】とするなら、【避難生活はいつまでも続く】のだろうし、そこで生まれた子どもたちは【その地を故郷と思うようになる】のも仕方がないこと。
歴史は繰り返されるんでしょうね。
今現在、数百万人単位で「海外に日系人が住む」わけで、彼らの祖先がなぜ日本を出たのかと言えば、理由は上に書いたことと同じだったんじゃないですかね。
我が家もそれと同じ。
アメリカの大都市もオーストラリアの大都市も、「ここがアメリカ?」「ここがオーストラリア?」という状態になっている。私達家族はゴールドコーストという田舎に住んでいましたが、たまにシドニーやメルボルンに行くと「別世界」に感じたんですよ。
【人種のるつぼ】なのね。
街によっては「白人のほうが少ない」のも普通のことで、行き交う人達が喋る言語もいろいろ。街並みを見ても、「ここはアジアか?」と思うよう。
日本でもそういう街があると聞きます。ある団地は中国人しかいないとか。
日本全体がそういう風になるのはもう確定したことじゃないんですかね。
私はそういう日本を好きではないのですが、そういう考え方は時代遅れだし、アメリカやオーストラリアで言えば「白人至上主義」で、逆に排斥される対象となる。アメリカを見ればそれがはっきりわかるわけで、かつてのアメリカはもう消滅するのでしょう。
当然、文化も伝統も言語も変わっていくわけで、それを止めることはできないんでしょうね。
日本だって、今の時代、「俺は薩摩だ」「俺は会津だ」なんて言う人はいないわけで、地方色もどんどん消えている。当然、「お前は豊臣側か?」なんていう人もおらず、馬鹿にされるのがオチ。そしてもっと昔には「縄文人と弥生人の融合」があったわけで、そういう大きな変化から逃れることはできないんでしょう。
「私は日本人です」というけれど、【肌の色はいろいろ】【日本語が変】とか、もっと先には今、薩摩だ会津だなんていわないのと同じ様に、「日本」というのは国名ではなくなって「地方名」になることも有り得るんでしょう。その時の公用語は北京語ですかね。
そうやって遠い将来には、宇宙人と地球人の混血も始まって、新たな人類の時代になるのかもね。
なぜこんなことを書くのかというと、「日本人だからこうあるべき」というのも近い将来は「馬鹿な話」になるだろうってこと。今でさえ、「私は琉球人」という人はいないわけで、段々と「混ざり、特色は消えていく」んじゃないですかね。
つまり、今の時代では「お前は日本を捨てるのか?」と言われるような言動も、「お前は夕張を捨てるのか?」というのと全く同じ意味でしかないってことじゃないですかね。
【住みやすい土地に移り住む】
これは人類が誕生してからずーっと続いてきたことだし、これからも変わらないはず。
でもねぇ、心に引っかかることがあるんですよ。
SF作家である小松左京の「日本沈没」って知っていますよね。
私は小説も読んだし、映画化も二度されたはずですが、小説の中の最後の部分が忘れられないんですよ。
大地震が来て日本が沈むことを確信した「田所博士」が奔走し、どうにか【政財界のドン】を動かして数百万人規模の日本人を海外に逃すことが出来た。しかし最後の最後に田所博士は日本に留まるのね。
そして確かその政財界のドンの箱根の別荘だと思うのですが、そのドンと田所博士は「富士山が噴火して日本が沈んでいく」のを見つめているのが最後のシーン。
田所博士は言う。「私が日本を沈没することに気が付き、どうにか日本人が全滅しないようには出来たけれど、今になると、それを発表したことが良かったのかどうかわからない」と。「日本人がユダヤ人の様に祖国が消滅し、これから世界の中で流浪の民として生きていけるとは思えない」と。
そして「日本人はこの日本の国土とともに【沈むべき】だったのではないか」という。
私も「そうかもしれない」と思ったわけです。それが日本人らしいと。
私はそういう死生観を持っているわけですが、そんな私が今、外国にいて【日本の衰退】を見続けている。
なんなんでしょうか。(笑)
でも私は思うんですよ。「日本の再興が始まる時が来るまで、自分は生き延びなければならない」って。
かつての第2次世界大戦ですが、日本軍は「降伏しない。自決する」のが大きな特徴でしたが、最後の最後に「(必ず死ぬ)バンザイ突撃」をすることもなく、「どうにかして生き延びろ」と部下に諭した上官もいたのね。そして「お前たちは日本の再興に命をかけろ。それがお国のためだ」と。
私にとって日本は「唯一無二の世界で一番大事で、一番好きな国」で、私の心は常に日本と共にある。
でもこう思うんですよ。
男児立志出郷関
学若無成不復還
埋骨何期墳墓地
人間到処有青山
男児志を立てて郷関を出づ
学もし成る無くんば死すとも還らず
骨を埋むる豈に惟だに墳墓の地のみならんや
人間到る処に青山有り