【投資関連】CoCo債のメリット・デメリット & 私の失敗と私の夢

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今回のクレディ・スイス銀行の問題で、CoCo債に注目が集まりました。

社債と言ってもいろいろな種類があって、それぞれ危険度が違う。だからクーポンも価格も違って、結果的に利回りも違う。

素人的に簡単に言えば、銀行の定期預金に種類がいくつかあるとしたらわかりやすいんじゃないですかね。いわゆる私達が知っている定期預金の他に、銀行の都合によって満期日が伸ばされたり、あるいは経営的に問題が出た場合、倒産しなくてもその定期預金はゼロになるなど、銀行にとって都合の良い定期が存在するのと同じ。でも当然、そういう定期預金は通常の利率とは違って、利回りが良い。こういう風に考えればわかりやすかも。

当然、どういう時にはどうなるという条件が決まっていて、投資家はそれを受け入れるかどうか考えるわけです。

ただし、そういう発行体に都合の良い条件があっても、それが発動されることは【まず無い】のね。一度でもそんなことをしたら投資家がそっぽを向きますから。つまり債券は売れず、値が大きく下がればその発行体は資金調達に窮して表舞台から消えることを意味するわけです。

でも条件を見れば私たちは「こんな条件で大丈夫かよ」と思うのが普通ですが、たとえばそこそこ健全で有名な銀行であるならば、危険水域には達する可能性は少ないと読めるわけで(世界の動静も加味する)、そしてそれはその発行体の信用、将来にかかわることだから、発行体もどうにかそれを回避しようとするのが普通。でもリスクがなくなるわけじゃなくて、そのリスクを投資家が受け入れれば高利回りが約束される。

倒産すればほぼ全てはなくなりますが、「倒産しなくても投資家がリスクを負う種類の債券が存在する」ということ。でも利回りは良いからこういうCoCo債はそれなりに人気があって、大きな市場を形成しているわけです。

私としては、クレディ・スイスは問題があるにしても、CoCo債のやばい条件が発動されることはないだろうと読んだわけです。それは「過去にそういう事例は無いに等しい」からなのね。

でもその考えは大外れとなったわけです。

ただ今回の場合、クレディ・スイスの救済を急ぐがために、今までのルールと違うことが行われたのね。

例えば企業が破綻した時でも債権者には順位があるじゃないですか。その順位に従って残存価値を分けることになっていて、従業員の給与であったり税金、借入金は順位が高い。でも順位が低いと受け取れるだけのお金は残っていない。

株式の順位は一番低く、そしてその前にCoCo債がある。だから株主にお金が回る前にCoCo債の方にお金は回るはずなのね。

でも今回、買収ということで(価値は低くなるにしても)株主は救済され(UBSの株式と交換)、CoCo債を持つ債権者は切り捨てられた。順序が逆。総額は2兆円を超える額。

これは明らかなルール違反ではあるものの、そうしなければUBSによる買収救済案が消えることになるので(UBSが出した条件?)、CoCo債の切り捨てをしなければ破綻が待っているわけだから、「どちらに転んでもダメなものはダメ」という考え方が裏にある様子。

債券は元本保証ではなくて、その発行体が破綻すれば終わりなのは当たり前ですし、信用度やその時点の経営内容、世界の動静によって価格は変動する。だから「破綻する」と噂が立つような発行体の債券は年利30%以上で出回ったり、買い手がいなかったりするわけで、【利回りが良いから買おうか】とストレートで考えたらとんでもない目に合う。でもま、そもそもそういう債券に手を出すなんてことは一般投資家にはありえない。

だから一流ではない企業を選んだり、一流でも内情に若干の問題があるような発行体の債券を選べば利回りは良いわけです。

超一流の発行体の債券なら危険はほぼないわけだけれど、でもそういう債券は「国債とほぼ同じ利回り」なわけで、妙味がない。

ま、この辺の読みをしくじったというのが今回の我が家の出来事です。

私はそもそも「リスクのないところに利益はない」という考え方ですから、リスクを取ることには何の問題もないし、そういう意味でのCoCo債の良さはあると今でも思っています。

ただ今回の騒動で、CoCo債自体に不安を感じる投資家は多いようで、CoCo債の市場は値下がりし(利回りは良くなる)閑散としているらしい。

私はやられたばかりなのに、ここにチャンスがあると今でも考えていて、自分でも馬鹿じゃないかと思うのですが、これもまた性分なんでしょうね。

リスクの読み方を今まで以上に厳格にして、これからもトライするつもり。というか、CoCo債には手を出すべきではないという考えはありません。これは劣後債も同じ。

ところで私が去年の11月に【ヨーロッパの有名な金融機関が発行した債券で、利回りは10%を超えて、予定償還は2027年の債券を買ってみた】とブログに書いた(これ。【リスクを取って10%以上の利回りの米ドル建て債券を買ってみた】)ときですが、10年来の読者でもある友人から「私も買いたいので銘柄を教えて欲しい」とメールが来たのね。

でも私は細かいことを教えなかったんですよ。調べればすぐわかることなのにいちいち聞いてくるということは「この債券に手を出すべきではない、かなりの初心者」だと思ったから。また、これはリスクがあるから考えたほうが良いとメールで返事をしたのですが、リスクがあるというのに「株式も買いたい」とわけのわからない返事が来ました。

こりゃ危ないと思って、書いたのがこの日記です。他にも似たような読者がいるとうまくないと思ったから。

Dabo's life in KL, Malaysia

古いエントリーが表示されているかもしれないので、是非、「投稿日」を確認してください 私はこのブログに時々、【債券】のこと…

そもそも危ないことを書いた私が悪いと思う読者もいると思いますが、そういう危ない投資案件なんていくらでも出回っているわけで、私は「私は買ったけれど、考えたほうが良い」と書くのは良いことだと思ったくらいです。

ただ、「貴方も興味があるなら是非買ってみたらどうですか?利回り抜群ですよ~~~」なんて書かなかったのは本当に良かったと思います。それどころか、私はかなりきつい口調で「貴方の考え方は間違えている」と指摘してしまい、実はかなり気分を害しただろうなと気になっていました。

でも今、そういう厳しいメールを書いたのは良かったと思っています。

危ない投資案件をブログに書くなと思う人もいるだろうけれど、こんな情報はネットの中にあふれているのね。証券会社のサイトを見れば、こんな債券を普通に紹介しています。(このサイト)

債券市場にはこれよりも~~っと利回りの良い債券はいくらでもある。【ジャンクボンド】というのを聞いたことがありますよね。破綻の危険はあっても「償還日まで持ちこたえれば大きな利益が出る」わけで、そういうのが好きな投資家もいるのね。

クレディ・スイスの債券が3分の1ぐらいになった先週でも、それを買ったリスクテイカーもいるわけです。結果は「即死」ということになりましたが、これは「スイス政府が資金援助するし、UBSと合併するはずなので最悪の事態は逃れられた」という情報が出回ったからなんですね。私にも【合併の条件を確認してみなくてはいけませんが、最悪事態は避けられたと思われます】という連絡がありました。それは3月19日、日曜日の午前中です。

ま、普通の債券を買うにしても、買うなら買うで、債券そのものを勉強したり、リスクをきっちり検討するなり、ポートフォリオを組んでリスクを分散させるのは「絶対のお約束」で、「ダボが買ったのなら俺も買おう」なんて全くお話にならないわけです。

またポートフォリオも「似たようなリスクがある発行体」を選んでしまったら意味がないわけで、私は国債や超一流の発行体の債券には興味がないものの、「リスクの大小を考えた分散投資」も絶対のお約束なわけです。

でも馬鹿な私はクレディ・スイスのリスクを過小評価していましたし、【利回りに目がくらんだ】のは間違いがありません。それどころか「大きな額をつぎ込めば、リターンも大きい」ことから、そしてマレーシアに来た理由の「資産倍増計画」が思うように行っていないという焦りもあったんですね。

まさに「飛んで火にいる夏の虫」だったと思います。「カモがネギを背負ってクレディスイスに求愛した」ようなもんです。

完全に「欲望に負けた」と思っていますし、一切の言い訳も出来ない大失態です。

でもきっとこれからも同じ様な道を歩いていくのかもしれない。ある意味、そういうリスクを取り続けて来て、「今まで何も問題がなかった」方が不思議なくらいなんですね。

あのリーマン・ショック時も、あの前に、「リーマン・ブラザーズの債券利回りが良い」としたら、間違いなく飛びついていたと思いますもの。あの時にはたまたまリーマンブラザーズに興味を持たなかっただけのこと。

こんな生き方が良いとは思いませんが、これが私の歩く道だと諦めています。

でももう地雷は踏みたくないな~~~~~~~~~~~~~。

富裕層向け資産運用のすべて

金融市場は常に変化しており、新しい金融商品が次々と登場しています。その中で、近年注目を集めているのが「CoCo債(偶発転…

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ここからは毎度の与太話。

それとですね、私はお金儲けが好きだし、稼がなくてはならない【理由】があるんですよ。

でもお金儲けのことを書いていると、たまに「足るを知れ」みたいなコメントを貰うこともあるし、若い頃、親友にそれを言われたこともあります。

私はラッキーなことに、自分とヨメさんがそこそこ幸せに生きていける目処はついています。でもなぜそれ以上のものを求めるのか。ここには人それぞれの「価値観」「生き甲斐」「夢」「希望」があって、それを現実のものにするには「私の場合はお金が必要」なだけなのね。

人それぞれですが、「自分より大事な存在」を持つ人、持たない人がいて、自分が幸せでもそれだけでは満足できない人もいるわけです。自分は何のために生まれてきたのか、自分には何が出来るのか、自分にはどんな才能があるのか、それらを考えた上での「自分なりの生き方」を模索する人も多い。私もその内の一人でしか無いのね。

「足るを知れ」という人は多いけれど、自分は足りていても【全く足りない人は山のようにいる】じゃないですか。自分の子供、親族、友人知人と幅を広げれば、世界は決して裕福じゃないのが良く分かる。

海外を回っていると、「半端じゃなく貧しい人たちに囲まれる」なんてことも経験しますが、私が忘れられないことがあるんですよ。スリランカでのことですが、スーパーで買物をして外に出た瞬間ですが、見るからに汚くてみすぼらしい小さな子供たちが10人近く私を取り囲んで、いわゆる「めぐんでくれ」というわけですが、【金をくれ】じゃないのね。【なにか食べ物をくれ】と食べる仕草をしてそれを私にアピールしたんです。

これには衝撃を受けまして、彼らに何も渡さず「あっちいけ。このガキ共」とは出来なかったのね。

でもその前にはメキシコの田舎町のことですが、赤ん坊を抱いた女性が近寄ってきて「金をくれ」という。その親子に注目すると子供が大泣きしているわけですよ。これもまた「シッシッ、あっちに行け」とはなかなか出来ないわけですが、お金を渡した途端、赤ん坊は泣くのをピタリと止めたのね。

その後、いろいろ経験すると、「物貰いという商売が存在する」のもわかってきたし、今マレーシアに住んでいますが、マレーシアでもそういう組織がある様子。

でもフト思うんですよ。「なぜ俺は彼らより裕福なんだ?」って。自分は特別優れているわけでもなくて、ただ日本に生まれ、日本で育ち教育を受け、社会に出て普通に暮らしていただけなのに「海外に出ると金持ち」なのね(今の日本は違うにしても)。

そして、自分の子供たち、子孫、あるいは一族、友人知人でも「彼らのようになる可能性」ってあるわけで、【俺自身は幸せだからそれで良い】というのはなにか間違えていると考えるようになったわけです。

だから私は「足るを知れ」という言葉は嫌いなんですよ。

世の中には「足りないものが多すぎる」のが現実で、それを自分は無視して良いとは思えないのね。(他人がどう思おうとそれはその人の勝手)

「足るを知れ」という言葉は素晴らしいと考える日本人は多いけれど、もし戦争直後の日本みたいに、あるいは世界に多い貧しい人たちみたいな、「裸足のゲン」みたいな子供たちにグルっと囲まれたらどうします?日本ではそんな事は無いけれど、世界の実情はそれだと私は思うわけで、「うるせー、お前らあっち行け」と言えるのかどうか。そして「俺は足るを知っている人間だ」なんて胸を張れるのか?

私がお金に拘るのはここが原点なんですよ。

でも自分がなにか行動に移すにしても限界がある。世界を変えることも出来ない。だからといって「何もしない訳にはいかない」のね。自分が今、幸せなのを【神仏に感謝し、人に感謝し、出会いに感謝し】ってのも良いけれど、それは【自分の問題】であって、それを誰も喜ばないし、それで誰も救われることも無い。

他人を助けるなんて格好つけた話じゃなくて、自分の子供だって同じはずなのね。お金があれば助かる病気や怪我でも、金がなければ自分の子供さえ救えない。でもどうしようもない時ってあるのが人生で、その時には政府なり自治体なり、どこからかの援助に頼ろうと思うのが普通。そしてその時に「手を差し伸べる存在」があるから、世の中はどうにか回っている。

スリランカで私を囲んだ貧しくて小さな子供たちですが、1万円もあれば、彼らは1週間以上「腹いっぱい食べられる」わけですよ。それで世界の何が変わるとは思わないけれど、私は「自分を救おうと思ってくれる人がいる」と自覚することは彼らにとっても希望になるかもしれないと思うわけです。(あるいは騙しやすいバカを利用すれば良いと考えるか)

実際に私自身も若い頃から随分助けられてきて今があるわけで、当然、その人達は「足るもの以上のものがあった」から私に手を差し伸べることが出来たのは間違いがないのね。「頑張れよ」なんて言葉だけで、他人を救うことは出来ない。

私もそんな人間でありたいと思うし、いろいろ計画があるわけです。私が欲しいお金なんて「無限大」です。(笑)

だから「足るを知れ」なんて言われると、「私はそんな暇じゃないのっ」って思うわけです。30代の頃、私の親友で大金持ちの財産を相続した一人息子がいたんですよ。彼は仕事もせずに、結婚もせずに悠々自適に暮らしていまして、私に「足るを知れ」と説教するわけ。【お前は有り余る金を自分の好きなことだけに使ってるくせに何を言うか】と大喧嘩になりましたっけ。(笑)

人それぞれ考え方が違うわけで、大事にしたいものも違う。「足るを知るのが重要」だと思うならそういう風に生きれば良いだけのことで、他人にああせいこうせい言うべきことじゃない。

人は「どうやったら幸せになるか」を考えますが、「どうやったら皆で幸せになるか」まで考える人は決して多くはないのね。不思議だと思います。

最近の日本はサラリーマン社会で家族も核家族化して「それぞれが自分で頑張れ」というのが常識で、また「美田を残すな」なんて言葉が「足るを知れ」とともに良いことだと信じられている。

自分の子供さえも突き放してしまう。学校教育を受けたのだから、あとは社会に出て自分でどうにかしろ。好きに生きろと。

私に言わせればとんでもなくそれは馬鹿げていて、跡取りは血族だろうが他人だろうがその存在はとんでもなく重要で「しっかり家庭内、仕事場で教育をする。知識、技術、ノウハウを伝える」のが常識だと思っています。そうじゃなければ、農家も漁師も街の老舗もあるいは今どきのIT企業も、トヨタみたいな大企業も【創業者が死んだらそこで終わり】になっちゃうじゃないですか。

子供に継がせるものがないにしても、親は多くの経験を積んでいるし知識もノウハウもあるじゃないですか。それを子供に繋いでいくのも大事だと私は思っています。特に日本の教育は「お金のこと」を全く教えませんから、【個人保証をしたらどれだけ危ないか】さえ知らない若者がいる。個人保証って何?なんてのもいる。

老後をどう生きるかに関しても同じで、「収入と貯蓄」の関係とか、お金の使い方貯め方なんて親は嫌ってほどわかっているのに、それを子供に教えなければ、子供は社会に出てからゼロから学ぶことになる。その他、大事なことは山ほどあるけれど、会社に勤めても、一兵卒にどれだけ大事なことを教えるかというと、私は全く期待できないと思っています。

帝王学って誰にとっても重要だと私は思っていて、もし自分が貧乏で子供に残すものなんか何もないとしても、子供が小さな頃から「帝王学を学ばせる」のは大事だと思っています。

やっぱり「幸せは【総力戦で勝ち取るもの】という考え方」を私は持っています。でもそれには「合意」が必要で、無理やりやらせることはできないし、そんな時代でもない。

そもそも私たちの社会は「ご先祖さま達が作った資産」の上に成り立っていて、私が作ったものなんか何も無いと言っても良いくらい。

だから私としては「先人たちが残したものの上で【俺は足るを知っている】なんて生き方をしたくない」のね。

たとえ大したことはなくても、将来の子供たち、子孫、日本人、世界の人達の基盤になるものを私も作って残したいと思うわけです。それが当たり前の私の使命でもあると思っているわけです。

これも私がそう思うだけのことで、他人がどう考え、どう生きようとそれはその人の勝手で私がとやかくいうことではない。

私はお寿司が大好物ですが、一人で好きなものを食べてニヤニヤしたくないんですよ。やっぱりみんなで一緒に食べて「美味しいね~~~」というのが幸せだと思う。

でもそんな散財を出来るほどの力量はないわけで、贅沢は敵と考え、ケチに徹するわけです。(笑)

3月21日は私の誕生日で「古希」ですが、そのお祝いは(直近にとんでもないことも起きましたから)「デリバリの安いお寿司」でした。

でも私は幸せ。

私には夢があって、それは1ミリともブレていないから。

でも私に「強い意志」があるわけじゃないのね。

私が敬愛する「三島由紀夫氏」が残した言葉。

【人は自分のためにだけに生きられるほど、強くはない】

この言葉を聞いた時には、半端じゃなく大きな衝撃を受けました。人とはわがままで自分のことしか考えないのが本質だと思っていましたから。

でも今ではこれが真理だと思っています。これは頭で考えることじゃなくて、自分の心の奥の方を探っていくと、その通りだと私が実感しただけのこと。

自分のためだけを考えていると、うまくいくどころか、全力投球しない、途中で投げ出したり怠慢になるのが人の本質だと私は思っていて、「自分より大事なもの」を見出して、そのために生きる場合は【とんでもない能力が発揮される】と思うんですよ。

子供を助けよう、守ろうとする母親が世界で一番強い存在だというのもそれじゃないですかね。

私はそんな風に生きていたいだけなんですよ。まだまだ微力で能力が発揮されているとは思いませんが。(笑)

これに関しては前に何度か書いたことがあります。

私は金持ちになりたい。勝ち組になりたいという気持ちは全く無くて、それどころか私はいつまでも平民のままでいたい。長屋の八さん、熊さんでいたい。あの落語の世界に出てくる平民、庶民の生き方、考え方が好きなんです。

でも「平民の逆襲」。これを成し遂げたいのね。権力者に媚びることなく、金持ちを羨ましいと思うこともなく、また誰に見下げられることもなく、国や企業に依存することのない、自分の足で立って歩く家族や仲間達が集まって小さな小さな「安心して生きていける理想郷」を【心の中】に作りたい。

でもその計画にはそこそこ大きな資金が必要だというだけのこと。気持ちだけでどうにかなる話しじゃないし、夢を見て終わりじゃ意味がありませんから。

でもその目標はまさに「坂の上の雲」であって、達成されることはないんでしょう。でもそれに向かって歩いて行くことに意義を感じています。

 

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