浜松市が出した「ワクチン接種後の死亡率」のデータが恐ろしい

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さてさて、今まで私達が打ってきたワクチンは安全なのか。また今、大騒ぎになっている新型のmRNAワクチンはどうなのか。

私は専門家でもないし、巷に多く出されているデータの信憑性もそこから何を読むべきかもわからないと言うのが正解。

安全なのか?危険なのか?打つべきか?打たざるべきか?

それに関する私の考え方をここに書いても意味がないし、それは個人個人が考えることであって、それぞれの置かれた環境によっても考え方が違うであろうし、私としては良いとか悪いとか誘導するようなことをブログに書こうとは思わない。

ただ今回、書こうと思ったのは、「浜松市」という自治体が発表したデータがあって、その内容は多くの人が知るべきだろうと思ったから。

過去の話ですが、皆さん、何社かのワクチンを接種したであろうし、また今回のデータでは「ワクチンのロット番号」の違いで結果も違うという発表があった。だからファイザーがどうの、モデルナがどうのと言う前に「とてつもなくおかしな結果が出たロット」は間違いなくあったことは無視できない。

これに対してどういう公式見解が出たのかは私は知らないし、またそれが学会でどう扱われているのかも知らない。でも「これは虐殺だ」と声を上げた医師がいる。

とりあえず、まずはこのデータを良く見ていただきたい。

説明するまでもなく、項目を見れば意味がわかるはず。これは浜松市が出したデータなのはお忘れなく。

ただ「死亡」となっていても「死因」はわからない。また「時期」も関係あるんでしょう。いろいろ想像はできるけれど、私はそれは「想像でしか無い」と思っていて、やっぱり「科学的な検証」は重要だし、「それが行われていない現状」があるにしても、「ワクチンが死因だ」と私は断定しようとは思わない。でも「疑惑さえない」というのは逆の意味でおかしいとも思う。

もしこれに興味があるようなら、この動画を見ていただきたい。何が起きているのかがわかるはず。

この動画より前に出された動画がこれで、流れはよく分かるはず。

やっぱり真実を知るにはそれなりの年月が必要だと私は思っていて、でも年月が経てば必ずはっきりするとも言えず、私はこれはギャンブルと同じだと思っているんですよ。国民にとってもそうだし、国にとってもギャンブルで、前にも書きましたが「大惨事が起きるかもしれない」と政府が想定した時に「どれほどの犠牲を受け入れるべきか」必ず計算が行われるはずで、その内容を公表することはないにしても、例えば「ワクチン接種で国民の2割が死亡しても、そのワクチンによって7割が助かる可能性があればそのリスクを取る」のが国であって、口では「リスクゼロ、犠牲者ゼロ」なんて言ってもそれは「希望でしかない」のが当たり前で、「リスクがあるので今は何もしません。皆さん、自己責任で生き延びてください」なんて言うわけがない。

医者が悲惨な現場では「トリアージ」と言って「助ける順番を決めて、ダメそうな人は後回し」というのにも似ていると思うんですよ。「まずは救える人から救う」という考え方、そして見捨てる人に「貴方を見捨てますとは絶対に言わない」のは私は正しいと思うのだけれど、では「ワクチンを打てば間違いなく助かるのか」もわからない。そんな時にワクチン接種で死ぬ人が目立ってきたら、政府はどうするべきなのか。

私はそれもわからないんですよ。

大丈夫だという確信が出来るまで打つなというのは正論だけれど、果たして待てるのかどうか、待っていても大丈夫なのか。

要は「大慌てするほどその疫病で死ぬ人は増えていない」から、ワクチンは駄目だなんじゃと思うわけで、もしも「身の回りの人たちがバタバタ死ぬような状態」になれば、「頼むから早くワクチンを打ってくれ」となるんじゃないですかね。

「毒饅頭でも食べなければならない」という選択肢がなくなることはないと思う私。また「個人の自由を認める」のは重要だけれど、それでは【社会の存続が危ぶまれる想定】もそこに必要なわけで、「危険だからやめろ」「好きにさせてくれ」という意見が常に正しいわけでもない。

私は政府も疫学者も「そういう状態を間違いなく想定している」と思うし、そこを出発点としているんじゃないですかね。そして「死人が増えて世界の人口が激減する」ことは何があっても防がなくてはならないと考えているはず。

これは「安全保障」と似ていて、「今、敵が攻めてくるのが見えている」人と、「まだ何も起きてないじゃん」と思う人との違いと同じかもしれない。あるいは災害も同じで、「大津波が来るぞ~~」「いや、津波なんて来ないでしょ」という人は常に存在するのと同じ。

どちらにしても「未来の話」をしているわけだから、どちらが正しいのかはその時にならないとわからない。また問題点も大アリで「その対策をするだけで死ぬ人も出てくる」という点。

だから政府に「対策をするな」というべきなのか。その対策は駄目だと断言できるのか。対策に大きな問題があることもあるだろうけれど、ではやめろと言うならそれの「代替策を提示するべき」じゃないんですかね。当然、その代替策なら大丈夫だという科学的根拠も必要。

どうするべきかは「過去に学べ」ということになるのだけれど、過去には何千万人が死亡したり、村や町が全滅した事例もあるわけで、「今回、そんな事が起きるわけがない」という前提でああしろこうしろ、あれはやめろというのが正しいのかどうかも私にはわからない。

ただし、「反対意見を封じてはならない」と思う。それは「賛成意見を封じてはならない」という意味でもある。

また疫病が蔓延している時に「マスクをするべきかどうか」という議論も未だに続いていて、「マスクをしてもウィルスの感染は守れないからする必要はない」ともっともらしいことを言う人は多いけれど、私は逆のことを考えているんですよ。「うつされるかどうか」じゃなくて、「自分がだれかにうつすかどうか」を基本に考えたら、マスクはウイルスを防げないにしても「飛沫は防げる」わけだから、私は「マスクはまん延防止に効果がある」と今でも考えています。そもそも「自分は絶対に保菌者ではない」という確証なんてないんじゃない?「症状は出ていない」のは保菌者ではない証拠にはならない。

もしマスク着用に反対するなら、「風をひいたらマスクをする」とか、「クシャミや咳をする時」には【口をふさげ】というのも否定しないと辻褄が合わなくなる。

私は「コロナにはマスクは不要」という人が「クシャミや咳をするときにも口を塞がないで良い」という意見を聞いたことがない。

要は「自分が嫌なことには反対する」けれど、「容認できることには反対しない」だけのことで、そこに科学的根拠なんか無いのだろうと思っています。

もし私の言うことがおかしいと思うなら、お願いですからその理由、根拠を教えて下さい。

私の持論は、「マスクでウィルスは防げないけれど、飛沫が飛び散ることを防ぐことは出来る」から【マスクはすべき】と思っています。「自分は感染していない。絶対にそれは間違いのないことだから、マスクをする必要がない」とするなら、それの「証明」はどうする?できる?

重い病人の前、年寄りや新生児の前では「とにかくマスクをするのが当たり前」で、それは「自分がうつされるからじゃない」じゃないですか。私はそれと同じ理由で「感染者が増えている状況下ではマスクをすることは重要」だと考えています。

私は自分がワクチンで死のうがコロナに感染して死のうが、それは自己責任であり「運」だとも思っているのですが、世の中にはそうやって死んだ人が多いのと共に、「自分の不注意からコロナに罹り、それを愛する人に移し、命を奪ってしまった」と後悔している人も多くいるはず。

自分の命に替えても償いたいと今でも苦悩している人は大勢いるはずだし、私としてはそういう状態にだけはなりたくないと思う。

「マスクは必要ない」という否定派としてはすぐにホリエモンが頭に浮かぶのですが、「自分を中心に考えれば、ホリエモンの考え方は正しい」のは理解できる。でも重要なのは「他人も含めて、愛する人達をどう守るか」だと私は思う。

でもそこに重点を置くと「社会を守るためにワクチン接種を強制する」ことにも繋がる。

さてさて、どうあるべきなんでしょうか。

私は「強制するべきではない」と考えますが、それにどんな理由をつけてもそれが正しいのかどうかはわからない。ワクチンも同じで、ただただ「強制されるのが嫌い」なだけ。(笑)

でもそれもまた「危険思想」でもあって、「法律?関係ないね」という方向にも行ってしまう可能性がある。

どうあるべきか、なんてことは難しすぎて私にはわからない。「それは思考停止状態だ」と言われても反論できない。(笑)

ま、「自分の心の奥底から湧き出てくる内なる声」に耳を傾けるのみですかね~~~。

私はやっぱり自由意志が尊重される世界が好きですわ。

でもそれによって人類が滅亡することになっても責任は取れない。それは自分の自由にこだわったがゆえに、身近な人の死を招いてしまっても同じこと。

難しいですね~~。

 
 
 

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