自分が「コミュ障」なのに今頃気がついた (笑)

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自分がコミュ障だと思ったことはないのですが、近年、どうもそうみたいだという予感はあったんですよ。

で、最近、若い人たちと繋がることが増えたのだけれど、皆さん、私の息子たちかもっと若いくらいなのね。

私としては「上から目線」ってのがするのもされるのも大嫌いなんだけれど(年上、年下、先輩後輩というのも好きじゃない)、どうしても相手が子供に見えてしまうわけで、だからといって「教えてやる」なんてつもりはないのだけれど、それに近い話し方になることがあるのね。私としては「へ~、こんな事も知らないんだ」なんて思っているから、それを相手も感じてしまう事があるのだろうと思う。

そうやって考えていくと、このブログもそうだなと思ったり。

ただこのブログは情報発信と言うより「日記」でしかないと思っているし、そう何度も書いてきたけれど、「遺書」みたいな感覚もあって、「書き残しておきたい」ことを書いています。私の考え方とか、変化とか、心の内を書くのがこのブログ。そしてこのブログは残しておいて、子どもたちや孫たちが私や家族の記録、何を考えてどう生きてきたのかを知りたいと思えば読める状態にしたいし、私がいつか病院のベッドの上で天井を見続ける生活になった時に、このブログを読んで自分の生きざまを振り返ってみたいとも思う。(DVDにブログをそのまま残すことが可能)

だから「上から目線」になってしまいがちなことも起きるんでしょうね。

世の中では「年寄は・・・、まったく・・」と言われることが多いけれど、そして私も他人を見てジジーだなぁなんて思うことも多いのだけれど、自分もそのうちの一人だというのが最近わかった。

これからはもっと歳を取ればどんどん「身勝手」になっていくのだろうし、「クレーマー」になるのかもしれない。

また私は「議論好き」で、相手にも「なんでも言って欲しい」と思うのは若い頃から同じ。

ところがそれって「相手を傷つけてはいけない」という考え方をちょっと横においておかないと話は進まないのね。「気遣うこと」って重要だけれど、人は、特に日本人って「反対意見を言われると人格を否定されたのと同じ様に感じる」んですよね。

私はそう思うことは稀で、というか「明らかに攻撃をされている」と感じることもあって、「お前、こんなこともわからないのか、バーカ」みたいに言われれば私だってカチンと来て、そういう人とは議論はしない方が良いと思う。それはブログのコメントも同じ。「通りすがり」という名前でバカにしたようなコメントを残す人は今までも多かったし。

でも「私を気遣って話をしている」と感じる時もあって、そういう時には私は「はっきり言ってくれたほうが私は嬉しい」とはっきり伝えます。そうじゃなければ、その瞬間はあっても無くても良いだけになるじゃないですか。キレイなオネーチャンがいる店でおチャケを飲むんじゃないんですから。(笑)

でもまさに、私自身がうるさいジジーだと思われているフシがあるわけで、でもそういうのをコントロールするのは難しいのね。だって自分は上から目線で話しているとか、相手をバカにしているとか、教えてやるとか思っていないから、わからないのね。

きっと世の中の年寄のクレーマーも同じなんだろうと思ったり。自分は単に「正しいと思うことを言っているだけ」だとクレーマーは思っているんだろうと思う。

また今の時代、昔より「相手を気遣うことが大事」になったような気がするのね。昔みたいに真剣に言い合うとか喧嘩になっても話を続けるという時代じゃなくなったような気がする。それを一番良く感じるのが「ヨメさん」で【絶対に議論はできない関係】です。だから深い話ってなかなか出来ないし、そういうことは「話すことじゃなくて感じることだ」というヨメさん。ま、それも大いにわかるところがあるのですが、「熱くならずに話し合いができる関係」って、近年は息子達ぐらいしかいないのが寂しいです。

「仮面の付き合い」。そんな風に思うことも多いのね。

でもま、皆が皆そうじゃないから「話せる相手とはちゃんと話す」のが良くて、通じないなと思ったら「黙る」しかないのだろうと思う。

そういう意味でもブログって難しくて、私の中には私なりの「読者像」があって、それを前提にしてブログを書いているのだけれど、「読者は不特定多数」なのがブログであって、本当に様々な人がいる中で自分はどう書くべきかに悩むこともあるのね。

でもオブラートに包んだ書き方とか、大事だと思うことを書かないとしたら、ブログって何のためにあるのかがわからなくなるんですよ。情報発信をしたいわけでもないし。

「自分は読者を楽しませるエンターテイナーでしかない」という友人のブロガーもいたし、マレーシアでの親友で亡くなった大西さんが「私はハガキ職人なんですよ」と言っていたのを思い出します。いわゆる「短い文章の中に笑いや感動を詰め込む」ことを常に考えている人だったのね。そして「そういうのが好きなんですよ」と。

だから彼のブログの一つ一つのエントリーが彼にとっては「作品」だったのね。で、うまく書けたと思ったらそれを他人にも見てもらいたいし、反応も見たいと言っていた。

私はと言えば、「他人から脳みそを揺さぶられたい」という思いが非常に強いのね。要は「気付きを他人からもらいたい」と思っていて、「なるほどぉ・・・」なんて思うことが多い人生が嬉しい。

だから「他人の脳みそも揺さぶりたい」という思いがあって、それが「切磋琢磨」の原点だと思っているわけです。

でもそれは「友人同士」なら良いけれど、ブログの読者や集まりで知り合った人たちは「切磋琢磨しよう」とか「気づきが欲しい」なんて考えていないわけで、私は「うるさい存在」「面倒くさい存在」ということになるんだろうと思う。でも私は「面白い人だ」なんて人気者になりたいなんて一切思ったこともなくて、逆に「変人だ」と言われると「そうそう、常にそういう自分であろうと努力しているんですよ」と口には出さないけれど、ニヤリとして嬉しくなってしまう。

でもこの性格ってかなり自分の奥深いところと関係があって、そう簡単に直せないし「相手によって話し方を替える」のは難しいのね。

で、それを世の中では「コミュ障と呼ぶ」のにやっと気がついたわけです。(笑)

でもま、私が本音を言える、書けるのは「ブログだけ」と言っても良くて、だから「日記」であり「遺書」でもあるわけですが、ブログはやっぱり今のままで良いかなと思ったり。

読者には「読まない権利、自由」があるわけで、気に入らなければ見なければ良いだけのことだから。

でも「新しく知り合った若者たち」の中ではやっぱり「浮いてしまっている」のがわかるのが本当に残念なのね。

私もヨメさんも昔から「若い人との交流が多かった」し、一緒に飲んだり話すのは大好きで、仲も良かったし、ヨメさんは息子の友人たちからも「◯っちゃん」と呼ばれるくらい。

でも今の私は「うっさいジジー」でしかないのだろうと思ったり。

歳を取っても「控えめ」で「ニコニコしている」人は多いけれど、彼らが「心の中でどう思っているのか」が気になります。

そういう見た目が本物なのか、それとも「そういう風に自分を作り上げてきた」のか、その辺が気になります。

どちらにしても私はそういう人が苦手で、「仮面を見せられてる」と感じてしまうのね。そういう時にはどうにかその仮面を剥がそうとしたり、心を開くように持っていこうとするのですが、「そうされるのを嫌う人」「本音を喋りだす人」と二通りあるから面白いと思う。

私はどんな人でも当然持っている「心のなかで熱く燃えているもの」に触れてみたい。

歳をとってシワクチャでヨタヨタになっても「心の中で燃えるものは20代、30代のときと同じはず」だから。

でもま、とりあえずは私自身の話し方、書き方には気をつけようと思う。

今まで嫌な思いをされた読者も多かったと思います。

本当に申し訳ない。m(_ _)m

 
 
 

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