なんで私が「老人問題」に関することをブログに書くかと言うと、それは「若者、中年の問題」であって、それを解決するには【若い頃からの準備次第】だと思うから。
もうすでに私みたいなジジーになっていたら「老人問題はすでに進行中」で、できることは【どうするか決める】ことだけで【問題の解決はできない】。
政府や自治体に希望を持つのは「他人に命を任せる」のと同じで、私は「やっぱり自己責任の世界か・・」という結果にしかならないと思う。
でもこのブログの「読者の年齢層」って私にはわからないわけで、若者に向けて書くことが多いけれど、全く意味がないかもね。
でも「同じような年寄り向けに書くこと」ってあるのか、それが良くわからない。年寄りって「将来を大きく変えることは不可能」だし、「自分が変わろうとも思わない」のも普通で、日頃のなんてことのない話題にしか興味がないと言えばそうなんだろうと思う。そしてそれは私も同じ。
ではどうして「若者向けに書くことが多いか」と言えば、それは【私の子どもたちや孫たちが心配だから】と言っても良くて、もし私に子供も孫もいなかったら「若者向けに書くこともない」かもしれない。
いや、それも違うなぁ。
やっぱり「日本、日本人には良くなって欲しい」という非常に強い思いがあるし、日本の未来を作るのは若者たちに間違いがないから、やっぱり「私の失敗体験や成功体験」「若い頃からやっていればよかったと痛感すること」などを書き留めておきたいと思う。
そんなのは無駄だとも思うけれど、私自身は若い頃から「年寄りの経験談から多くを学んだタイプ」だから、中には私に似たような変わった若者もいるかも知れない。でも私が書き残したものが有用かどうかは甚だ疑問で、年寄りからの情報収集を続けてきた私でさえ、年寄りが言う「これが重要だ」なんて話を「何をバカなことを言っているんだ」なんて聞いていたことも少なくない。
でもある日、「あの老人が前に言っていたのはこのことか?」と突然、閃くようなことも起きるのが面白くて、でも「もっと話を聞きたい」と思ってももうその老人はいない。
だから「過去ログがすべて残るブログ」って私は重要だと思っていて、ブログを書いた本人の私でさえ、過去ログを読んで、「ああ、こういうことか」と思うことが多々ある。また「勘違いしていたな」とわかることも多くて、それはそれで反省材料として役に立っている。自分が「これだ!」なんて思っても、それって意外にその時、そう思っただけだったりすることも多いし。
ああああ、かつてはこのブログも「閲覧者数」とか「どこからアクセスしているか」とかそんなデータを見ていたけれど、「視聴者の80%以上は検索から飛んできた人」だった時代もある。
そういう状態なら私が「読者層を意識する必要はない」わけで・・。
今はどうなっているかまるでわからないけれど、ブログの基本って「検索で来る人を増やす」のに重点が置かれた時代があって、だから【SEO対策が重要】と言われたわけだけれど、今の時代、「検索はAIに替わりつつある」のは間違いがなくて、【検索で来る人はこれからも減る】んじゃないかと思っています。
「常連しか読まないブログの時代」になると思うのだけれど、では【常連は必ず減っていく】ことから「どうやって常連を増やすか」もAIの時代になると変わるはずで、そして今の時代「AIが書くブログ」が大量に出来ていて、そこに「ブログ主の個性は関係ない」のであって【内容だけが重視される】ようになるんでしょう。
「常連がいないブログが普通」の時代に入ると思う。
私としてはそういう「内容重視のブログ」がもちろん大事だけれど、昔から「内容以上にブログ主に興味を持つ傾向があった」のだけれど、AIを多用するようになってからは「ブログ主に興味を持って定期的に読むブログ」が全く増えていない。
本当は「MM2Hで老後を楽しもう」ではなくて「マレーシアを利用して大きく伸びよう」「FIREを実践している」若者を中心とする起業家、自営業者や「かなりの数が入ってきている」と言われる「暗号通貨やFX、先物トレーダー」に興味があるのだけれど、彼らのブログが多いかと言うと私はほとんど見つけられていない。でもユーチューブにはいくつか見つけることが出来る。
マレーシアに住みながら「マレーシア情報を発信できない私」だけれど、このブログは一応「ブログ村のマレーシア情報に登録してある」し、私もマレーシア情報が欲しい側だから、そのブログ村を頼りに他のブログを読んでいる。
でも「マレーシア人気は間違いなく衰退」していて、「ブログ村マレーシア情報」に出てくるブログの顔ぶれには何年も変化がないけれど、各ブログの「閲覧数は激減している」のは間違いがない。
そしてどのブログも「常連向けのブログ」という感じがするし、「平均年齢層はかなり高い」し、その傾向は今後も進み、段々と時代の変化とともに消えていくのだろうな、と思ったり。このブログも同じ。
ブログ村自体が、もう役目を終わったような気がしないでもない。
大勢の人出で賑わっていた商店街が段々と衰退し、老人が目立つようになり、しかしその数もジリジリと減り、閉店する商店も増えてくる。そんなイメージがあります。
でもま、ブログの場合は「維持するのに大きなお金がかかるわけじゃない」から商店のように「閉店が続き、シャッター街になる」ようなことはないんでしょう。
このブログのようにもともとが「情報発信」ではなくて「日々の出来事、考えること」を書き留めるのが主目的のブログなら、【閲覧数が少なくても一向に構わない】わけで、でも閲覧数もどんどん減り、コメントもないようなブログだとやっぱり寂しさがあるのは間違いがない。
でも「自分が思うことを書く」のを重視すると、そして閲覧数が減ってくると「読者に気を使うことが減ってくる」のは間違いがなくて、それは【本音を書くことが増える】ようになる。
それが最近の私の傾向で、今までだと「これ以上書くと反発が多いだろう」と思うことは書かなかったのが、平気で書くようになってきている。
でもそれが「本音」なのだから、これは良い傾向と思っても良いのかもしれない。
そしていつの日か、小さな部屋のベッドに寝たきりになって、天井を見ながら過ごす人生になった時、このブログの過去ログを懐かしく読み進めてみたい。
たった一人の読者がいるだけのブログ。
それも面白いと思う。(^_^)v
そして私が計画しているのは「ダボAI」を作ることであって、それをもちろん自分も利用したいし、当然、このブログに書いてきたこと全てをAIの一部として組み込みたい。もしも子どもたちが「こんな時、オヤジだったらどう判断するだろう、なんて言うだろう」と思った時にそのダボAIにアクセスすれば「私とほぼ同じ答えを返す」はず。
そのダボAIのキモの部分は「投資とトレード」であって、私の経験と積み上げたノウハウは細かいことも含めて全てをどうしても残しておきたいし、「出口戦略とヘッジのない投資(ガチホ含む)は絶対に禁止する」のは「ダボ家の哲学」として残したい。そしてその「理由」「例外」もダボAIに聞けばわかるようにしたい。
今でも我が家の親子関係は非常にうまく行っていて、Discordを使って皆でいろいろ相談したり喧々諤々の言い合いもしょっちゅうやるけれど、その基本に「お互いを信頼して尊敬している」という根底がある。我が家はそれをいつも口に出して感謝もお互いにするくらい、変わった親子。
これって息子たちが3歳1歳で渡ったオーストラリアの環境が影響していると思っていて、やっぱり私達は(差別も普通にあったあの当時は)【家族がしっかり団結することが重要だった】からかもしれない。
私としては「ダボAI」を作れば、その関係は私がいなくなった後でも続けられるかもしれないと考えているわけです。
私が今後どんどん劣化し、死んだら、私の経験も積み上げたノウハウも「無に帰す」なんてとんでもないことで、息子たちがまた同じ道を何十年も諦めずに指針らしい指針もなく、巷の役に立たない書籍やセミナー、専門家やインフルエンサーに惑わされながら、そして悩みながら進むしかないなんて到底、私には受け入れられない。それじゃ義務教育から大学に進んでも「教科書も教師もなく、雑学を学ぶ」のと同じことだから。
このブログはいつか必ず、そんな遠くない将来に「消滅する」のは間違いがなくて、私がいなくなった後にも「維持費を掛けながら数年保持する」のは可能にしても、それは所詮「数年の話」でしかないし、そうする意味もないと思う。
そもそも雑多な事柄の集積でしかないブログにはそれを残す価値もない。
でも私としては「子供や孫たちを助けたい」という思いは未来永劫続くわけで、それを「ダボAIに託したい」と思っています。
ダボAIは必ず作ります。








