マレーシアの村社会に関して書きましたが、メールをくれる方の中に、私と考え方は似ているものの勘違いをしている方がいらっしゃることに気が付きました。
私は日本的村社会に問題があると思っているだけで、特定のグループや組織に問題があるというのではありません。
ただどうもこんなオーストラリアから見ているだけでもマレーシアの状況が多少は見えてくるのですが、ある特定の組織から出た人たちがコアになってアンチXXXみたいなグループがいくつか存在するようです。
これって私にしてみると全く同じ存在にしか見えません。
特定のグループやあるいは個人をけなし、同じ考えを持つ人で集まるって、そういうことがそもそも村社会的であると思うわけです。そして内輪で特定の対象の悪口を言い合う場面にたまに出くわしますが、ニヤニヤしながら話すその姿は見るに耐えられないものがあります。
物事には全て表と裏、光と影というべきでしょうか、そういう両面が必ずあるはずで、良いこと尽くめなんて事はありえないし、何もかもが駄目ってこともありえない。そしてその良いことにしか焦点を当てないという考え方を私は持っていないというだけのことで、特定のグループに問題があると考えているのではないのです。つまり、問題点があるからと言って、あるいは自分が嫌な体験をしたからといって、その集まりや特定の個人を徹底的に嫌うという方が私には異常に見えます。
それぞれの集まりにはそれぞれの目的があって、成果を出しているところは多いと思います。そしてそのグループの存在があるから助かった人は多いはずですし、それがあるからマレーシアに居られるという人も多いのでしょう。
だからそういう組織があることは間違いなく良いことで、それを否定しようなんてことは全く考えていません。日本人会の存在も同じで、批判的な人が多いのはわかりますが、私は日本人会も大事な組織で住民としてバックアップするべき存在だと考えています。
ただ、影の部分で泣かされる人もいるし、そういう人たちが救われずに放置される。それどころか寄ってたかって突付かれて、追い出されることがあるという点。私はこれを許せないし受け入れることができないってだけの話。
私は昔から判官びいきのところがありましたが、オーストラリアに来てからそれが強くなりました。それは今回書いているような日本人社会での経験もさることながら、実は子供達がオーストラリアという白人社会の中ではマイノリティーで、常に標的になる存在であったというのが大きな理由だと思います。
日本人であるということで同じアジア人にさえもバカにされ、白人にはモンキーだのジャングルボーイだの言われ、オニギリなんか学校に持っていこうものならヤックと言われバカにされ、挙句の果ては投げて捨てられたり、学校の先生にも偏見を持つ人がいる中で子供達は育ったわけで、それに泣く子供達に親としてどうするべきか、それを長年考え続けてきたわけですから、どうしても偏見、差別には敏感にならざるを得ません。
日本にいるときには、日本で三国人と言われる人たちがどんな思いで生きてきたのか考えることさえありませんでしたが、オーストラリアに来てマイノリティとはどういう存在なのか、自分達がその立場になって良く理解できるようになりました。
でもそれは異人種間だけの問題ではなくて、同じ民族の中でもそれがある。つまり異質なものを排除するということで全く同じなんですね。
私はその考え方に反発を感じるだけのことで、日本人同士がグループを作り助け合うことそのものに反対しているわけではありません。それどころかアンチXXXで集まることの方が問題がありそうです。
こんなことを書きながらフト思い出したことがあります。私が子供の頃に親友だった金(きん)と名乗る友人。彼は韓国人でしたが私は私の周りには韓国人は彼しかいないと思っていました。在日なんて言葉も知らなかったし、歴史上何があったのかも知りませんでしたから。
ただ今になって思うのは、彼が、そして彼の家族は正々堂々と金(きん)と名乗っていたこと。これが素晴らしいと思いました。
偏見や差別に合ったり、それを見た場合、触らぬ神にたたり無しと思う人も多いようです。子供達の学校での差別に関しても、それをどう感じるか、また親はどう対処するのかは決して一律ではありませんでした。でも私は子供達にニヤニヤしてその場をやり過ごしたり、親として子供に我慢しろ、世の中はそんなもんだとは絶対に言いたくなかったです。
グループなりなんなり数の強さって間違いなくあって、民主主義自体がそうなのかもしれませんが、数そのものが正義になってしまう傾向が世の中にあると思います。でも事実は別のところにあるケースは多いわけで、私にはそれを無視したり気が付かないフリはできません。
それが結果的に判官びいきと言われるような行動になってしまうのでしょう。
でもあんまり得な性格じゃありませんね。結局、両挟みになって両方からはじき出されることが無くは無い。世の中って同類で固めたいという意識が半端じゃなく強いのが良くわかります。
でも偏見は結構あると思うオーストラリアですが、これもまた私たちが住んだ20年の間でも随分変ってきました。息子達が学校へ持っていく日本人的お弁当をバカにされて唾をはかれたり、投げ捨てられたこともありましたが、子供達が卒業する頃には、俺の分のお弁当を作ってくれないかなんて頼む和食大好きオージーも出てきましたし、学校内の売店でも寿司ロールが出るようになりました。
やっぱり偏見や差別って無知から生まれるものだというのがわかります。それらは知ること、理解することによって絶対に乗り越えられるものだというのが私の信念となりました。
そしてやっぱりこの国は個人主義が発達していて、それぞれが違うことを良しとしますし、学校でも自己主張をいかにするかの訓練が低学年から徹底的に行われます。そしてユニークであることは採点のポイントでもある。日本とは全く逆。
社会もそれが当たり前で、会社で自分の意見を言わない者は存在価値すらないし、皆と同意見ですと言うなら居なくても良い。これは仕事ではない集まりでも同じで、それはそれは皆言いたいことを言いますし、この人たちどこかおかしいんじゃないかと思うくらい奇想天外な話が出てきます。だから日本だったらすんなり決まる話もこちらでは延々と混乱が続くという感じがしないでもありません。でもこれで行きましょうと決が取られるとそれに皆が当たり前のように従うのも面白いです。影でぐちゃぐちゃ言う傾向は日本より少ないと思います。
皆違ってそれで良い。
これが個人主義の有り様だと思いますが、私が守りたいのはただそれだけ。