マレーシアでの子育て 続き

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海外での子育て、マレーシアでの子育てに関して書きましたが、その後、複数の方々から秘密コメントを頂いたり、メールを頂いたり。本当に有り難うございます。

で、また転載させてもらいます。これって本当はうまくないと思うのですが、内容的に公にしても全く問題なさそうな部分だけ抜粋して載せさせてもらいます。

まず短いほうから。(笑)

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我が家は大前提としてマレーシアにきて子供達をバイリンガル(日本語、英語)にする気は毛頭ないと考えています。それは、自分の大学からの米国留学経験から語学はある一定レベルまでは単にコミュニケーションツールでしかなく、その語学力のみで職を得られるものではない。されに言えば技術、思想やアイディアをしっかりもっていれば通訳を付けるだけで十分世界と渡り合うことも可能と考えるからです。

日本では、3歳から始めないとネイティブイングリッシュは身につかないと親たちを煽って仕事を作っていますが、ネイティブイングリッシュなんて言葉自体日本にしかないのではないでしょうか?

先日、F1レースのドライバーズインタビューをテレビで観ていて、英語圏以外のドライバーが日本で言われているネイティブイングリッシュとはほど遠い、かなりひどい発音でしゃべっているわけです。しかし、そんな彼らもチームの中でしっかりとコミュニケーションをとって仕事をしている事は容易に想像できます。

日本でつかわれているインターナショナル=英語力からという構図には大いに疑問を感じますし、インターナショナル=日本以外でも通用する自分を持つが正しいのではないのかと。

最近の日本メディアで取り上げられているマレーシア=バイリンガルorトリリンガル=インターナショナル、そしてその先に子供達が社会で楽に優位に立てるといった風潮は正直あまり現実的ではないように実感します。

実際私の周りにも帰国子女とよばれている人が何人もいますが、その多くは英語が上手な人程度の扱いで社会人となっている人たちがほとんどです。それでも、高校や大学で留学をした人たちはまだ日本の社会で順応している人が多いのですが、幼少期から海外で暮らした人たちの中にはあまりうまく順応できなかった人もいました。

しかし、海外で暮らす事は悪い事ばかりではないのも事実で、右も左も分からない学校や社会でなんとか自分の居場所を切り開いていくという経験は、はなかなか日本にいると体験できない大きな財産です。そして、そんな彼らが彼らなりに自分のアデンティティを活かして、自分の仕事を立ち上げて日本で生活をしているケースも知っていますし私もこのグループです。

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この方の考え方と私はほぼ同じです。

まずバイリンガルですが、私はこの言葉が簡単に使われすぎていると昔から考えていました。と言いますのは、社会が求めるバイリンガルと、我々一般のバイリンガルとはかなり差があって、我々の考えるバイリンガルはかなり程度が低いと思っています。

通訳を目指していた私の友人の子(非常に出来る子)ですが、面接時に、英語も日本語も全く役に立たないとはっきり言われてかなり落ち込んでいたのを思い出します。どちらも会話に支障がないとか読み書きが出来るとか、そんなレベルでは駄目なんですね。同時通訳はまたそれはそれで違うスキルだと思うのですが、バイリンガルはバイリンガルになるための勉強をしない限り無理だと私は思っています。

私の子供もそうで、日本語教育にはかなり力を入れましたし、彼らも日本語が好きで、日本語補習校を卒業した後に、高校レベルの勉強をしたいと自ら先生に頼んで学んでいた時期もありました。でもそこで止まっています。バイリンガルだなんておこがましいことは言えません。

英語に関してはかなり苦労したと思います。中学でも論文を書くのは大変で、私が随分助けたくらいです。今になれば、オヤジに助けてもらったなんて、考えてみれば酷いもんだったよね、なんて笑いますが、ま、そんな程度。でも高校大学に進んでからは言語で問題があったような話しは聞いたことがありません。

ま、勉強は何でも同じですが、一生続けなくてはならないし、彼らが必要に応じて勉強していけば良いと思っています。

ただ、バイリンガルになる必要はないけれど、片言でいいのかとなると話は全く別だと思っています。これは彼らが進む道がどういう道かによってまるで違うわけで、日本人としての英語ととらえればさほど高度な英語が必要とは思えず、そんな言語より他のスキルのほうが大事なはず。かと言って、英語に関して言えば、通訳を雇えばよいとかそういう時代じゃないのも間違いない。そして、海外で進学を考えれば、片言じゃ追いつけませんよね。

私としてはオーストラリアの教育って結構良いと思っていまして、とにかく考えることを中心にした教育に見えます。例えば中学生の宿題で「貴方がアメリカのジョンソン大統領だとしたら、ベトナム戦争をどうするか?」のような問題。これって子供にしてみれば、ベトナム戦争ってなんだ?ジョンソン大統領って誰?というところからはじまるわけで、膨大な資料を読み、そこからなんらかの結論を出さねばならないわけで、かなり大変な作業、勉強を強いられるわけです。

また、ポイントはプロブレムソルビングにあるようで、問題を見つけてそれを解決する能力を育てることに集中していたようです。ですから歴史にしても、何年に何が起きたなんてことは全く教えず、ある時期のある事柄に絞り込んでそれを掘り下げるという感じ。

ただこれの弊害もあると私は感じていました。とにかくこっちの子ってものを知らないというか、日本の学生であれば誰でも知っているようなことを知らないんですね。バカじゃないかと思うくらい。これはまさに教育の違いだと私は思っていて、多くのデータを知識として頭に詰め込む方式ではないということ。またディベートが非常に盛んで、授業の中に取り入られているのはもちろんのこと、課外授業でもかなりしつこくやっていました。

だから私の息子達は半端じゃなく理屈っぽい。なーんてのは冗談で単に親譲りなのでしょうが、独自のユニークな考え方、問題解決方法を普通に主張する姿を見て、わが子というより会社の上司という目から見ても、この方が使えると思ったもんです。

で、知識は必要があればその時々にインプットすれば良いという考え方なんですね。これも考えてみればその通りで、世界のありとあらゆる分野の事を、過去も含めて覚えるなんてのは絶対に不可能で、逆に、今、目の前の問題を解決するに当たってどのデータ、知識が必要であるか考えて、それを取り込み、結論に導く方法だけ知っていれば良いということなんですね。で、その訓練を延々やるのがこちらの学校教育のような感じがします。

で、そういう中で、言葉のレベルはそれ相応のものがないと駄目なわけで、言葉に問題があったら前に進めない。ましてやディベート能力が重視されますから、それなりに出来ないと駄目。

でもそういう教育も必要じゃないとなれば、あるいは日本に重点を置く育て方もあるわけで、こちら流が常に良いわけじゃないし、もし日本での大学教育が必要だとした場合、こちらで育ったら日本語に問題がなくても日本の大学入試にパスすることは不可能でしょう。

でも帰国子女枠という面白いのがあるんですよね。これってかなり昔からありましたが、私は帰国子女は優遇されすぎじゃないかと思うくらい、簡単に難関校に入れるのを見てきました。またかつて、これを利用する為に、グアムの学校に友人の息子を送り込む手助けをしたこともありました。

また私は言語とは文化の一部だと考えていて、これは引き離すことは出来ないと思っています。ですので文化を理解するには言語の理解が不可欠。ただ英語に関してはちょっと違うかなぁと言うか、世界共通語であるがゆえに曖昧さも許される言語でもあるんですね。ただ、それはそれでOKの分野の話であって、進む分野においてはきっちり出来ないと駄目なのは当たり前。

まぁ、考え方はいろいろだし、人生いろいろ、価値観もいろいろ、そして親が何を考えようが子供に何を望もうが、子供が何を求めるか、どういう人生を送りたいのか、それは全く別問題ですから一筋縄ではいかないと思います。

私は子供の将来の姿をはっきりビジョンとして描いてそれに向かって進んで来ましたが、やはりこれでは駄目だと痛感したことがありました。ここに何度も書いているように、それこそ催眠術、洗脳と言って良い様な育て方でもあって、私の思う方向へ子供達も向いて進んでいたようですが、やっぱりそれは彼らの心の中から沸いてきたものじゃないってこと。

長男の場合、ある日ある時、何かおかしいと感じたようです。これが俺の本当に進むべき道か?と思うようになった。まぁ、これは私の刷り込みだろうと、本人が選んだ道だろうと途中で考え方が変わることは良くあることですから、私が反省するべきことでもないのかもしれませんが、長男は途中で進路を変えました。だから本来3年で卒業できるのに6年も掛かった。(笑)

結局、借り物の服を着ても似合わないし、嬉しくもないってことですね。でも、では自分にとってどういう道が良いのか、極論を言えば自分の天職とはなんなのか、それがわからない人が世の中多いわけで、私自身も60歳になっても天職とはめぐり合えておらず、こんな人生で良いのか、これが自分が望んだ人生なのか、いまだに迷走しています。

ただ親としては、子供がそう悩んだときには進路変更も出来る状態を作ってやるのが大切だと思っています。と、同時に、何が自分に合っているのか、自分は何を望んでいるのかを自分で掴めるような援助も大事だと思います。これは私自身の生き方の反省として、あれもこれも手を出したけれど、何一つ物になっていない、満足を得られていないことから、こういう人生を子供に歩んで欲しくないと思うのです。好きなものに打ち込んで、それで生きていけたら人生幸せで、でもそれは単なる甘い夢かもしれないけれど、生きるために生きなければならないとしたら、子を生んだ親としては犯罪だとさえ思うのです。

言語は別にして、マルチカルチャーの中で生き抜く力をつけて欲しいという願いがあるはずですが、私はこれに関しては環境は大事であるものの、「個人の能力、適性に拠る」ものの方が大きいと考えています。だから海外に出れば身につくものでもないし、日本にいたら身につかないものでもないと思っています。これは冷静に海外の、日本国内の子供達、世界で活躍する人たちを見ればわかると思っています。

ただ世間で言われるように、日本の子供達、青年は内向きであるというのは私も間違えではないと思っていて、その殻をぶち破るために海外に出るのはひとつの切っ掛けになると思います。でもそれでどうにかなるわけでもないのは言語の問題と全く同じ。そして海外に出ることによって壊れる子供も少なくないのは忘れるべきではないし、海外でのひきこもりは目に付かないけれど決して少なくないことも注意する点だと思います。

この辺も良い話ばかりのロングステイと全く同じで、問題を抱えて帰る人たちは何も言わずに帰るし、こうこうこういう理由で帰りますとこういうブログに書く人はまずいない。その手の情報は外には出てこないものだと断言してよいと思っています。当然、書籍にもならないし、マスメディアも扱わない。でもそういうケースが少なくないのは周りを観察していればすぐにわかるんですね。同じような環境の家族が固まるでしょ。それが3年経ち、5年経ち、と月日が経つにつれて様子がおかしい家族、子供が必ず中に出てくる。

周りを見るとうまく行っている人(家族)ばかりだと思うこともあるかもしれません。でもそれって現実社会と全く同じで、落伍者は消えていっているだけなんですね。いや、落伍者という言葉は適切ではないでしょう。単に違う道を模索するようになったと言うべき。

親の子を思う気持ちは共通だと思いますが、でも求めるものも違うし、子供もそれぞれ皆違う。そういう中でどう育てるのが正解かという答えもない。ただ、こうやったらこうなったという経験は巷に溢れているわけで、その経験を集めて分析してみると、どういう方向を狙うならこうしなくてはならないという一本の筋も見えてくるわけです。この分析をせずに、夢ばかり見ていても子供は全く違う方向へ育っていくということだと思います。

ここは本当に重要な点だと思っていて、昔から金なんか無くてもいいとか、成績が良いのが良い事じゃないとか言う人は少なくない。こういう人たちは違うものに価値を見出しているというけれど、それは「金」「成績」という言葉が「何か」に置き換わっただけだって言うことをハッキリ自覚すべきだと思うんです。金も成績も追わない。では違うものを追えばそれが手に入るのかってこと。実は、その「何か」より「金」「成績」を追うほうが簡単かもしれない。結果的に、金も無い、成績も悪い、他に何ができるわけでもないという方向へ行く危機意識が欠如している人も少なくないと思っています。

これって「美人である必要はない。ブスでも中身が良ければ良い」って話と似ていると思いませんか?美人は中身が悪いような、ブスは中身が良いような、そういう話でしょ?ブスで中身が悪かったらどうするという危機感がこの話には欠如している。

でもま、私が親としてしなくてはならないと信じることは、子供の引き出しを増やしてやることに尽きるといって良いと思います。とんがった個性を伸ばすのも同時に大切ですが、何でも出来る、何にでもなれる種としての引き出し。言語もそのうちの一つでしかないし、マルチカルチャの世界での生活体験もそう。それ自体は一つ一つたいした要素ではないし、絶対に必要なものでもないけれど、でも彼ら自身がいつでも使おうと思えば使える道具、育てようと思えば育てられる種に相当するものを子供達の中に沢山作ってやりたいと思っています。

長くなったので、これはこれにて終了。(笑)

もう一つのメールはマレーシアにおける学校に関するかなり細かな情報ですので、それはまた次の機会に紹介させてもらおうと思います。

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