このブログも本当に書くことがなくて、それが日増しに顕著になる感じがしています。マレーシア関連も目立つニュースらしいものは無さそうだし、オーストラリアに至っては毎日が普通の日常で何の変化もないし、早期退職じゃ海外での子育てじゃは書きたいことはもう充分書いたし。毎日変化があるものは?と考えれば相場の動きぐらいなもんで、そんなことばかり書いてもしょうがないし。
ということで、最近、あああ、こういうことかと思ったことに関して書きます。
なんだか自分が歳を取ってものの見方が変わってきたのか、それともこれが自分の本性なのか、それとももしかしたらほんとうに世界が変わってきたのかわかりませんが、近年、日本に限らず人間そのものの「群れを作りたい」動きが凄く目立つ、気になるようになりました。
この「群れを作る」のを「全体主義」という言葉に置き換えて考えてみたいのですが、全体主義から連想するファシズムとか軍国主義とかそういうものとは違って、「個人主義」あるいは「個性、違いを大事にする」ことの反対の意味でそれを使いたいと思います。
で、「個性を大事にする」ことは本当に大事だというのは、今の時代、世界中どこに行っても異論は無いはずですが、どうもその反対の「全体主義」がどんどん強くなっているように感じるのです。これは「グローバリズム」を素晴らしいと賛美する人たちもそうだし、「英語能力」が社会では不可欠だとその能力獲得に精を出す人たち、あるいは「マレーシア賛歌」を歌い続ける人たち。まぁ、いろいろあるわけですが、それぞれの個性がどんどん薄くなって、目的が目的以上の信仰に近くなっているということ。いわゆるファンクラブ的なものと言うのが一番合っているのかもしれませんが、仲間内で盛り上がり、その盛り上がりがもっと盛り上がることを良しとし、それに反するような言動は全く無視するか排除する。
こういう傾向が「慰安婦問題」でも存在して、左派は中韓のいうことをごもっとと日本政府に認めろ、謝れと迫るし、右派は国交断絶しろ、経済制裁しろと言わんばかりに「無実潔白」を主張する。こういう動きは中韓ももちろんのこと、なんとアメリカもヨーロッパも同じで、なぜか皆が声を揃えて一つの方向にまとまっているし、海外の政府もそういう方向で動いている。ここに異論が入り込む余地ってまるで無いように見えるのが、私にとっては異常な動きに思えてしょうがない。全てが二極化の方向に動いているのを感じるのです。中間がすっぽり抜けている。
あるいは面倒なことには一切関わりたくない、考えたくもない、まるで違う世界に存在しているような「無関心派」。これはどこにも所属していない様で、実は「無関心派」というグループに所属していて、そのグループの「余計なことには関わらない」というちゃんとした約束事がある「全体主義」。当然ここにも排他的な一面があって、このグループの中で「無関心で良いのか?」なんて言おうものなら無視、排斥されるのは同じ。
つまり、「人は皆違ってそれで良い」という個人、あるいは個人の主張、様々な考え方を尊重する考え方が薄れてきて、バラバラだったものが何故か集合し、それがどんどん大きくなって主張も強化され、そういう大きな塊があちこちに存在する。もちろんその塊同士は相容れない内容のものが存在するから、そこに選択の自由があるようなんだけれど、実はその塊の中では個人は埋没して、絶対的な一神教の宗教団体があちこちに散らばっているような感じを受けるんです。
問題は、個人が没しているという点だけじゃなくて、その塊同士が交じり合う、妥協する、違いを認めるという事なしに、塊の周りに高い防御壁を作って目を閉ざし、耳をふさぎ、でも口だけは達者で、外に対する攻撃、またグループ内では異端児狩りが横行する。国と国の間には国境線があってそれは不可侵なものだけれど、それと同じようにある種の団体がどんどん大きくなってそれぞれの間にはこれまた不可侵の国境線が出来てしまったような感じ。お互い、お前は違うと吠えるだけで、何も進展しない。
こういう異常で頑固なグループがどんどん世界にできて増殖しているように感じるんですよ。これって昔からそうで、単に私が気が付かなかっただけかもしれないのだけれど、世界中が親衛隊を抱えたファンクラブ状態に見えます。
これって非常にうまくない状態で、国同士もそうだし、国内問題、あるいは個人の趣味ベースの世界もそうで、非常に排他的になっている。でもそれぞれに存在する絶対神であるかのような主張を信じている人には非常に居心地が良いのだろうと思うし、そういうグループに入って初めて安心感を得、自分がそもそもあるべき姿はこれだったんだと喜び、思想的にはこれが広まれば世界平和、幸せが訪れると高揚するんでしょう。
なんだかおかしくないですかね。
人それぞれには思想的にも趣味にしても傾向があるわけで、それをそれぞれまとめて考えることは出来るにしても、そのグループの主張が宗教みたいになっているのがとっても不思議。それぞれの教科書的な主張がひとり歩きしている感じ。でもそれを外から冷静に見ようとすることは稀で、その中に入り込んで没我状態になり、そのグループの問題点には目をつぶる。
政治的にも同じで、脱原発と言い出したら何がなんでも脱原発で突っ走る。原発容認と言い出したらこれまた内包する問題には目をつぶる。慰安婦問題も同じ。どんな分野でもそれが見えて、馬鹿になったとは言わないけれど、それぞれのグループの中にいる心地よさから「思考停止」になっている。絶対これってうまくないと思うんですよ。グループの問題点も、そして何よりも自己反省もしない、絶対に存在する自己矛盾も見ようとしない。これは人道的な面でも同じで、誰も反対できないヒューマニズムにのめり込んで、人権だ、個人情報だ、優しさじゃ、思いやりじゃ、誰にも迷惑をかけるな、傷つけるなとそれが世界唯一の善であるがごとくヒューマニストは主張する。イルカ(小鯨の総称)を殺すな食うなと、これが世界の絶対的な常識だと平気で口に出す。
こんな例を書き上げたら終わりが無いくらいなんだけれど、世の中には「同じ傾向があるものが集まる」という動きだけじゃなくて、それぞれが絶対的で間違いがないという宗教になっているのが大問題だと思うわけです。宗教が悪いなんて言うつもりはなくて、私は神の存在を信じているくらいなんだけれど、盲目的にそれぞれのグループにのめり込む傾向が異常なほど強くなってきていると思うんです。対立を是とする時代に入ったような感じを受けます。これは我々の身近な生活で起きる事柄でもそうだし、国家間も同じで、交わる接点がどんどん減っている。ここに私が感じるのは「制御を失った感情」、あるいは「思考停止」、あるいは「自己の利益への固執」。これって民主主義が行き着くところへ行き着いて、皆で好き勝手なことを言い、あとは崩壊するだけのような気さえしてきます。
なぜそうなのかを分析する立場じゃないわけですが、世の中に広がる不安がそうさせるのかと思ったり。
私が自分でも貫いていきたいと思うのは、こういう偉そうなことを書きつつ、自分はおかしい、間違えているんじゃないかと出来る限りの違う視点を持って自分自身を疑うこと。自分が信じるもの、好きなものでも、そういう仲間たちが集まるグループもどこかおかしいところはないかと疑うこと。つまり、「思考停止」になることだけは避けたいと思うのです。そして自分が何かを主張するという前提に、他の意見も尊重するというお約束がないのであれば、何も主張するべきではないと思うくらい。
ま、そんなことを感じながらこの何年か生きているわけですが、私がそう考えること、感じることを的確に表し、警鐘を鳴らしている人を見つけました。なんとその人は、安倍政権の内閣参与で京都大学大学院教授である藤井聡教授。私がぜひ頑張ってほしい思う「日本強靭化計画」を推す中心人物がそれを言っていたのはびっくりしました。
個を忘れ、一つの偏狭な、しかし理解がたやすいそれぞれのグループの全体主義の中に没していく傾向がある現状を問題視しています。「思考停止」するなと。この動画は、何か大事なことを忘れていた自分を取り戻してくれたような気がします。
約17分の動画ですが、見ても絶対に損はしないと思います。
上の動画の前に一つありました。上の動画に興味を感じなければ見る必要もないでしょうが、いかに我々大衆が誘導されて特定の思想(価値観)グループに入っていくかが見えてきます。動画は約19分。
そもそも民主主義ってどうなのか、今の社会の問題点は?我々は何を大事に思考し行動するべきか、そんな根本的なことに興味がある方はこれをどうぞ。ちょっと哲学的、思想的な方面からのアプローチで、ややこしく聞こえるかもしれませんが、非常に重要なことを言っていると思います。
西部邁氏。動画は約36分。