駄目でしたね、残念です。
映像の信ぴょう性はまだわからないとされていますが、発表されたものはこれ。
非常に恐ろしい内容を含んでいますので、閲覧にはご注意ください。
未成年者は見ないように細工がされている映像です。西暦の部分をそれなりの年にしてSubmitボタンを押すと見れます。
私はこういう結果にはならないと願っていましたしそうはならないだろうと考えていました。これがISILにとって何の得にもならないと思うからです。ただ、いろいろ知りすぎたであろう後藤さんを開放するとも思えず、囚われの身の状態が続くかと。いつでもカードとして使えるわけですから。
日本政府はこれを受けてどうするのでしょうか。またどうあるべきないんでしょうか。
一国民としては「危ないところに行かないようにする」しかありませんが、それは解決策でも何でもないわけで、また「ISILを怒らせるようなことはしない」的な発想も的ハズレだと思うし、今までの政府、安倍さんの行動を非難するのも筋が違うと思っています。
後藤さんが前に残していた「私の責任で行くのであって、何が起きてもシリアの人々を非難しないで欲しい」という言葉が頭から離れません。つまり、こういう結果になると「ジャーナリスト足りとも危険な地域には行くな」という声が大きくなるはずですが、やっぱり「真実を報道するためには危険を顧みずに行く」という行動を否定してはならないと思うのです。
それですと「迷惑をかけるな」という声が必ず上がってくるはずですが、「真実を見せてくれて有難う」という考え方も必要だと思うのです。「真実なんか知りたくもないのだから、迷惑をかけるな」という発想があるとすればそれこそが「日本的な」ような気がするのですが、それはまさに「俺達は関係ない」という考えに立脚しているからなのでしょう。
政府はどうするのですかね。アメリカに関しては何か中途半端なものを私は感じていて、口先外交をしているように思えます。これはサキ報道官も同じで、最近、いやにああしろこうしろと日本に口出しするようになってきている。
日本の「自衛しか出来ない」軍備のあり方も考えるときに来ていると思います。そうなるとすぐに「イスラム国を攻撃するのか?」なんて結論を急ぐアホが出てきますが、そうではなくて、「受け身」しか出来ない軍備なんてそもそも意味があるのかどうか考える切っ掛けにはなる。
今回の件で「日本は間違いなく攻撃対象になった」と確認できるわけですが、日本海で起きた問題ですら相手国まで入り込んで攻撃はできないのが現状で、「撃たれる弾を防御するだけ」みたいな状態は異常であると私は考えます。
日本の今の状態は、「かつての米ソの対立という世界構造」の中であるべき形であって、世界は変化しているのに日本はそれに追い付いていない状態だと私は考えています。そういう意味では今のリベラル派こそが「保守」に見えます。
戦争を望む人は存在しないと私は思うのですが、「犠牲が出ること」全てを否定してしまうと、さらなる犠牲が出るのが「防御しか許されないケース」だと思っています。本拠地を叩くことは許されないなんて異常としか思えません。
でももしそれが容認されたとしてもそうするべきかどうかはまた別の話で、それはアメリカを見ていると良くわかります。世界のどこにでも出て行って「アメリカの正義」を押し付ける国ですが、でも「結果が出せずに犠牲が増えるばかり」なのをアメリカはベトナム戦争以来その経験を重ねていますから。
あのアメリカでさえそういう状態なのに、外にでることさえ出来ない日本ができることなんか限られているというか、全くないのと同じで、「非難声明を重ねる」しかできないんでしょうかね。
これからは「ホームグロウンテロ」つまり「他国にいる共感者が自らの意思によってその地で行うテロ」が増える危険性もあるわけで、フランスでのテロもそうですし、オーストラリアでのそれも「自称」ではあるものの、その傾向は増えると考えるべきで、ましてやモスリムの居住者、移住者を多く抱えている国は何が起きてもおかしくなさそうにも思えます。
ですから解決を急ぐ必要があるとも思うのですが、まさにイスラム国が言う「十字軍」の様にイスラム国を叩き潰すことが出来てもそれは「長年の遺恨に遺恨を重ねる」のと同じような気がするのです。この件に関して非モスリムであるキリスト教徒を初め、キリスト教に馴染みを感じる人たちからみると「異常」「キチガイ」にしか見えないようですが、「自分は絶対に正しい」という前提で見れば、「相手は常に間違えていると」いう結論しか出ないのは当たり前ですが、それは相手から見ても同じなはずで、ましてやその根拠になるものが「宗教」ですから半端じゃなくややこしいことになるんでしょうね。
ですから解決を急ぐとなれば「同じ宗教同士」で解決してくれとなるのが順当で、アメリカが本腰を入れないように見えるのは、アメリカがそう考えているからだろうと私は想像しています。アメリカがイスラム国を解体、蹴散らすようなことが出来ても、それがまた次の火種になるのでしょう。それどころか私にしてみると「サダム・フセイン体制を崩壊させた」ことに「イスラム国」発祥の種があると思っています。
だからこれはモスリムの中で解決すべき問題であって、他国が手を出すべきことではないように思えます。だからやれることは「支援」と「懐柔」ぐらいなものでしかなくて、きっとアメリカの基本方針もそれだろうと、そして日本ができることもそんなものだろうと私は想像するのですが、それがうまくいったところで時計の針を何十年、あるいは何百年前に戻すだけのようにも思えてきます。振り出しに戻るだけみたいな。
でもそれもまたひとつの解決策でもあるのかもしれない。
イスラム系の映像を見ていますと、ある言葉が頻繁に出てきますね。私も覚えてしまいましたが「アッラーバクラール」という言葉。「神は偉大なり」という意味のようですが、その神のために命を落とすのを「善」と考えていて、敵対するものを潰すのは当然の義務であり、「死を恐れていない」のは当然のこと、「相手の死」さえも「善」であると考えているとしか思えません。
私は「飛んでいる蚊」を仕留めた時には「やった!」と思いますが、彼らにとっての敵とはそれと同じなんでしょうね。そしてこちら側も全く同じで、サダムフセインやオサマビンラディンの死には拍手喝采を送るし、大規模な爆撃はもちろん、小さな戦闘でも掃討作戦が成功すると喜ぶ。
「敵対するものの死」は喜びであるという点においては全く同じで、これはキリスト教の歴史もそれであったのを忘れてはならないと思うのです。でもこの事実を「臭いものにはフタをする」「その歴史は忘れる」ような言動をするのは、私には「偽善者」にしか見えません。
それは過去の話で、現代は違う?
本当でしょうか。
最近、スカイプで宗教の話がよく出てくるのですが、「信じる」とはどういうことなのかがポイントになっていて、「理屈」や「根拠」は関係ないというのがはっきり見えてきます。極端な言い方をすれば、「自分の理解力を超えたものを正しいとする」ことが「信じる」という行為であって、そこに宗教の「良さと悪さ」が同居しているように感じますし、それがぶつかり合う時には話し合いで解決することはあり得ないと思います。
でも力で押さえつけても駄目なのは中東の歴史がそれを証明していて、今のイスラム国の問題を解決するにしてもそれは「イスラム社会」の中で解決するしか方法は無いのだろうと思うのです。そしてその解決方法は「イスラム方式」であり、それを「非イスラム」が口出しできるものではないと思うのです。
そう考えると「サダムフセイン」とか「カダフィー大佐」って一体何だったのかと再考する必要があると思っていて、彼らを「非イスラム」の価値観で潰してしまうことによって、「イスラム内の問題」が顕著化してしまう。つまり、アメリカ主導でやってきたことは「お前たち、改宗しろ」と言っているのと同じことのように感じるのです。
では同じ「イスラム」の中で解決するとしても「宗派が違う」のは「異教徒と同じ」なんですよね。これはキリスト教も全く同じで、十字軍が抹殺対象にした中には「キリスト教の他宗派も含まれていた」ところに見ることが出来ます。その歴史の長さも半端ではなくて、「アメリカ移民の歴史」が「弾圧された宗派の集団移民」であるということも忘れてはならないはず。
そんなことからも「イスラム国問題」も根本的な解決は出来るわけがないと私は考えていて、でもたとえ一歩でも前進するとしたら「イスラム内部での解決」を援助するしかないように思えます。
そんなことを考えていると「腰が引けているようにみえるオバマ」もそうじゃないと問題がもっと大きくなるのが見えてきますね。
世界平和を祈っていればどうにかなると思っている人って本当に世の中に存在するようですが、それが正しいと信じているのなら、安全な場所にいてそれを言うのではなくて、「平和ではない地域」に行ってそれを説いてきて頂きたい。
少なくとも「俺は、私は関係ないね」とは言えないから「平和を心から祈っています」なんて格好つけるのだけはやめたほうが良いと思うのです。これは解決方法にならないどころか「問題が深刻化し広まる」と私は思うのです。
「祈ること」「願うこと」が悪いわけではないのだけれど、相手も同様に「世界平和を祈り願っている」ということですよね。そして「世界平和のあり方」に違いがあるってことなんだろうと思うわけです。
結論なんか簡単に出るわけもないですが、「祈る」「願う」というところで「思考停止」してしまうことだけは避けたいと私は考えています。その思考停止は「イスラム国を壊滅に追いやればOK」とか「安倍が余計なことを言ったから」という考え方も同じように私には見えます。どちらも問題解決には程遠い。
裏話が世の中に氾濫していますが、私としては「後藤さんの冥福を祈るとともに、勇気を讃えたい」と考えています。またこの件でしり込みすること無く、使命感を持つジャーナリストは自己責任において使命をまっとうしてもらいたい。そしてもしまた同じようなことが起きても、日本政府は全力をつくすべきであることに変わりはなく、「余計なことはするな」という気持ちはわかるけれど、「ジャーナリストに関しては」私はそうは思いません。