母から「お別れ」の電話 (T_T)

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びっくりしましたよ~~。

サウジャナに住んでいる母から電話があって、いつもの「何してるの?元気?」みたいな話じゃなくて、深刻な雰囲気。

血圧が高くなりすぎて頭もフラフラするし、目も霞むし、胸のあたりの調子が悪いと。もうそろそろ来る時が来たと思うから、あんたにお別れを言おうと思う、と。(@_@)

病院にはいかないの?と聞いたら、もうこんな歳(91)だから病院に行ってもしょうがないし、このまま逝きますと。(@_@)

親父や姉貴には具合が悪いと言ったの?と聞いたら、心配掛けるから言わないし、このまま静かに逝きたいと。

でもアキ(孫のこと)がマレーシアに来てくれて本当に嬉しかったし、アキにもお礼を言っていたと伝えて欲しいし、アキを連れてきたあんたにも感謝していると。

とりあえず電話を切ってから、姉貴に電話をしたのですが・・・。

「いつものあれよ~~~」ですと。(@_@)

姉貴はちゃんと母の状態を把握していて、もし本当に具合が悪ければ病院にすぐに連れていくし、その時にはお父さんを一人家においておく訳にはいかないから、あんたにすぐ来てもらわないとならない。その時には電話をするから、今、慌てて来るようなことはしないでくれと。

困りましたねぇ。

母は死ぬ気でいるし。姉貴は大丈夫だと言うし・・・。

とりあえずオーストラリアにいる(母が誰よりも大好きな)息子に電話をして、ちょっとオバーチャンに電話をしてみろと伝えました。またヨメさんにも状況を伝えたところ、それぞれが動いて、結構大きな話に広がって行きました。

姉貴からSMSが入って、とにかく今は大丈夫だから来ないで・・。と

どうすれば良いんだよ~~と思いつつ、とりあえず様子を見ることに。

数時間経ってから姉からまたSMSが入りました。薬を飲ましたら血圧は下がりだしたと。そして頭がフラフラするのは母が何か体を捻る運動をしたそうで、あの歳で頭を振り回したらおかしくなるのは当たり前でしょ、ですと。胸のあたりが痛いというのは、横になってテレビを見る姿勢をずーっと取り続けていたからだと。

気にはなりますが、姉の言うとおりにすぐ母の様子を見に行くのはやめました。

次の日、ヨメさんが夜明け前から動き出しまして、一生懸命ヨメさん特製の「太巻き」を作っている。これを持って行って様子を見てきてくれと。

その太巻きも出来上がり、私も出かける用意をし、両親が起きる時間まで待って、「行くよ」と電話をしたんですよ。

そうしたら母は機嫌もよく元気になってやんの。(笑)

ったくよ~~~~~。

姉貴に電話をしたら、「だからいつものあれだって言ったでしょ~」ですと。

つまりですね、寂しくなったり何か嫌なことがあると、「私はもうあっちの世界に逝く」って言い出すあれなんですね。

それでも母の顔を見たいし、ヨメさんが作った太巻きを持って両親のところに行ったんですよ。

母は本当に元気でピンピンしてニコニコ笑ってやんの。

ったくも~とは思いつつ、ほっとしました。

すると父は父で怒り出したんですよ。父は何があったのか全く知らされていませんから、母が死にそうに思うほど具合が悪かったこと、そして私に電話してそれを伝えたこと、もう病院には行かないとかそれを父はその時、知ったんですね。

なんで俺には何も言わないでそんなことになっているんだ?ばかやろ~と。(笑)

でもま、何もなくてよかったです。

結局、寂しんですね。父は昔はチョ~ワガママで偉そうだったのが、ある時から「俺はオカーサンがいるから生きていられるんだ」と誰よりも母を大事にするジジーに豹変しましたし、それはそれで良いのですが、でもいつも夫婦一緒で仲良くってわけでもないんですね。そして母がおしゃべりをしたかったり、愚痴を聞いてもらいたくても、父には話せない、でも娘にも話せない。姉は男勝りの性格で、人の愚痴とか聞くのは大嫌いでウダウダと長いだけの女話も大嫌い。だから母は姉にも何も言えない。

年寄り特有のストレスなんだろうと思います。でも本当にそれで具合が悪くなって死んじゃうこともあるんじゃないですかね。

私がマレーシアに来て、ある日、皆で出かけた時に私が母の手を握りながら歩き、「オフクロは俺が小さいときからこうやって俺を助けてくれたから、これからは俺がオフクロの手を繋いで守るよ」と言ったら嬉しそ~~~な顔をしていましたっけ。また私が手を繋がない時には私の息子が、あるいはヨメさんが母と手をつなぐ。そしてシドニーにいる次男坊が来ると、あいつがオバーチャンを守る。

この3週間、息子はオーストラリアに行っていますし、私もちょっと(いつもの)父・姉とのゴタゴタがあって両親のところには行っていなかったんですよ。

それが今回の遠因かもしれない。

太巻きを皆で食べながらニコニコ話をしていたら、それだけで母も落ち着いた様子。

私が帰る時には母がエレベータのところまで送ってきてくれて「有難う」と。

有難うをいわないとならないのは私の方だけれど、無事に収まってよかったよかった。

でも来る時は間違いなく来るわけで、その時まで両親を大事にしようとあらためて思いました。

今日帰ってくる息子も、すぐにオジーチャン、オバーチャンに会いに行くと言っていまして、出来たら皆でランチを食べに行こうよと。

でもオバーチャンは死にそうなほど具合が悪いって言っていたわけだから、ランチを食べに行くなんて無理だろうよと言ったんですよ。でも、アキ(息子)がランチに行こうって言ってるよ?といちおう両親に言ってみたところ、ウンウン、行こう行こうと元気に嬉しそうな顔。行く店まで決まった。(笑)

しかし考えてみると本当に我が家は不思議な縁で皆がマレーシアに集合しました。誰がこうなるように計画したわけでもないのに、かつてアメリカはハワイ、そしてサンディエゴに長らく住んでいた姉は「もうアメリカはダメだ」とマレーシアに居を移そうとしてした。それを全く私は知らないまま、私達もマレーシアのMM2Hを取った。この偶然ってなんなんですかね。

姉と私と、両親にしてみれば二人の子供がマレーシアに行くとなれば、年寄り二人だけで日本に住んでいてもしょうがないと思ったんでしょう。「俺達もマレーシアに行く」とすぐにMM2Hを取り、住んでいたマンションを叩き売ってマレーシアに移った。それが9年前のこと。両親はその時、すでに80を超えていたのに、まぁ、行動が早いこと早いこと。

私もすぐにマレーシアに行きたかったのだけれどリーマンショックを引きずったままでゴールドコーストの自宅も売れず、時間ばかり過ぎて行った。でももうそろそろ行けるとなった時に、ちょうど長男はメルボルンの大学を卒業して日本での就職が決まった。でも行きたくもない日本に行ってどうするんだ?なんて話をしている内に、ダボ家の将来のために俺と一緒に奮起しないか?と話を持ちかけたら息子はその気になって日本の就職を蹴って一緒にマレーシアに来ることに。

両親とその子供である姉と私と4人家族が20数年間それぞれ違う国に住んでいたのがひょんな偶然でマレーシアに集結し、そして両親が(私よりも)大事にする、大好きな孫も一緒に来た。

なんだか見えないものに導かれた、そんな気がしてしかたがありません。

いつか来る時が来る日まで、両親のあの笑顔を見ていたいけれど・・・・

こんな歌を聞きながら、心の準備をしています。

 
 
 

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