「神の手」を持つ日本人がいる。入院していた「母」はそれで随分助かった。

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私の母が2019年11月に突然倒れ、パンタイ病院のICUに入院しました。先生方は本当にいろいろと良く頑張ってくれたのは間違いがないのですが、12月16日、永眠しました。

でも入院前は元気そのもので、93歳ですからそれなりの身体の衰えはありましたが、一緒にでかけたり食事に行っていたのが突然、倒れたものの、数日間、入院していれば良くなると思っていたんですよ。

でも入院して数日後、医師の話を聞くと、どうもかなり悪いのがわかってきた。特殊な薬を使ったりしたのですが、酸素吸入マスクを外すことは出来ず、特に「肺」が弱っているのがわかりました。

でも「入院が長引きそうだな」とは思ったものの、まさかそんなに酷いとも思いませんでした。でも夜中に病院から電話がかかってきて、「すぐに親族は集まってくれ」と言われたり(その日は回復した)、ICUですから私達家族も好き勝手に様子を見に行けないのですが、母の具合は段々と悪くなり、朦朧とすることも増えてきました。

これはかなりうまくなさそうだと家族皆が覚悟を決めたのですが、困ったことがありました。

私の次男坊の結婚式、披露宴がハワイ、日本で行われる予定が近づいてきた。

親が息子の結婚式に行かないなんてことがあるのか?と思いましたし、と同時に、本来なら近親者を呼び集めるべき時に、どうして2週間も海外に行けるんだ?と板挟みになりました。

母も全く意識がないわけじゃなくて、話も出来たのですが、母も孫の結婚式に出席は出来ないものの非常に楽しみにして、「結婚式の後に二人がマレーシアに来る」のを毎日毎日、写真やビデオレターを見ながら、「待ち遠しい」と言っていました。

でも様子を見る限り、そして医師の話を聞くと、私達夫婦、長男がマレーシアを離れ、そしてマレーシアに戻るまで母が持つのかどうか。12月末にはマレーシアに来ることになっている次男坊夫婦の顔を見ることが出来るのか。そのへんが微妙になってきました。

そんな時、「ある種のエネルギーを使って治療をするブログ友達でもある【みぬぅさん】」を思い出しました。ブログ村にもブログを登録しているフランスで学んだプロのパティシエ。ご主人はフランス人でフランス料理のプロ中のプロ(世界的に有名な調理学校の先生)。でもみぬぅさんは「ある種のエネルギー(気功)」の勉強をし、トレーニングも受けて資格を得、そして「マレーシアの病院に行ってボランティアとして治療」をしていたんですね。

実は我が家もそっち系には縁があって、かつては母も「突然、手のひら治療」が出来るようになって、家に具合の悪い親類縁者が押しかけてくるようなこともありました。私も若い頃から興味があって、あちこちのその道の大家に話を聞きに行ったり、トレーニングを受けたり。でも興味ばかりは凄い私ですが、「力」と言えるほどのものを得ることは出来ませんでした。ただ、あちこちに行って「その場にあるエネルギーを調べてみる」なんてことはやっていました。

ですので、みぬぅさんの話を聞いていても全く違和感がなく、みぬぅさんや所属しているグループは半端じゃないというのはわかっていました。

母のことをみぬぅさんにお願いできるかちょっと気になったのですが、連絡をしてみると快く受けてくれました。

遠隔治療も可能なのですが、会えるなら会ったほうが良いので、みぬぅさんにパンタイ病院のICUまで来ていただいたのです。その時、ご主人も一緒にいらしていたのですが、実際に会うのはそれが初めて。

ICUですから長居はできないものの、みぬぅさんは母の手を取り話をしていましたが、母もそういうエネルギーを全く知らないわけでもないし、そういう人が来るというのを楽しみにしていました。手をつなぎ見つめ合う二人の間に、何か私にはわからない「やりとり」があったであろうことはなんとなく感じました。

そして「毎日、みぬぅさんが(遠隔)治療をしてくれるからね」と母に伝えたところ、本当に喜んでいたんですよ。

その後は、私が母に見舞いに行く時間に、みぬぅさんに治療をしてもらうことになりました。Lineでみぬぅさんに連絡をすると、「ではこれから始めます」と治療をしていたのですが、治療後にみぬぅさんの話を聞くとびっくりなんてもんじゃないのね。その場にみぬぅさんが居て、母の身体の隅々をチェックしたかのごとく、母の様子を私にLineを通して伝えてくるんですよ。

そしてびっくりしたのは「右の肺に影がある」とみぬぅさんが言った時。実はみぬぅさんには伝えていなかったのですが、母は若い頃、大怪我をして右肺にまでそれが達し、レントゲンでも肺の一部が機能していないのがわかるという状態だったのです。病気そのものはそれとは関係がなかったものの、普通の人より肺の働きが弱いのは間違いがない。

私がLineで「母の今はこんな感じ」と伝えると、それにあった治療をしてくれたり、「XXXが弱っているのでそこを重点的に治療しました」とLineで連絡をもらったり。

これが何日間続いたでしょうか。母が快方に向かうことはありませんでしたが、悪くなることもなく、母の精神が安定していることが凄いと思いました。実は私が何よりも気になっていたのは「母のエネルギー体が健康であること」だったんです。歳も歳ですし、全快する希望がないわけじゃないにしても、「エネルギー体としての母の安定」が私が一番欲しかったこと。混乱、錯乱、妄想、妄言は全くなかった。

そうこうしている内に、私達夫婦はマレーシアを離れ日本に行かなくてはならない日が近づいていました。私は「日本行きを取りやめる」こともずーっと考えていたのですが、母はなんとなく大丈夫そうに見えたんです。私達が帰ってくるまでどころか、この様子なら次男坊たちが結婚の報告をしにくる年末も大丈夫じゃないかと思ったくらい。その状態を保てたのはみぬぅさんのおかげだと思っています。

ということで、私達夫婦は集中治療室にいる母を残したまま日本に旅立ちました。(長男は一足先にオーストラリア・ハワイへ出発)

その後は当然、毎日、姉と連絡をし、そしてみぬぅさんとも連絡をし、母の様子を把握していました。そしてまだ大丈夫そうな感じを受けていました。

ある日、みぬぅさんからこんな連絡がありました。「今日はお母様とお話をしたのですが【生きたい】という強い意志を示していました」と。話とは直接会ったわけじゃなくて、エネルギーのやり取りをしたということですね。私はその話を聞いた時には涙が止まりませんでした。母も頑張っているのがわかりましたから。

実は私がまだマレーシアにいて、母の見舞いに行ってる時にこんなことがあったんです。ICUには2時間しか私達はいられないのですが、「じゃ、またあした来るね~~。じゃね~~」と母に声をかけた時、母は神妙な顔をしながら私に手を合わせたんですよ。その瞬間、母が何を考えているのか全て理解できたわけですが、私はそのまま家に帰りました。その時も、車の中で涙が止まりませんでした。

次の日ですが、いつもより調子がよく話もできる母に言ったんですよ。「昨日さ、帰る時に俺に手を合わせたでしょ。あれどういう意味よ」と。母は黙っていましたが、私はあえて言いました。「どうも有難う。さようならの意味だったんでしょ?」と。すると母は黙ってうなずいた。

「バカだなぁ。今は肺が弱ってちゃんと呼吸が出来ないけれど、呼吸の訓練もしてるでしょ。酸素マスクをしていると楽だ、じゃなくて、深く強く息をする練習をすれば酸素マスクも外せる。そうしたら一般病棟に移れるって先生も言っていたでしょ。さよならじゃないんだよ。頑張れば良くなるんだから、諦めちゃ駄目だよ。年末には大好きな孫とお嫁さんも来るんだから、その時にこの集中治療室で会うのはイヤでしょ?どこかまた一緒に食事に行こうよ。頑張れば大丈夫だから」と。

すると母は笑顔になって「うんうん」とうなずいていました。そして深呼吸の練習をする。実はこの深呼吸の練習というのも退屈でつまらないものなわけですが、母が歌や詩吟が好きなのを思い出して、「やってみ?」と言ったんですよ。すると鼻歌じゃなくてちゃんとお腹に力を入れて歌うのね。詩吟とはそもそもそういうものですから。

たまに母が詩吟をうたっているのを聞いて、「よしよし、ちゃんと訓練をしている。やる気満々だ」と安心したことが何度もありました。

ま、姉から連絡をもらい、みぬぅさんからも連絡をもらい毎日が過ぎていたのですが、ちょうど次男坊の結婚式の2日ぐらい前から、「ちょっと調子が悪い」と聞きました。私としてはどうしようもなく、気が焦るばかり。

そして結婚式の前日、みぬぅさんからLineで連絡がありました。「おかしい。反応がない」と言うんですよ。みぬぅさんも気が動転している様子。

姉に電話をしましたところ、私達に心配させまいと思ったのか、「うん、ちょっと調子悪いね」という程度。

そして次の日の結婚式。

場所は北海道は網走なのに、全く雪もなく、「結婚式には冬服じゃなくて【防寒具が必要】」と聞いていた私達は、ちょっと拍子抜けしていました。そんなに寒いという感じでもないし。

ところが、結婚式の当日、夜中から雪が降り出しまして、それが今季の「網走の初雪」だったとのこと。夜が明けると、一面、冬化粧で全く違う景色になっていました。

でも吹雪くこともなく、寒いこともなく、結婚式が行われた時間には「白い花びらがヒラヒラと舞うような綺麗で優しい雪」が降っていました。これに感動したのは次男坊で、ゴールドコースト育ちの彼は「雪が降っているのを初めて経験した」と。

無事、(仏前)結婚式も終わり、その後の食事会も終わりました。

そして宿に帰り、いい結婚式だったねと話しながらゆっくりしていた夜中に、姉から電話。

「母が亡くなった」と。

茫然自失とはこういうことをいうのだろうと今思いますが、涙が出るわけでもない、悲しみが押し寄せるわけでもない、時間が止まったような感覚でした。

でも思ったんですよ。母は結婚式に来ていたって。あの雪も母からのプレゼントだろうと。そして無事に結婚式が終わったのを確認して、母は旅立っていったのだろうと。

ただ困ったのは、結婚式の夜なわけで、日は変わっていましたが、母がなくなったことを結婚式が終わったばかりのおばあちゃん子である次男坊や新婦、そして先方の親族に伝えることが出来なかったこと。ましてや、その後、場所を網走から東京へ移して、東京では披露宴が行われるんですから。

「黙っていようね」「絶対にばれないようにしようね」

と私とヨメさん、そして長男と肩を抱き合って泣き明かしました。

そして一週間後に東京にて披露宴。

彼らは12月末に、結婚の報告にマレーシアに来て、大好きな大好きなオバーチャンがいないことを知る。

我が家の息子達は、私が教えた覚えはないのだけれど、いつも祖父母を大事にしていたし、話をする時にはタメ口もきかず、幼い頃から馬乗りになったり頭をペンペンするなんてことも一度もなかった。

シドニーから黙って突然訪ねてくるようなこともあった次男坊。いつも「おじーちゃん、おばーちゃんのお土産はどうしよう、何にしようと」と気を使っていた次男坊。そして会えば、率先して手をつなぎ、母をいたわってくれる次男坊だった。そして「孫だけが私の命」といつも(平気で)私に言う母だった。(笑)

二年ぐらい前でしょうか。私はこの二人の後ろ姿を見た時に、私の両親への親孝行はもう十分、終わったと思ったのが忘れられません。

ま、こんなことがあったわけですが、母がそれなりに命をつないでいたのは「みぬぅ」さんのおかげであると私は確信しているし、感謝しています。

具合がどうのという前に、母は混乱したり錯乱することもなく、いつもニコニコしていられたのは医師のおかげとは思わないのです。みぬぅさんのおかげ。

母は結婚式の当日、北海道のあの場に来ていたと思うし、仏前結婚式で新婦の父である僧侶が仏壇を背にして二人を祝福する時に、母も一緒にいたような気がするのです。あの理屈っぽくて現代的な次男坊が、一人感動して涙を流していたのは、大好きなオバーチャンの存在を感じていたからかもしれない。

そして結婚式が終わり、役目は終わったと悟った母はその夜に静かに旅立った。これも母のエネルギー状態を安定させてくれていたみぬぅさんのおかげだと私は信じて疑わない。

ああ、そういえば姉から変な話を聞いていました。結婚式の前の晩、母の意識はすでになかったようですが、姉が変な夢を見たと言うんです。「おかーさんがおとーさんの杖をついてどこかに行こうとしているのよ。だから【おかーさん、どこへ行くの?】と聞いたら、ニヤっと笑っていた」と。私はこれも本当の話として信じたい。

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