コロナを怖がるのは「集団ヒステリー」?

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コロナを怖がるのは「集団ヒステリー」だという論客が増えていますね。

感染症の専門家でもない、医学の知識が無いのに等しい素人、一般個人でもそれをいうようになった。

だから?

「自粛要請はやめろ」「経済を回せ」

ということなんでしょうか。

それとも、「平常どおりの生活をしろ」「不安を持つな」ってこと?

「三密を気にするな」「マスクも必要ない」と?

集団ヒステリーだといういう人達は、「じゃぁどうすればいいのか」をはっきり言うべきで、それがなければ意味がないんじゃないですかね。

また、あの変わり者の「小林よしのり氏」がこんなことを言っている。

新コロを指定感染症から外さない限り、集団ヒステリーは終わらず、経済も回らないだろう。経済は命を守る基盤である。それを知らない者は大人ではない。

この発想って問題があるんじゃないですかね。

指定感染症に指定されているのは「医学的見地」からだと私は思うわけで、そこに「経済」は関係ないんじゃないですかね。でもそれを繋げてしまうなら「医学も科学もどうでも良い」ってことになるんじゃない?また「指定感染症から外せば集団ヒステリーが終わる」という考え方にも論理の飛躍があるんじゃない?

私はというと「集団ヒステリー」であるというのはわかる。そういう部分はかなりあると思う。

でも「集団ヒステリー」は人間の持つ一般的な性向であって、それはそれで「受け入れるべき」という考え方。「集団ヒステリー」を否定してもそれは無くならないんじゃない?

だから問題は、それが病的だとすれば「どうやって集団ヒステリーを抑えるのか」という【医学的見地】から解決するしか無いと思う。

私としては、大きな沼地にいる「渡り鳥の大群」や、アフリカの草原にいる「草食動物の大群」が頭に浮かぶんですよ。彼らは「些細なこと」で行動を開始してそれが全体に伝播するじゃないですか。

ではその「些細なこと」が本当に彼らにとって危険なのかどうか。

問題はここにあるんじゃないですかね。

天敵が彼らを襲いに来ているのか、それとも小枝が水面に落ちた音を恐怖に感じたのか。どちらにしても「危ないと感じるからそれが行動に出る」わけで、「危ないと思った原因はなにかは関係ない」んじゃない?

コロナを怖がる人たちはそれと同じだと思うんですよ。だからいくら「コロナは風邪と同じだ」「重篤者、死亡者はインフルエンザよりも少ない」と言おうが恐怖を持っている人には通じない。

また「コロナは風邪と同じだ」というのも、時期尚早な部分もあるわけで、変異を続けているコロナを、そしてそのコロナの全貌がわかったわけでもない今の時点で何を言えるのか。それも素人が。

「コロナは恐れる必要はない」という人たちは、「そう思える話をあちこちからピックアップして並べる」だけで、全てを理解しているわけでもない。

また最近、香港の【感染から回復した男性が4カ月半後に再感染したことを発表。再感染が実証された世界初のケースとして報道された】ようなことをどう考えるのか。また【新型コロナから回復した人の3割以上に何らかの呼吸器の後遺症】というのも「風邪と同じ」と無視するのか。

すくなくとも「風邪と同じだ」「集団ヒステリーだ」という人たちは、こういう新たな情報や多くの人が持つ不安に対し、【一つ一つそれは大した問題ではないことの説明義務がある】と私は思うわけです。当然、それは【科学的で反論の余地がない説明】でなければ意味がない。

ちなみに我が家のヨメさんはご多分に漏れず【ヒステリーを起こす】ことがある。これは私自身も同じで「常に冷静な判断ができるわけではない」のははっきりしている。

こういう状態の時に「ヒステリーを起こすな」という呼びかけで全てが解決するんだろうか。

私はオバケが怖い。暗いところも嫌い。肝試しなんてとんでもないことで、夜中の真っ暗な古い墓地に一人で行くなんてことは絶対にできない。

さて、こういう私を誰がどういう風に変えることができるのか。それを是非、示して欲しいと思う。

「ばーーか、勝手に怖がってろ!」と言われるのが落ちじゃない?

これはコロナも全く同じで、必要以上に怖がる人たちを止めることは簡単ではなく、それは「異常な不安」だとしてもそれを指摘したところでどうなることでもない。

マスコミに「不安を煽る報道はやめろ」と叫んでも、不安を煽るのがマスコミの仕事だぐらいに私は思うし、そういう報道を国民が望んでいる限り続く。モリカケ騒動を思い出しても彼らは「騒ぎが大きくなる方」にしか動かない。あるいは都合の悪いことは「報道しない自由」を行使する。

地震や台風が来ると困るから、「来るな!!」と叫んでもどうにもならない。これと全く同じじゃないですかね。

今の問題は「コロナそのもの」よりも「心の問題」だと思うのですが、心の問題は「気の持ちようで簡単に変わる」部分もあるけれど、逆に「動かそうと思っても動かない」のが現実で、それをどうするかの一歩進んだ議論が大事なのに、「お前達、間違ってるぞ」と叫んでも何も変わらないのはわかりきったことじゃないですか。それをわかっていながら「ああすべき、こうすべき」と言い続けるのは、私には子供がダダを捏ねているのと同じに見える。

逆に「コロナを簡単に考えている人たち」がどういう行動を取り、何が起きているのかは世界を見ればすぐわかるわけで、そこからまた新たなクラスターが生まれ、移された弱者が重篤化し死んでいく状況に変わりはないわけで、私としては「コロナは風邪と同じだ。大したことじゃない」と主張する人もまた「集団ヒステリー状態」にあるように感じるんですよ。そして「自分は現状分析には秀でていて、論理的考察が常にできる。アホとは違う」という上から目線を私は感じます。(例えばホリエモン)

ましてや「国や自治体」が「あなたは集団ヒステリー状態です」なんて言えるわけもなく、それでもそういう人たちを無視した方策を取れば、【必ず、選挙で落とされる】んじゃないですかね。

でも日本のやり方を最初から思い出してみると「新型コロナは風邪と同じ」というのを基本にしているであろうことは見えるはず。そして「死亡者、重篤者を出さない」「医療崩壊を起こさない」ということで一貫している。「感染そのものを広げない」という考え方は二の次なのは見えている。

だから今でも「玉虫色の方策」しか取れないのであって、私達が住んでいるマレーシアや台湾の様に【感染そのものを抑え込む】という考え方は最初から持っていない。

だから「一体何を考えているんだ?」と思うけれど、これもまた日本的な「適当な落とし所を見つける」ってことじゃないかと。白黒は付けないやりかた。

集団ヒステリーだろうが、過度の不安だろうが、「それがいつか落ち着くとき」は必ず来るはずで、それを待つしか無いんじゃないですかね。

うちの「過度に怖がるヨメさん」も、「怖がり過ぎかもしれない」とは思っているはず。でも「安心できる状態ではない」と考えているわけで、ではどうなれば安心と思えるのかも人それぞれで、その不安が減少していく、あるいは慣れてしまう時が来るのを待つしか無いと私は思う。

当然、経済への影響は大きいけれど、それもまた自然災害と同じで、「そういうことは起きる」と受け入れるしか無いと私は思う。

自殺者が増えるのが問題だなんていう人は多いけれど、そういう人たちは「もう死ぬしか無いと思ったことがあるのか」私は気になるわけです。世の中には「もうダメだ。死のう」と考えたことがある人はかなり多いハズで、実際にそうした人たちだけが「数字として出てくる」けれど、後ろは断崖絶壁、四面楚歌の状態どころか、崖から転落したようなところから「這い上がった人たち」の方が自殺者よりはるかに多いんじゃないですかね。

そして大事なところは「経済の停滞」が直接の「自殺の原因ではない」んじゃないかってこと。経済の停滞によって、「家族崩壊が起きた」「借金の取り立てに我慢ができない」「大事な人に見捨てられた」「もう再起はできないと思う」「もう夢がない」等が原因じゃない?

自殺とは「自らが選んだ道」であって、また死ねずに頑張って生きる人達も「自らが選んだ道」であって、「経済が落ち込むと自殺者が増える」という問題は、「だから経済を停滞させてはならない」のではなくて、「どん底に落ちても死を選ばない、再起できる世界」を作ることが重要なはず。

でもそれは簡単ではないから「経済を停滞させてはならない」となるのだろうけれど、私はそれは短絡的だと思う。

「貴方達は集団ヒステリー状態だ」というのも全く同じで、解決策には程遠い。

「自殺者が増えないように経済を維持しないとならない」というのも、「コロナに関しては集団ヒステリー状態だ」というのも、私にしてみると【「風が吹くと桶屋が儲かる」という論理に似ている】ような気がするんですよ。問題は「風が吹くかどうかではない」のに、そこに無理やり答えを見つけようとしているような。

でもま、「新型コロナは風邪と同じ」という主張をするべきではないとも思っておらず、そういう人たちと「いやいや新型コロナはとんでもない脅威だ」という人たちの両方が存在することこそが健全であると思うし、そのバランスは常に変化し、お互いが影響しあって、そして【現状の変化】によっていつか落ち着くところに落ち着くんじゃないですかね。これはスペイン風もSARS、MERSも同じ。

少なくとも間違いがないのは「広がらせてはならない」と頑張る人たちの足を引っ張ってはならないってことだろうと思っています。そして「恐怖に慄いている人たち」に、「大丈夫だから~~」と無理強いもするべきじゃない。

経済的な落ち込みに関しては、私は「自己責任」だと思っていて、地震、津波などで「経済の維持ができなくなる」のと同じ。円高で破綻するのも同じ。世界には何が起きるかの想定もせずに、やりたいようにやっていて、それがいつか行き詰まった時に「助けてくれ~」というのは、私にしてみれば「虫が良い考え方」にしか思えない。もしもそれが政府や自治体の「失策」が原因であったにしろ、同じこと。(過去に長い間、日本が円高で苦しめられたのも日銀の失策と言える)

文句があるならコロナに言え!と私は思う。

このコロナ渦の中で生き残りを賭けて頑張ってやっている人、企業、店舗はあるわけで、そして実績を出しているところもチラホラあるわけで、それを援助し伸ばすのが何よりも重要なはずで、「元通りになることを願い、待つだけ」の人たちは消えていくのはしょうがないと私は思う。

個人も同じで、うちの全く論理的ではないヨメさんにしても、「彼女なりに生き残りを真剣に考えて行動を決めている」わけで、「そんなに心配するな。コロナは風邪と同じだ。お前はヒステリー状態だ」と言ったところで、何も変わらない。そしてその言葉でヨメさんが精神的にも、経済的にも救われるわけでもなんでもない。そしてその考え方、行動でヨメさんに何が起ころうと、それはヨメさんの責任。

それぞれが「できることをやるしかない」んじゃないですかね。

国や自治体に頼ってどうなることでもない。

でも面白いもんで、「なぜ安倍首相は【責任は私が取る】と明言しないのか」なんて記事があったけれど、こういう発想が他力本願の生き方に向かう発想であって、「自らが【サファリパークの中で生かされている存在】だと認める」考え方(自分で自分の人生を歩いていない)じゃないんですかね。

経済を回すのは「どんなときでも自分の責任」であって、うまく行かない原因は山ほどある中でどう生き延びるのかは「それぞれが考えること」だと思うわけです。

そしてそれは古代から現代、そして未来永劫、同じだと思う。

理想的な共産主義、全体主義が存在するのなら、「助けて~~~」という生き方も成り立つのかもしれないけれど・・・。

ただ政府や自治体は何もしないで良いってことではなくて、「自らの考え方、行動によって【新しい時代の中でどう生き抜くか積極的に模索する人たちには手を差し伸べる】ことは可能で、誰でも彼でも助けるなんてことはあり得ないんじゃない?

だから「自粛要請なんかしなければ良い」ってのはあまりにも自分勝手な考え方じゃないかと私は思うわけです。「あなたは集団ヒステリー状態です」ってのも同じで、問題解決には程遠い。逆に自粛要請も無い、規制もないとなると「怖がる人はますます引きこもる」ようになるんじゃない?また規制がほとんどなかったスウェーデンやブラジルの経済の落ち込みをなんと説明する?

じゃ、ダボはどうするべきだと思うのか、って?

何度も書いていますが、今回のコロナに関しては調べれば調べるほど「わからない」と感じています。ある程度、見えてきたなと思った時期もあったけれど、どんどん新たな情報が出てきて、専門家によってもまるで違う見方がある中で、トーシロの私に何がわかるわけでもない。

どうなるかはわからないにしても「ほとぼりが冷めるまで待つ」「やるべきと思うことをする」しか出来ない。

経済的には「今までとは違う考え方に頭を切り替えて、どんな時代になるかシナリオをいくつか想定して、それに合わせて生き残りを考えて行動する」だけ。

少なくとも「我慢していればいつか春が来る」みたいな考え方は持っていないし、当然、「どうやったら春が早く来るのか」、なんてこともさっぱりわからない。そもそも人生って、世の中が春が来た~と喜んでいるのに、どうして俺は地獄なんだ?なんて思うようなことが起きるのが常だし、全ては自己責任。誰も助けてくれないのはわかりきったこと。

自分の思い通りにならないことの「犯人探し」をしたところで何も解決しない。生き残るには「つべこべ言わずに流れに乗るしかない」んじゃない?

 
 
 

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