ある「古くからの読者」との別れ

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こうやって長い間ブログを運営していますと(2008年から13年)、多くの方と知り合いますし、また喧嘩別れに似たようなことも起こる。普通は気に入らなければただ黙って立ち去る事が多いとは思いますが・・・。

今回、10年以上もの長い間、このブログの読者(常連さんと言うべき)だった方から「お別れのメッセージ」を頂きました。

これは「意見の相違」「私の人格攻撃」が原因だと思います。

意見が違うのは良いことだと私が考えているのはいつも書いていることですが、その常連さんに対しては、私は不用意に「人格攻撃をしてしまった」自覚があります。それが決定打となったのでしょう。

その方とは今までも随分、考え方の違いがあって、でもそれをやり取りする中で私も「なるほど」と思うこともあって、良い関係が出来ていると思っていたのですが、今回は私が一線を超えてしまったようです。これはコロナやワクチン、そして政府の対応、メディアの報道の仕方、そして専門家の中でも考え方が統一されているなんてことはなくて、ありとあらゆる考え方、意見、情報が出回っているし、中には「陰謀論」と言われてしまうような微妙な事柄もある。

私としてはそれらを一方的に言われて、ハイそうですかとは言えないのね。またこのブログはそういう「間違いは正すべき」「弱者を救うべき」と思う人達にとって、意見や情報をコメント欄に書いて広める場所でもない。私に返信はいらないと言われても、返信をする、私の考えをレスするのは礼儀だとさえ思っていて、「読者の【とにかく書かせてくれ】」みたいなことを認めるわけには行きません。

いや、本音の部分では、このブログの読者もご存知のように、そもそも私は「陰謀論でさえ無視しない」立場ですし、様々な考え方を否定するだけの知識もないし、事実と言われることも自分では検証もできないこともあって、「それもあり得る」というスタンスをいつも取っていて、頭から否定することはまずありません。

でも私には私の考え方がある。

なおかつ、政府には政府、メディアにはメディアの考え方があって、専門家もいろいろでそこには大きな差がありますよね。

で、私としては「リーダーは結論を出さなくてはならない」というのが根本にありますから、今のコロナ対策にしてもワクチンにしても、その副反応や将来的な副作用にしても、そしてワクチンによる死亡者が多いこともわかった上で、【政府はワクチン接種を推し進める】のは理解できるわけです。日本でのわけのわからない規制に関しても、政府内部の力関係、そして船頭多くして船、山に登るなんてことも起きているんだろうと思っています。そしてそれは「しょうがないこと」だと思うんですよ。

これは、それが良いということではなくて、政府が「それが良い」と考えているのを理解できるということ。これを「私が賛成している」と思われては困るわけですが、そこを理解できない人もいるんでしょう。

私は自分が日本をどうするかの結論を出す立場ではないのは本当にラッキーだと思うのね。誰がやっても100点満点はありえないし、50点以下、20点かもしれない。でもリーダーはそれでもやるしかない。それがリーダーに課された責任であり、義務。

私にしてみれば、治験もまともにやっていないワクチンを推奨するなんてとんでもないし、副反応や副作用に対しても、私はメディアも含めて「隠そうとしている」のを感じています。このへんの情報はネットの中に山のようにありますよね。それらを私はいちいちブログに書くことはしませんが。それもあるから、我が家は、我が家の事情も加味して「(今は)ワクチンを接種しない」と決めているわけです。これはワクチン接種に危険があるというより、都合の良いことばかり並べる「政府や専門家のやり方」に乗りたくないという気持ちのほうが強いかもしれない。

つまり、リーダーがどんな結論を出そうと、私達は私達の考え方で生きることが出来る。これが素晴らしいと思っていて、リーダーが決めたことが正しかろうが間違っていようが、私達は自分で判断して行動を決めることが出来る。国の決定に従わないという選択も、そういう国そのものを捨てる選択もある。それは私達に与えられた自由。

でも政府に、「やめろ」とは思わないのね。それ以外に代替案があるとは思えないし、決定に問題があるのなら、リーダーとその周りにいる半端じゃな数の関係者を引き下ろすという選択肢しかないと私は思うわけ。理想論をぶつけたり、どれほど多くの問題点をえぐり出したところで、それで変わることってほとんど無いんじゃないですかね。無駄な抵抗とは思わないけれど、日本の左派政党がやっているのと同じで、それで世界は変わらない。

有権者が納得する、実現可能な代替案をだして世に問うしかないんじゃないですかね。文句ばかり言っても何も変わらないのはコロナやワクチンに関することも同じだと思っています。リーダーとは何かってことをどう考えるか。リーダーって決して「みんなの意見を聞く調整役じゃない」わけで・・。

政府の決定って、医療の世界で言われる「トリアージと同じ」だと思っているんです。【全員を助けることは不可能】と判断した時に、「多少の犠牲は受け入れるしかない」という考え方。でも実際は「多少の犠牲」じゃなくて「とんでもない数の犠牲」かもしれず、ワクチンによる死者に関しては、「ワクチンを打たなければ死ななかったのに」という数字が、ウィルスによる死亡より多い可能性だってあるわけです(特に年代別)。

これはコロナだけじゃなくて、すべての政策に言えることで、必ず犠牲者は出る。

でもねぇ、それも私は結果論だと思うんですよ。ワクチンを打たないほうが良かったという数字が出たとしても、「それでも打つという決定をする」のはリーダーとしてしょうがないと思うわけです。逆に、ワクチンでの死亡者がどうなるかわからない時点で、「ワクチンという解決策を無視する」「結果がはっきりしないことは先送りにする」と決めることが出来るのかどうか。

それを決定するには「データを見て判断」するしかなくて、治験さえも十分にできなくて見切り発車したのに、データをきっちり見るという「先送り」はかなり難しいんじゃないですかね。その間に、状況は悪化し、死者も増えている中で、「ここは立ち止まって考えよう」というのは不可能と言っても良いかも知れない。

つまりですね、12000万人の国民がいたとして、9000万人を確実に助けるためには3000万人を見殺しにするしか無いとリーダーが決断することもあり得るってことだと思うんです。でも当然、死亡者を減らす努力はするのは当たり前ですが、3000万人が死ぬ可能性があることは即刻中止するべきとは私は思わない。

これは客船が沈みそうになって、救命ボートの数が足りなかったらどうするのか、という選択に似ていると思うわけです。全員を助けたくても無理で、「一部を切り捨てる」ことによって「多くが助かる」としたらそれを選択するのが私はリーダーの責務だと思うんです。

これは私達の一般社会でも同じで、「従業員を減らさなければ会社が成り立たない」という状況はいくらでもあるわけですが、ではどうするのか。あるいは給料アップや減額、出世や左遷に関しても、「皆が平等で同じ様にする」わけにはいかないのが世の中の常。

ま、この辺は「能力に応じて差をつけること、それが平等、公平」だという考え方があるわけで、何でもかんでも同じなのは不平等であると思っています。

でもコロナにしても沈んで行く客船にしても「死人がそれなりに出るのを受け入れる」とした場合、その選別はどうするのか。

医療の現場なら「助かる見込みが少ない人は後回しにする【トリアージ】」は理解出来ますが、客船の場合もコロナに関しても、選ぶ基準がない。だからワクチンにしても「酷い副反応、副作用、あるいは死亡」したとしても、それが「自然に任せた選別」とも言えると思うんです。

冗談じゃないですよね。

でもある程度の犠牲は受け入れるしか無い。

この辺を理屈で考えるか、感情で考えるかで大きな差が出ると思っています。

弱者を救わないとならない。犠牲は増える。このままでは駄目だという考え方も非常によくわかるんですよ。

でも世界を見渡すと常に弱者は切り捨てられる。そしてそれに心は痛むこともあるけれど、正直なところ、私は地球の裏側で死んでいく子どもたちに涙を流したことはないんですよ。巨大な力によって殺される人が決して少なくないのがわかっていても、私はそれに対してなんの行動も起こさない。

でもコロナのこと、ワクチンのこと、それらの犠牲者は救うべき。間違った政策は正すべきだと声を上げる人たちに私は違和感を感じることもあるんですよ。「貴方が助けたいのはその人達だけなんですか?」と思うわけ。

そして本日、私にお別れを告げた10年以上前からの常連さんは、「犠牲が出るのがわかっていてやる」なんてことは受け入れられないという優しい方。また「犠牲が出るのを隠す政府」も絶対に許せないという方。弱者が常に犠牲になる世の中を受け入れたくない方。

でも自分に関係ない人達の不幸は見て見ぬ振りをしているでしょ?

メンタリストのDAIGOが差別発言をしたと叩かれましたが、私はあの発言は彼らしいと思いました。「誰の心の中にでも存在する矛盾」を彼はああいう言い方をしただけで、彼の発言が良いとは思わないけれど、「誰もが持っている心のなかの矛盾や闇」を彼はえぐり出して、「自分のこと」として発言した。あれは私は彼の善意かもしれないと思っていて、彼は「貴方もそうでしょ?」と言いたかったんじゃないかと思っています。そして誰しも、地球の裏側で死んでいく人には全く興味がなくて、自分のペットが死んだら大騒ぎをするのは事実。

でも弱者を放置するべきじゃないと、私も本心ではそちらの考え方をするのは、読者の多くの方々はわかっていることだと思うし(私の徹底的な中国嫌いはここから来ている)、今回の常連さんもそれを感じていたから今まで10年以上の付き合いもあったはず。

でもその方とのやり取りの中で、私がずーっと感じていたことはなにかというと、【ではどうすれば良いと思うのか?】なんですよ。

残念ながら、私はその方からその解決策を聞けなかったんです。でも「あれは危険だ」「嘘がある」「こういう事実がある」「認められない」「即刻やめるべきだ」という意見は何度も何度も聞いていました。

こういう理想論ばかりだと、「何も進展がない」と思った私は、そういう理想論を並べる癖がある読者に「根本的におかしくない?」と人格攻撃をしてしまいました。

これは私の落ち度なのは間違いがない。

「理想論で生きていけるか」という考え方と「理想を追うべき」という考え方が両方存在するから、物事って良い方に動くのだろうと思うんですよ。でも私は理想論を否定してしまった。その方は、「とんでもないことが今、起きている」と思うからこそ、私の考え方に「責任感のなさ」「いい加減さ」を強く感じたのだろうと思います。そして「この状態は良くない!」と主張しているのに、私から「貴方、ちょっとおかしくね?」なんて言われたようなもんです。

本来なら、「嘘や隠蔽を暴きつつ」「事実は表に出して」、「今やるしかないことは続けながら」、「できるだけ犠牲は減らす」方向でどうあるべきかを考えていくべきなんだろうと思いますが、それは出来なかった。残念です。

誰が正しい、どういう考え方がまともなだと結論づけるのは簡単ではないのを前提に、一歩前に進むことができたらと常日頃考えているのですが、それが出来なかった。

とても残念です。

今日、お別れを伝えてきた常連さんは、このブログの常連さんの中でもきっと一番古く、そして今まで様々なことで一番多くの意見交換をしてきた方。

ほんと~~に残念です。

なんだか「コロナにどう立ち向かうべきか」の会議中に、喧嘩になって会議そのものを中止してしまったような、どうにも煮え切らない思いがありますが、これもまたしょうがないことなのかもしれないですが、その常連さんは「通りすがりに好き勝手なことを吐く」ような人ではないから(多分、私の投稿のすべてを、そしてコメントの隅々まで読んでいる人)、本当に残念に思います。

私としては今まで有難うございましたと言いたい。私もこの10年以上、多くのことをこの読者から得ることが出来たのは間違いがない。

またいつか、それぞれが言いたいことを言い合い、そういうお互いであることを認め合うことが出来る日が来るのを楽しみにしています。

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