人間、死ぬまで勉強しなくちゃならないと、70歳になった今も痛感しています。
過去を振り返ってみると、山あり谷ありでトレードや投資関係もとんでもない時間を掛けて勉強し、経験し、どうにかこれで行けるかなと思ったところで、またどん底に突き落とされた。
勝ち続けるなんてことは絶対にないのはわかっていて、そして「負け方も覚える」のね。負け方がうまくなれば自ずと利益は増えるようになる。私はもうそういう風になったという慢心があったのは間違いがない。
70歳の誕生日に、投資先の破綻がわかって、人生最大の損失を出してしまった。まさかと思いましたよ。
何が悪かったのかと、当然、反省をするわけですが、その投資を決めた時の自分は「間違いなく慢心していた」のがわかる。普段通りに淡々とやっていればよかったのに、【よし!ここは勝負だ!】なんて過去にやったこともない大勝負をした。
欲の塊になったいたのが良くわかります。そして今までうまくやってきたのだから、「それはこれからも続く」と甘く考えていたのがわかる。
危険は感じなかったのか?
そりゃ感じましたよ。危ない投資対象だと思ったし、今、改めてその頃のことを思い出すと、【なぜゴーサインを出したのかも良くわからない】のね。それもゴーサインを出しただけじゃなくて、通常の3倍もつぎ込んでしまったんですから、狂っていたとしか思えない。
そう。狂っていたのだと思います。そしてそんな私の背中を押したのが「強い欲望」であり、「慢心」なのがわかる。
何十年もこの世界で生きてきたのに、なんで今頃になってそんな事が起きたのか。このブログにいつも書いていることなのに、なぜ自分はそれを守れなかったのか。
でももう自分を貶し、罵倒し、意気消沈することはやめました。
こういう失敗って、決してなくなることはないというのが自覚できたから。つまり、「欲望」も「慢心」も消し去ることは出来ない自分の一部なのね。だからちょっと気が緩むとその自分が出てきてしまう。元はと言えば「欲望と不安の塊が自分自身」なのだから。
フト思ったんですよ。
信心深い人は「毎日お祈りをしたり、お経をあげたりする」わけですが、【毎日、そうすることが重要なのだ】と気が付きました。
自分が欲望や不安、そして慢心に囚われないようにするには、私も【毎日、それを自分に言い聞かし、チェックをする必要がある】んでしょう。
会社や事業所で毎日朝礼をしたり、ラジオ体操をしたり、毎日毎日同じ注意事項を確認したり、そんなことはあちこちで行われていますが、私はそういうのを馬鹿にするタイプなのね。「わかりきったことを毎日毎日、馬鹿じゃないか」なんて思う。
電車の車掌もそうですが、海の上の運転も同じで、【指差し確認をする】んですよね。小さなボートでも「前方よし、後方よし、右舷よし、左舷よし。微速前進~~」なんて指を指しながら声を出して、ボートを走らせる。
なんでそんなことをするのか?
踏切では一時停止ってのも同じかもしれない。そもそも信号や標識もそうで、「車も人もいないのだから、守らなくても良い」という風にはなっていない。
トレードや投資も同じかもしれないと思いました。
フト、魔が差すことがある。そういう時に、事故を起こさないように、みんな毎日毎日、繰り返し注意事項を確認するんでしょう。そしてルールを守る。
もしあの投資を決めた時に、自分自身の点検をしていたら、「あれ?俺はいつもと違うぞ」というのに気がついたかもしれない。
「俺は自分のことを一番知っている」なんて自信過剰になることってよくあると思うのだけれど、意外に、自分のことだからこそわからないのかもね。
馬鹿みたいだけれど、毎日の「仕事始め」には、一人朝礼でも構わないから、重要事項の確認、自分の健康や精神状態のチェックをするのが良いような気がします。
そして、毎週、週始めには「この動画を必ず見る」のを決め事とするのも良いかもしれない。
先程、ノブ塾の動画を見ていて、そう思いました。これはバイブルと言っても良いかもしれないと。ほとんどわかりきったことではあるけれど、あえてそれを週に一度は確認する。そして仕事始めには、神棚の前に座り、冷静に自分を点検し、そして「常に冷静であることができますように」と神に手を合わすのも良いかもしれない。