日本に帰りたい・・・・。「日本に移住?」良いと思うなぁ。

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日本に帰りたいといつも思っています。

その理由はこれ。

こんな動画を毎日見てはため息・・・・・。(笑)

日本って本当に凄いと思うし、でもこういう日本って【私の知らない日本】なのね。

私達が日本にいるころって、こんな店はなかったと言ってもいいくらいなのに、今じゃこの手の店はいくらでもある。

つまりですね、私たちはこういう店には行ったことがないということ。(┰_┰)

私は、自分はグルメではないと思うのはそういうことで、そもそも新鮮で美味しい魚介類をお店で食べたことがあるのか?って思うんですよ。

実は私もグルメ気取りだった時代があって、それは20代30代のころ。なぜか当時はとんでもなく稼げてポルシェ911Targaを乗り回し、飲みに行くのは六本木赤坂、時々銀座で、当然、美味しい店があるなんて聞くとすぐに行くような時代がありました。(その後、サラ金のお世話になるほど落ちぶれた 笑)

また父の実家は築地魚河岸の仲買人で、父も若い頃は築地で働いていましたので、「美味しい魚」をいつも食べるということは無いにしても(売れ残りを食べるのが普通)、美味しい魚は身近にありました。

でもどんなお店が巷にあったかを思い出すと、私が好きだったのは「(女将と板前がいる)小料理屋」でした。でも小料理屋って私は「関西の文化」だと思っていて、東京には決して多くはなかったのね。神楽坂あたりには多かった印象があるけれど、あとは「超高級会席料理屋」みたいな店がけっこうありましたっけ。それは赤坂、川崎あたりにあって、でも時代と共にそういう有名店はどんどん廃業していく時代だった。

そういえば、私が若い頃、「フランス料理店」なんて東京では赤坂、銀座、芝公園に有名店があるだけで、ビストロなんてないのも同じで、東京中探しても数店舗で、わざわざ横浜の港の見える丘公園の近くの店に行っていたぐらい。

これは「イタリア料理店」も同じで、私が若い頃「イタリア料理専門店」ってあったっけ?と思うくらい。

でも「スパゲティ専門店」はあって、渋谷の宇田川町の「壁の穴」には高校生時代から頻繁に通っていましたっけ。で、高校2年3年の時にはアルバイトもした。当然、洗い場が主ですが、「たらこスパゲティ」「飲み物」は私が作る役目でした。どうも「たらこスパゲティ」って壁の穴が発祥らしく、私がそこでたらこスパゲティを作っていたのか、なんて思うと凄い出会いがあったんだなんて感心したり。(笑)

そういえば「ピザ屋」も少なかった。六本木界隈に有名店が3,4店舗あって、私は渋谷にある「カッペリーニ」という店が好きでこれまた高校時代から通っていたり。当時のピザってイタリアンピザが主流で、分厚くていろいろ乗っているアメリカンピザはまだ日本に上陸していなかった。でも日本でピザが流行ったのはアメリカンピザが入ってきてからで、逆に「イタリアンピザ」が影に追いやられた印象があって、ピザ屋は多くあっても美味しいピザ屋がないなんて時代もあったのね。でも今では本格的なイタリアンピザ屋がごっそりあって、アメリカンピザは流行っていない様子。良い傾向だと思いますが。(笑)

だから若い頃はそれなりに美味しいものを食べたり、時代の流行には乗っていたんですよ。ただ、仕事柄、全国を回る事が多くて、「地元の名産品を食べる」のが楽しみでしたが、そういう物が東京でも食べられるような時代ではなった。

どちらにしてもそれって30年以上前の38歳までの話で、オーストラリアに渡ってからは「受難の日々」みたいでしたっけ。でもまだバブルの残りがあって、ゴールドコーストにはそこそこ美味しい和食店が数店舗はあった(ホテルの中とかも)。ところが巷では基本的には「焼きサバ定食も、アジの叩きもない」みたいな。特に「魚介類」が残念なんてもんじゃありませんでした。ゴールドコーストがあるクイーンズランド州って「海産物で有名」なんですが、日本のイメージとは違うのね。エビやカニがごっそり捕れるからってなんなのよ、みたいな。種類が色々あるわけじゃないし、生で食べる習慣がないから「新鮮な魚介類は買えない、見ることもない、でも海産物で有名な場所」が当時のゴールドコーストでした。でも大量少品種で、アワビや伊勢海老はとんでもなく安い値段で手に入った。でもその他にいろいろあるわけじゃない。

そして「日本からの輸入」ですが、オーストラリアって規制が厳しくてあれじゃこれじゃと入って来なかったのね。(当時の話)

私たちはそんな「日本食から離れた生活を25年も続けた」のね。

そして「マレーシアに渡って6年」で、これまた日本食とはあまり縁のない場所。高級店に行けば美味しいものはあるけれど、自分で美味しくて良い素材を手に入れるのは半端じゃなく難しい国。日本の場末のスーパーにも負けていると思う。新鮮で美味しいアジ・サバでさえも手に入れることは不可能。(でも日本からの輸入品なら考えられるほぼ全ての魚介類が新鮮な状態で手に入るが、当然、気軽に買える価格ではない)

だから30年以上、和食の進化を私は知らないんですよ。本当に美味しい和食なんて年に数度食べられるかどうかみたいな食生活。

だからいつも「日本に行きたい・・」と思い続けていました。でも日本にはよっぽどのことがないと帰らない。(現在、息子が東京大阪へと3週間の旅行を満喫中)

ただ、日本には世界の隅々から安い海産物が入ってきて、「美味しい日本産を食べる機会が減った」と感じたことは、何度か日本に帰って感じたこと。つまり、日本は長い不景気、デフレの時代に入っていて「安いもので溢れかえった」のね。

でもまたそんな時代も変わって、「良いものを安く提供しないと生き残れない」時代に入ったんでしょう。ニュースやユーチューブを見ても、最近の変化には驚きます。

かつては「美味しい海産物は産地で食べるしか無い」みたいだったのが、今では大都会でも食べられる時代。それも昔なら敷居の高い店じゃないと食べられない物、料理がいくらでもそこここの店で食べられる。

日本ってやっぱり凄いわ。この背景には「冷凍・冷蔵技術、流通の世界で革新があった」からじゃないかと思う。

私が知っている昭和の日本にはこんなのはなかったと思う。

ダボは食べることしか考えないのか?

えへへ、大正解。\(^o^)/

でも歳を取ると、日本の「風景、情緒」に半端じゃない懐かしさを感じるのね。そして今になると「自分は日本人なのに日本のことを知らない」ことにも気が付くわけです。

だからゆっくりじっくりと、日本の各地を回ってみたいといつも思っています。そういう意味では、若い頃とは真逆で、かつては【世界の隅々を見てみたい】と思っていたのが、今では世界には興味がなくなったみたいな感じがしています。

「どこに行きたい?」と聞かれれば答えは一つ「日本!!」です。

「移住先は日本を選ぶ」なんて考え方があっても良いと思うんですよ。

特にそんなことを考えるようになったのは、あるオーストラリア人の言葉が私の心に刺さったから。

The Best Thing About Being Away is Coming Home.(海外に出て一番素晴らしい出来事は・・・「帰郷」である)

海外から故郷に帰る時、「とうとう私は故郷に戻ってきた」という大きな感動があるのは理解できるし、そもそも【海外に出たのはその感動をいつか得るため】という考え方があっても良いと思ったわけです。

かつては「日本は息苦しくて生きていけない」と思って海外に出たのに、今じゃ、「日本以上に良いところはない」なんて思っています。

でも日本に帰ったら帰ったで、また文句ばかり言い始めるのもわかってる。(笑)

無い物ねだりでしかないんでしょうねぇ。

でももし、年に2,3回、日本に数週間滞在出来るようになったら、良いなぁとは思う。

マレーシアに来た頃にはそんな生活を夢見ていたけれど、6年経ち、自分も70歳になったのに、マレーシアに来たそもそもの目的も達成できないどころか、大損してしまって「そこそこ優雅な老後を日本で楽しむ」なんて夢のまた夢になってしまった。

やっぱり私の人生って浮草のように生きるしか無いのかと思ったり。

でも私は幸せ。私自身より大事なヨメさんと息子たちがいるから。そして可愛い孫も出来た。

彼らの笑顔があれば、私はそれだけで幸せ。

男児立志出郷関
学若無成不復還
埋骨何期墳墓地
人間到処有青山

男児志を立てて郷関を出づ
学もし成る無くんば死すとも還らず
骨を埋むる豈に惟だに墳墓の地のみならんや
人間到る処に青山(墓)有り

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