グアムウルルン物語 その3
私とグアムの関わり合いは単なる観光客と南洋の島という関係ではない。ほんの数週間グアムに英語の勉強に行ったのが切っ掛けで私の人生観はガラッと変わってしまったのだから。もしグアムを知らなかったら、彼らとの出会いがなかったら、私は随分違った道を歩いていたと思う。こうやってオーストラリアに住むなんてこともなかったかもしれない。
話しは1970年代に戻る。日本へ帰って、いつもと同じ生活に戻ったらグアムの事なんか忘れてしまうだろうと思っていた。しかし忘れる事はなく、いつもグアムが頭の片隅にあった。フと気がつくとグアムの事を考えている自分がそこにいた。そして不思議なのは、自分が生まれ育った日本は何かが違う、何かおかしいと感じ出したのを覚えている。いつもの風景、いつもの人間、いつもの行動なのだが、何かがおかしいと思うようになった。特に朝夕の駅のラッシュに遭遇すると、強い違和感を感じるようになった。これは絶対におかしいと。たった数週間のグアム滞在であったけれど、彼らの生き方が普通で、我々の生き方がおかしいのではないかと思うようになった。いつもの慣れ親しんだ顔もみんな同じ顔の金太郎飴に見えてきた。
私は小さいときから引っ込み思案で、消極的、いつも母の手を握っては後に隠れているような子どもだった。学校は大嫌いだし、友達作りも下手だった。でも一般的な日本人としての価値観の中に育ち、それが当然だと思い、自分には合わないとは思いつつも日本人的常識を取り込み、日本人としての自分を作ってきた。そして、本音を言ってはいけない。意見を述べる前には相手の様子を伺う。本音と建て前を使い分ける。そしてよい子のように振る舞うことを当然のこととしてやっていた。これは決して本当の自分じゃないと思いながら、生きるということはそういうこと、つまり演じることなのだと単純に信じていた。
ある日、アイダオバチャンから手紙が来た。早く来いと書いてある。そして署名は「Love Ida」。ラブかぁ、なんで愛されちゃったのかとも思ったけれど、やっぱり嬉しい。早速お礼の手紙を書いた。するとまた手紙。早く来いと。是非グアムにはまた行きたいし、彼らをもっと知りたいと思いつつも一番必要なお金がない。どうしようもないので母に一部始終話したところ、旅費を出してくれるとの事。やった、やった。おかげで春休みにはグアムへ行く予定を立てる事ができた。
そして3月の春休み。グアムまでの飛行中、だんだん不安になってきた。来い来いとは言うものの、本当に行ったら嫌な顔をされるのではないだろうかと。日本ではそれが当たり前だ。相手の言うことを本気にしたら大変なことになる。ましてや今度のグアム滞在は2週間の予定で、もちろん居候するのだからしっかり迷惑を掛けることになる。途中で居づらくなったらどうしようか、もう帰って欲しいなんて言われるかもしれないとか考え出したら、やっぱり行かない方がいいのではなかろうかと心配になった。でもホテルに泊まる余裕も無いし、飛行機はグアムへ向けて飛びつつある。
迎えに来てくれる約束になっているけれど、もし来ていなかったらどうすればいいのかと心配しだした頃にグアムに着いた。当時の飛行場は貧弱で小さく、飛行機から飛行場の内外を見通す事ができた。見えるはずも無いとは思ったけれど、窓から飛行場にいる人間たちの中にアイダの顔を探した。しかしたくさんの人がいて、見分ける事ももちろんできない。不安で一杯のまま入管、税関も過ごし、外に出た。途端に「○○○(私の名前)ーーーーー!!」と私を呼ぶ声。いたいた、アイダオバチャンがちゃんと来ていた。嬉しかったぁ。荷物を持ったまま140キロはあるだろう巨体に抱き着かれてされるがまま。そしてキスの嵐。おでこ、両方の頬、アゴ、一体何十のキスを受けたろうか。私は照れ笑いをしながら、内心ホッとしてそれに応えた。さて家に行こうというときに、かなりの人数のグアメニアンが一斉に動き出した。アララララ、皆アイダと一緒に出迎えに来た彼女の家族、友人知人そして親戚とのこと。総勢20人はいただろう。一体どうなっているのかわけがわからなかった。彼女は皆に私の事をどう話したのだろう。まさか日本の有名人とでも話してはいないか心配になった。後で、なんだぁ、なんて言われるのも嫌だと思った。
(後に、南洋の島々では飛行場行くことそのものが一つのエンターテイメントになっているのがわかった。港は愛する人が去っていく場所であり、愛する人が帰ってくる場所でもあり、そして物資が届いたり、未知の人間、未知の文化の到着口。飛行場は特別な場所であるのがわかる。だから用もないのに飛行場へ行く人達さえいる。)
彼女の家に着いたら再びびっくり。もっと多くの人たちがいるではないか。グアム人って一体なんなのだろう。不思議な人たちだ。それから歓迎パーティに突入。入れ替わり立ち代わり挨拶するけれど、名前も顔も全然覚えられない。それでも初めてあったのにすぐに打ち解けて話したり大笑いしたり、なんて楽しく、優しい人たちなのか、改めて感心した。そして酔いが回るほどに幸せな気分に満たされた。私の人生で一度たりともこれほどまで歓迎された事はなかったし、初めて会った人とこれだけ打ち解けて話したり飲んだりしたこともなかった。幸せだった。
グアムの夜は早い。8時も過ぎる頃になると、ボツボツと帰る人が出てきて、9時には特別の事が無い限りどんなパーティーも終わるのが普通。その日も9時にはアイダの家族を残して皆帰っていった。私は疲れているはずなのに疲れていなかったし、彼女も私を寝かしてはくれなかった。そして改めて家族を一人づつ紹介され、話しも弾み、夜は段々と更けていった。
起こされて目が覚めた。昨日は初めてなのに調子に乗って飲みすぎたようだ。いつ寝たのか記憶がなかった。私は夫婦の寝室のダブルベッドに一人寝ていた。アイダとトニーはどこに寝たのだろう。まさかあの小さな部屋に7人寝起きしている、それも子供用の段々ベッドしかないあの部屋に寝たのだろうか。時計はまだ6時だが、家の中は結構ドタバタしている雰囲気だ。そりゃそうだ。子供たちは学校。アイダも旦那も仕事。あれれ、私はどうすればいいのか。一人で留守番?こりゃ初日から参ったと思ったけれど、考えてみれば当たり前の事。こっちは遊びで来ているが彼らには生活があるのだ。なんでこんな事に気が付かなかったのだろう。これから毎日、昼間は家でテレビでも見るのか?ああーーーー、と思った頃に、昨日のパーティーで会ったアイダの義理のお姉さん(リンケット)が私を迎えに来た。彼女の家で日中は過ごす事になった。
リンケットの家はアイダの家から車で数分、歩いても行ける距離だった。アイダの家はヤシの葉で葺いたニッパハウスだけれど、リンケットの家は普通のブロックで建てた普通の家だった。この家がその後何年にも渡って私がグアムへ行くときに必ずお世話になる家となる。彼女は仕事をしていないので昼間の私の良き話し相手となった。このオバサンがこれまた話し好きで延々何時間でも話す。ご丁寧に昔の写真アルバムを持ってきて懇切丁寧に話してくれるのは私も知りたい事ばかりだったので好都合だった。グアムの事、彼らの事、知りたい事が山のようにあったので彼女にすべて聞いた。ここで興味ある話しが出た。アイダは名字をフジカワという。彼女の亭主がミスターフジカワで、日本人とのハーフ。その妹がこの彼女(リンケット)であった。彼女の旧姓はフジカワで彼女も日本人とのハーフ。そしてフジカワファミリーの話しが始まった。
昭和の始め頃だろう、横浜に一人の青年がいた。名はフジカワ。当時日本では食うのも大変だったのだろうか、彼は海外に夢を託して船員になった。ただ船員と言っても彼は何が出来るという事でもなく、貨物船の乗組員の為の料理人の下働き。横浜を出、沖縄、台湾と回り、グアムへ着いた。ここで彼は現地人の少女と恋に陥る。そしてその貨物船が出港するとき、彼は船には戻らず彼女の元に居た。そうグアムに居着いてしまったのだ。そして結婚。彼は昔覚えた靴の修理の腕を生かして、小さな小さな靴の修理屋を今ではグアムの首都であるアガーニャの町で始めた。貧しいながら幸せな家庭だったという。子供も生まれた。年子も含めて8人。生活はかなり厳しかった様だ。でも当時を振り返って、本当に良い家庭だったと、彼の娘であり、当時すでにオバチャンのリンケットは言う。ゆっくりと平和な時が過ぎていたのだろう。ところが、世の中には変化が起きていた。満州事変。そして日米間に戦争の可能性も出てきた。アメリカ領土であるグアムでも日本人に対する見方が日に日に変わってきたらしい。そしてある日とうとう真珠湾攻撃。つまりフジカワは敵国民となる。そして戦争が始まり、フジカワシニアは日米交換船で日本へ強制送還となる。若き妻と幼い子供たちを残して、交換船に乗せられた時の彼の気持ちは想像のしようもない。
戦争が彼らを引き裂いた。どんな想いであったろうか。戦争中の彼らの生活も大変だったに違いない。フジカワファミリーの男の子は二人。長男はアイダの旦那のトニー。ただ年齢が行かないので徴兵はされなかったし、敵国民として収監されることもなかった。ただ、グアムの家族は大黒柱も無く、敵国民の妻、そしてその子供達という事で迫害も受けたらしい。だが、当時の苦しさはリンケットは口にしない。思い出すのもつらいのだろう。いや、意外にそうでもなく周囲の親戚、友人達、皆で助け合って生きていたような感じも受ける。ただ、グアムは戦争中早い時期に日本に占領され、その時はフジカワファミリーは日本軍に手厚く扱われたらしい。でも後にグアムはまたアメリカに奪還される。そして終戦。
戦争が終わったのだからフジカワシニアはすぐにグアムへ渡ったのだろうと、私は思った。ところが話はそう簡単には行かなかった。まず、戦後貧しい日本から海外に出るにはそれなりの理由が必要だった。貿易を営む企業でさえ海外渡航は難しかった。外貨の問題もある。フジカワシニアの問題はどうも戸籍にあったようだ。家族がグアムに居住しているという証拠が何も無い。戸籍には何も載っていない。もし載っていたとしても渡航は大変だったのかもしれないが、彼はいつか必ずグアムへ帰ると心に決め、時が来るのを待った。待った。待った。そして待ち続けた。年月はどんどん過ぎていった。日本から戦後という言葉もなくなりつつ時代に入った。でも彼はまだグアムには帰れなかった。彼も歳を取り、国からの補助を受けて生きていた。そして他の老人たちと共に、道路の清掃などをして、家族と会える時を待った。そしてやっと、誰でもが海外渡航出来るように法律も変わった。彼はやっとのことでパスポートを手にし、念願のグアムへ渡った。時はすでに昭和40年代。彼は30年近く経って、やっとのことで最愛の妻、そして子供たちと再会を果たした。30年も離れ離れでどんな想いをしていたか、どれだけ涙を流したか、家族を思わない日はきっとなかったであろう。でも、会えたのだ。やっと会えたのだ。この時の感動たるや想像を絶する。皆で抱き合い、泣きながら、皆の無事と再び会えた喜びを一晩中分かち合ったに違いない。そしてフジカワシニアは永住権も難なく取得し、失った年月を取り戻すべく、家族と一緒に平和な生活を送った........かに見えた。しかし神はまた彼らに試練を与えた。フジカワシニアはグアムへ渡り、何十年ぶりに家族と再会し、やっと幸せを掴んだと思った矢先、一年もしないうちにガンで他界した。
話しがここまで来たときには、若くてチャランポランな私でさえ、涙が出て止まらなかった。