グアムウルルン物語 その2

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グアムウルルン物語 その2

大晦日のパーティめぐり以来、毎日が楽しくなった。実はそれまでグアムに来たのは失敗だったと思っていた。グアムは南海の孤島。何も無い。あるのは海と空だけ。そりゃ、海外も初めてだったし珊瑚礁の海も見た事はなかったので、感激がなかったとは言わない。しかしグアムに来たのは遊びのつもりではなかったし、将来へつながる何かがあると期待していた。ところがグアム大学もなんだか変な大学だし、英語の勉強といいながら標準語を話すのは教師だけだし、時間の無駄だと思っていた。しかし、その考えは百八十度変化した。勉強とか、将来とか、そんなことはどうでも良くなって、何か心を揺さ振られる様な、今までの価値観が壊される快感の様な物を感じ始めていた。

グアム大学のドミトリーに寝泊まりして、そこでもう一人の人間との出会いがあったのだが、その前に、初めての海外旅行、大学での生活でびっくりしたこと等を書こう。

海外旅行も始めてだったけれど、考えてみたら飛行機に乗ったのも始めてだった。ジェット機が離陸するときの加速が凄かった。どんなスポーツカーもかなわないと感激した。それもあんな図体が大きものが空を飛ぶのは理屈ではわかっても何か不思議だった。乗った飛行機は確かパンナムだったろう。パンアメリカン航空。もうとっくの昔に潰れてしまったけれど、パンナムはアメリカを代表する航空会社で、小さい頃からテレビの「兼高かおる世界の旅」という番組を楽しみにしていたのを思い出す。あの番組のスポンサーがパンナムだった。だから海外に行くときにはパンナムで行ってみたかった。

私が乗った便には白人のスチュワーデスが多かった。そして彼らのサービスする姿に違和感を感じた。だって外人というのはこちらがサービスすることはあっても、外人が日本人にサービスするのを見たのは始めてだったから。だいたい外人というとテレビや映画の俳優のイメージがあって我々と同じように働く姿など想像もできなかった。東京でさえも当時は外人が毎日の生活の中にいるということはなかったし、気軽に話すこともなかった。だから飛行機の中で私は緊張していた。英語はどういうわけか昔から成績が良く結構出来た方だが、それはあくまで学校の話し。生の英語の経験なんかほとんどゼロに等しい。

席に座っていると、スチュワーデスが前の方から順々に何か聞きながらこちらの方へ来る。何を聞いているのだろう。私の前の席に来たときに私は一生懸命聞き耳を立てた。予行演習だ。そうしたらどうにか聞けた。何のことは無い。「Coffee or tea ? 」と聞いているだけ。やっぱり日本人の客が多いから簡単に言うのだろうと思った。そして私の番。私は「Tea, please」と答えることに決めていた。ところがだ。彼女は何か違うことを言っている!!まず第一に言っている言葉のフレーズがいやに長い!!ああーー、神様、聞き取れない。なぜ寄りによって私にだけ違うことを言うのか、彼女を怨んだ。どうにか「Perdon me ?」と自然に口が動いたので助かった。すると彼女はゆっくりと言った。もし寒かったらいつでも呼んでください。ブランケットを差し上げます、と。たったそれだけのこと。ああーーーー、理解できて良かった。ホッとした一幕。だが、あの緊張感はもうゴメンだと思ったので、あとはブランケットをもらい、それを頭からかぶって寝てしまうことにした。しかし、初めての外国。これから先を考えると気が重かった。

グアムについてからは順調だった。私は調べ魔という仇名があるほど調べることが好きで、また何でも調べる。だから羽田(当時、国際線も羽田だった。成田はまだ出来ていない)での出国をどうするのか、グアムでの入管をどうパスするのか。書類の書き方から、空港内の地図まですべて頭に入っていたので問題無し。初めての海外で、オロオロキョロキョロ、頭をカキカキモジモジするのは私の18歳のプライドが許さなかった。そして何度も来た事があるような自然な振る舞いで18歳の見栄を張った。その後そのままグアム大学へ。さて、ここで大問題。出迎えてくれたドミトリーのスーパーバイザーの英語が全く理解できない。何度聞いてもわからない。今まで勉強した英語は一体なんだったのだろう。全く通じないのだ。いや、こちらの言う事は通じているのだけれど、彼女の言っている事がわからないのだ。それでもどうにか意志の疎通を計り、自分の部屋を確保した。その後、白人の教授と会ってスケジュールの打ち合わせ、確認等があったのだけど、何のことはない、彼の英語はすんなり理解できた。要はスーパーバイザーの彼女はグアメニアン(グアム人)で、かなりきつい方言を話していたと言う事。後に私はこの方言を自分でもしゃべり、使い分けもできるようになるのだけれど、あの時点では聞くことさえ簡単ではなかった。

グアム大学はミクロネシアで唯一の大学。それもアメリカ領であり英語教育がなされているので近隣の島から多くの学生が来ていた。目立ったのが、トラック、ヤップ、ポナペ等の人種としてはニューギニヤに近い島の連中だった。彼らはグアメニヤンとは違って肌が茶色ではなく、黒に近い茶色。そして背もデカイ。太っている。髪の毛はアフロ。唇も厚く、いわゆる南洋のイメージがした。目の白目の部分が赤っぽく、近づくと不気味であった。でも彼らはすぐに私の良き友人となった。ある時、数人のグループが可愛い小犬を連れていた。なんだかんだ言っても寂しい寮生活なので、ペットも皆のアイドルとなるのだろう。ただ不思議だったのがその小犬はちゃんとした首輪もせず、電気のコードを結び付けただけで彼らは引っ張り歩いていた。

ドミトリーの食事はカフェテリヤで済ますのが普通だが、毎日同じようなメニューですぐに飽きてしまう。またグアメニアンも他の島の連中も日本人と同じく白いお米やイモ類が主食でアメリカ流の料理は口に合わないのだろう。部屋に小さな電気コンロを持ち込んでお米を炊いたり、即席ラーメンを作ってそのまま鍋を手に持って食べたりした。そしてバーベキューもよくやった。グアムもアメリカであり肉は安かった。また近隣の島から来ている連中は釣りと言うより海での漁に長けているようで、緑や青のトロピカルフィッシュを獲り焼いて食べたりもした。面白かったのは、グアムは辺ぴな場所にあるのだけれど、近くに1メートルくらいの大トカゲが随分いて、それを捕まえてバーベキューにすること。これはご馳走だった。なんせ材料費はただなのだから。ある日、いつものように皆でバーベキューを楽しみ、歌を歌い、ばか話をして楽しんだ事があったのだが、おかしな事に、その日以来あの可愛い小犬の姿を見なくなった。後で知った事だが、ミクロネシア諸島では昔から食べるらしい。私はまるで気づかず、食べたのか食べていないのかは定かではない。

グアムの大半はアメリカ軍用地となっている。北の方にアンダーソン空軍基地があるのだが、どういうわけかその基地に学生が招待される事が多かった。基地内で何か催しものがあるとちゃんと軍からカーキー色のバスが迎えに来て、我々ドミトリーに住んでいる学生たちを連れていってくれる。初めて行ったときにはびっくりした。滑走路の横には、あのB52であろう、あれが数え切れないくらい駐機してあった。ベトナム戦争真っ最中の頃で、ここから北ベトナム爆撃に行っていたのだ。これにも違和感を感じた。平和な日本。平和なグアム。でも戦争真っ只中。そういえば真夜中に遠くの方からゴーーーーーーーーッと地響きのする音が良く聞こえたが、あれはきっと北ベトナムに向けて出撃するB52であったのだろう。

日本へ来たB29はどこから発進したのだろう。聞いてみたところ、グアム島に近いテニアン島とのこと。原爆搭載機もそこから発進したらしい。テニアン島へは一度も行った事がないが、そこは島全体が要塞になっているらしい。小さな島で、島自体が台形で大きな山も何もない。その島の中をくり貫いて、とてつもない基地が存在すると言う噂。テニアン島にも住民はいるらしいが、一切仕事もせず、アメリカからの補助金だけて生活しているとの事。グアムは北部は空軍、中部は海軍に取られ、いわゆるいい場所は全部基地であり、良い農作地もない。住民の多くは軍で働き、あるいはグアム政府、そして観光業。産業らしい産業は何も無い。グアムはアジアに存在する唯一のアメリカ領土でアメリカに取ってのグアムの存在価値は大変な物であろう。何をやっても文句は言われないし。うーーむ、きっとテニアン島あたりには大陸弾道ミサイル基地もあるかもしれない。ま、そんな島だから、アメリカはお金を落とす。補助金だらけ。もともと働くという意識レベルが違うグアメニアンが補助金を一杯もらっているのだから、どれだけ平和でのんびりしているか想像はつくはず。

こんな話しがあった。グアム人はほとんど大学など行かない。高校を卒業して18才でグアム政府に勤める人はたくさんいる。ある時、知事がアメリカ本土へ行って留守の間に臨時議会が招集され、そこでギャンブルの公認、そして何と、本来20年勤めて定年なのを18年にしようと全会一致で決めてしまったと言う話しを聞いた(嘘か本当かはわからない)。後にギャンブルは禁止になったものの、勤続18年で定年というのはきっと今もそのままだろう。後に多くのグアメニアンと知り合うのだけれど、私が一番信頼しているフランクデルガードという友人は18の時に政府に勤め、18年働き、36歳で定年退職。そして恩給生活をしていた。私が知り合ったのは彼が36才の時であったが、彼はもうすでに毎日遊んでいた。

さて、ドミトリー生活で知り合ったもう一人の重要人物の話しを書こう。彼女の名はアイダ。カフェテリヤに勤めるグアメニアンのオバチャン。身長は165くらい。体重140キロはあるだろう。半端じゃない大女である。まさに相撲取りのような体格だった。でも顔はとてもきれいで若い頃の写真を見せてもらったが絶世の美女だった。いわゆるメスティーサと呼ばれるスペイン系の女性。彼女の仕事はカフェテリヤの清掃などであるが、どういうわけか私を気に入って、いつも話し掛けてくれた。私も太っていたし、顔立ちも南方系なので親近感があるのだろうくらいに思っていた。ある時、彼女とゆっくり話すときがあったのだが、彼女の名字はフジカワであり、自分の事を日本人と言うのだ。どうみても日本人には見えないのだが、名字がフジカワなのは胸元の名札を見ても嘘ではないのがわかる。そして彼女はいつか自分の家に遊びに来いと何度も何度も私を誘った。私としてはそんなオバチャンに興味も無いし、彼女の名字がフジカワであるということに何の興味も湧かなかった。ところがある日、彼女の娘がカフェテリヤに遊びに来た。ウワーーーーーォ!歳は15才と言うが絶世の美女。あんな美人は見た事がないくらい。可愛いのではなく、美人なのだ。こりゃ絶対にお友達になりたいと思ったので、私はアイダオバチャンが私をもう一度誘ってくれないか心待ちにして、いつも彼女の近くを意識してウロウロした。そしてある日、彼女に遊びに来いと誘われた。待ってましたぁ、とばかり次の休みにおじゃますることを約束した。

その日、アイダオバチャンは私を迎えに来てくれた。彼女のオンボロ車に乗って彼女の家へ。家はグアムの中心地Agana(アガーニャ)に近いアガナハイツにあった。後にこのアガナハイツは私の住む街となるのだが、彼女の家に行ってびっくり。見るからにお金持ちには見えない家で、回りの家とも随分違う。なんせあのテレビでしか見た事の無い、ニッパハウスだった。つまりヤシの葉で屋根を葺いたあの南洋の島にある小屋である。間取りは3部屋プラスキッチン。リビングルームは10畳位だろう。そこからドアを開けると、6畳位の部屋に大きなダブルベッドが置いてある夫婦の寝室。となりの部屋はちょっと広く、段々ベッドが2つ置いてある。つまり4人分のベッド。ところが子供は7人いるのだ。大きい順にベッドを占領し、余った子供たちはその部屋のフロアーに寝る。ま、この子供たちは可愛いと言うより、7人もいるとチョコマカチョコマカ五月蝿いと思った。で、その絶世の美人は長女。アイダオバチャンのご主人にも会った。要はその人がミスターフジカワなのだが、自分の事を日本人だと言う。でもこれまた日本人には見えない。顔立ちは日本人に近いとも言えるのだが、なんせ日に焼けて真っ黒け。しかし日本語も多少話すし、まんざら嘘でもなさそう。よくよく聞いてみると、彼の父親がフジカワと言う日本人でグアメニアンの母との間に生まれたということがわかった。

とりあえずその日は夕食をご馳走になっただけで帰ったが、私としては不純な気持ちであるが、その絶世の美女が気になって仕方が無い。そして彼女と会うためにアイダオバチャンの家に暇さえあれば入り浸るようになった。そしていつの間にやらその家族全員と仲も良くなり、子供たちと遊びに行ったり、またその絶世の美人とディスコで二人だけのデートを楽しんだ。とにかく彼らは天真爛漫。裏がない。楽しい。明るい。そして暇さえあればバーベキュー。いや、バーベキューこそが彼らの普通の食事であるのだ。良く人も集まり、笑ったり歌を歌ったり、幸せなときが過ぎていった。そして私はどんどんその家に溶け込んでいった。

そうこうしている内に帰国の日が近づいてきた。私は一体何をしにグアムに来たのだろう。英語の勉強もあの程度なら日本でしっかりやればグアムに来る必要も無い。でも嬉しかった。グアムを知れたことが嬉しかった。そしてグアメニアンという信じれらないほど幸せで親切な人間がこの世に存在する事を知った喜びがあった。アイダオバチャンは私の帰る日が近づけば近づくほど悲しそうな顔をした。私が帰る2、3日前からは、私の顔を見るたびに涙を流すようになった。そして、必ず、もう一度グアムに来いと言う。もう一度グアムかぁ、と私は考えた。再び来るだけの価値はあるだろうか、と。また自分は学生の身分でもあるし、大学の事、休みのスケジュール、ましてや再度訪れるためのお金の心配もあった。そんなことを考えている時に、アイダはこの次は絶対に私の家に泊まれと言うのだ。ムムム?ということは旅費も浮くし、あの絶世の美女と一つ屋根の下で暮らすのだな、と。こりゃちょっとは考えてもいいかな、と思った。でも日本へ帰ってあのいつもの生活が始まればすぐに忘れてしまうだろうし、グアムも一つの思い出としかならないであろうと思った。

帰国の日、アイダは家族全員を引き連れて飛行場まで見送りに来てくれた。嬉しかった。そして大きな体で私を強く抱きしめてオイオイ泣いている。小さな子供たちも泣いている。私も思わず涙がでた。飛行機が出るまで2時間もあり、私がもう帰ってくれというのに彼らは帰ろうともしない。ずーーっとベンチに座って私たちは話し続け、アイダは泣きっぱなし。搭乗アナウンスがあると、今までより大きな声でアイダは泣き、一層強く私を抱きしめた。私は一人ずつ子供たちを抱きしめ、また来るからねと嘘をついてタラップに向かった。

飛行機が飛び立つときに、窓から彼らが一生懸命手を振っているのを見つけた。なんでだろう。不思議だった。日本から来た一人のただの学生になんで彼らはあれほどまでに優しく、愛を注ぐのだろうか。大晦日のパーティーもそうだった。見ず知らずの人間になぜああも優しくする事ができるのか。考えられなかった。平均的な日本人である私はそんな常識は持ちあわせていなかったし、そんな話しさえ聞いた事がなかった。日本であれほど親切にされた事は一度もなかった。信じられなかった。ただ、私の心の中にホンノリとして気持ちの良い物が広がって行くのを感じていた。またいつかチャンスがあったら来てみたい。もう一度彼らと会いたい。もっと彼らを知りたい。飛行機がだんだんと日本に近づくにつれて、グアムへの思いが強くなった。彼らのことを思うと胸がキュンとしてくるのを感じた。

そんな時に、アイダが別れ際に私に渡したメモを思い出した。それはクチャクチャになって私のポケットに入っていた。広げてみると、メモには、「Please come back, please !」と汚い字で書いてあり、10ドル札が1枚一緒に入っていた。それを見た瞬間、胸の中に熱い物が込み上げ、私は再びグアムに渡ろうと思った。必ず彼らに会いに戻ると誓った。私はそれまでの人生で、これほどはっきりと、そして強く自分を欲してもらったことは無かったから。

そして3ヶ月後、私のグアムの旅が再び始まる事になるとは想像もしていなかった。

その3に続く。

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