夜中の3時半ごろでだったかな。シドニーにいる次男坊から電話がありました。何があったのかとびっくりしたけれど、どうも電話の向こうで次男坊は泣いている。
「オヤジぃ~、辛いよ~。俺の居場所がここには無いんだよ。」とのこと。
今のところは順風満帆でお調子に乗っていた次男坊の癖に一体どうしたのかと思いましたが、心を許してお互い尊敬できてなんでも話し合えるような友人がいないとのこと。こいつら(オージーのこと)はああだし、あいつら(アジアの大国)はこうだしとここに文字では絶対に書けない様な愚痴を言っていましたが、次男坊らしいと思いました。
世の中そんなもんだと諦めてしまえばその中でさほど悩むことも無く生きていけるのでしょうが、我が家は「人としてどうあるべきか」をしつこいほどに考えろと育てて来ましたので、思慮深く育ったとは思うものの、その反面ちょっとしたことが大きな問題として浮かび上がってくるようです。
オーストラリアには人種差別が存在すると私は思っていて、というかこれは世界中どこでも異人種が集まるところには必ず偏見があるはずでそれには我が家の二人の息子達は随分悩まされて育ってきました。
前にも書きましたがこんなことが何度もありました。
次男の話 ←
長男の話 ←
今回具体的に次男坊に何があったのかはわからないけれど、多分文化の違い、価値観の違いの中で寂しさを感じていたのだろうと思います。また村社会は日本のお家芸だけれど、個人主義が発達しているオーストラリアだって異なるものは排除するまでにはならなくとも近寄らないという選択はやっぱりする。そしてどこにでもある妬みや謗り。
どうも次男坊のインターンが決まったのは学部でも話題になっているらしく、ほぼ同級生全員がアプライしたものの受かったのは次男坊一人というのも関係しているらしい。オージーってそういう時にやらしさを見せることは少なく、一緒に喜んでくれるタイプの人が多いのだけれど、彼の通う大学院の環境は私の想像するものとは違うのかもしれない。
オーストラリアって日本とはまるで違って、「とりあえず大学へ行くか」みたいな学生は少ない。学費も自ら稼ぐ、国から借りる(これが非常に多い)子も多く目的意識が非常に強い。これが大学院になるとそれが顕著で、ほとんどは就職経験もあり自分のより良いキャリアの為に上を狙って大学院に入ってくるようなのがほとんど。つまり、企業の競争社会と同じようなものがもう存在している様子。
そもそも欧米社会ってそういう競争という点では日本とは比べ物にならないようで、同じ会社の同僚がまずは目の前の敵であるという話はアメリカで働く友人から良く聞いた話。個人プレーが多い様子。これはオーストラリアも同じで、日本では考えられないけれど、会社に入っても上司が部下に仕事を教えないなんてことが普通に起こる。理由は自分のポジションが危うくなるから。また競合他社により良いポジションがあればすぐに移ってしまうのも日常茶飯事。面白いのは私の会社のスタッフの話で、前の会社(競合)を辞めてうちに来るときに上司(日本人)が祝ってくれなかったなんて愚痴を真面目に言うのがいたこと。
そんな部下にまともに仕事を仕込もうという気がなくなるのは当たり前だし、大事なところはわからないようにするとはっきり言う日本人の経営者にあったこともあるくらい。
ま、そういう競争社会って今の時代は当たり前なのかもしれないけれど次男坊にしてみると殺伐として自分が安心していられる場所が無いと感じるのかもしれない。
また最近は日本人のワーホリとつるんで遊んでいるとの事。次男坊がゴールドコーストにいる頃、彼はワーホリが大嫌いで町で喧嘩してきたという話を良く聞いていた。彼いわく、将来のことも何も考えずにバカのように遊ぶ事だけを考えている連中が多いからとのこと。
もちろんそういうワーホリばかりじゃないのは当たり前だけれど、次男坊がワーホリと会う場所と言えば夜の繁華街であり、クラブのような場所だから遊ぶことしか眼中に無いワーホリは確かに多かったのかもしれない。
でもあれだけ嫌っていたワーホリと今はつるんでいるとのこと。確かに遊び中心の連中らしいのだけれど、次男坊に言わすと、良いやつが多いとの事。きっと仲間意識の強さが心地よいのだろうと思う。でもそれの裏返しは村八分なわけだけれど、今はワーホリと一緒にいるほうが楽しいらしい。
でももうくじけそうだと次男坊は言う。
私が子供達を育てるに当たって、もう少し話を聞かせたほうが良かったと思うことがある。それは神の話。神でないとすれば、偉大なる意思というか、世の中を満たしている善意というか愛というか。私自身強い宗教心をもっているわけではないのだけれど、何か未知なる力、存在があるとうすうす感じるわけで、そしてそれは絶対に我々を裏切る存在では無いということ。
この存在を感じている限り、怖さも寂しさもないはずで、何か辛いときにはその存在の腕に抱かれて赤ん坊の様に寝るさまを想像するだけで落ち着く。
ま、そんな話を電話で今になって次男坊と話していました。
彼も信仰はもっていないものの未知なるそして偉大なる力、存在、それを神と呼ぶかどうかは別にして、そういう何か得体の知れないけれど凄い何かが存在すると考えているようなので、話としてはすんなり通じた。
お前の部屋から空は見えるのか?と聞いたところ、見えないとのこと。
外に出て星空を見ろ。そこにその大いなる存在を感じるはずだし、その腕の中に抱かれている自分を感じろ。その存在は常にお前のすぐ横にあって、お前が忘れてもその存在はいつもお前のことを気に掛けてそばに寄り添っているはずだから。と言いました所、鼻をすすって泣いていました。
でも段々と気を取り戻しているようなのはわかったので、まだ21歳で自分の足で歩き始めたばかりのお前は階段を上っている最中、あるいは山を登っている最中で、その道程は厳しいこともあるし孤独でもあるかもしれないけれど、いつか次の高みに到達すればそこに花園があるし、お前を笑顔で迎え入れてくれる人たちも多くいることにびっくりするはずだと伝えました。
ただ、自分の欲望を極限まで高めるととてつもない力がでるけれど、それは餓鬼道に通じてしまうから駄目だとも伝えました。欲望と大志とは違うと。
こんな感じであの手この手、臭い話も交えて次男坊の気持ちが和らぐように話を続けましたが、1時間もすると段々と元気が出てきたようで、もうすぐ始まるコンサルタント会社でのインターンですが、死ぬ気で頑張ると頼もしいことを言い出しました。
最初は泣きながら、ゴールドコーストに帰りたい、ゴールドコーストの友達に会いたいとメソメソしていましたので、お前いつ帰ってくるんだ?と聞いたところ、いや、元気が出たから帰るのは止めた。シドニーで頑張るとのこと。
このお調子者丸出しの切り替えの早さが次男坊の特技なのかもしれない。元気が出てきたのは親として嬉しいけれど、この夏休みは会えないのかと思うと悲しい。
こうやって段々と育っていくのだろうと思うけれど、いつまで彼らを見ていることができるのだろうか。これからの時間を大切にして子供達と過ごしたいと思った。
次男坊はまだ21歳。男としてはまだまだ先が長い。でも一歩一歩歩いているのがわかるので親としては嬉しい。