長男が来ていました

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この1週間、長男が来ていました。年末から日本に行っていましたが、メルボルンに帰る前にゴールドコーストに寄ってくれたのです。(ジェットスターの日本便はゴールドコースト発着)

実はかなり大事な話を集中的にしていました。彼もようやく就職が決まり、今年の秋から日本で仕事が始まりますが(9月卒業組み)、本来なら子供を社会に送り出したら親の仕事も一区切りとか、一応終わりなんて言われますが、実は我が家は全くそうは考えていないのです。

やっと社会人としての、というか人間としての第一歩が始まったばかりでこれからが正念場。これからをどう生きるべきか、どうするべきか、また親としてどうして欲しいかをとことん話し合いました。

このブログの話題の一つに「平民の逆襲」というのがあります。私はこれをどうしても成し遂げたいという思いを強く持っていますし、社会に反発するこの思いは息子達にも受け継いで欲しいと願っています。まぁ、このブログの読者は私が何に拘っているかご存知とは思いますが、この「平民の逆襲」とは「奴隷からの解放」であり「自己実現」であり、私としては非常に大事なことです。

ただこの話はあまり他人にすることはありません。なぜ?バカだと思われるから。(笑)

今の社会って、子供を学校に入れて世間一般的な常識や知識を身につけてそして「世に送り出す」のが親の仕事だといわれています。ではこの「世に送り出す」って一体なんなのかというと、「奴隷商人に子供を売る」のに近いと私は感じています。面白いでしょ?(笑)

そもそも私が小さい頃から面白くないと思っていることがあります。全てはここに集約できるのですが、「人間は食わないと死ぬ。食うためには稼がなくてはならない。」というコレ。この当たり前のことを私はどうしても受け入れたくない、我慢ができないのです。生命の根本的なところが我慢できないなんてバカ丸出しですが、私は人間の悩みの根源はこの問題に集約できると思っていて、これから脱却できないにしろ、いかに対抗するかというのは大事だと思って生きてきました。

つまり、食べるため、稼ぐために働くというところからの脱却。それとまたいつも書いていますが、我々は社会というピラミッドの底辺を構成する一員で、極端に言うと我々から搾取することによってピラミッドが成り立っているという事実。これは例えば商品の価格でもそうで、我々底辺が高い小売価格で買うから、製造、流通、ピラミッド型経済の全ての人が生きていけている。なけなしの金を投資するにしても同じで、我々が手にするのは一番低い利回り。その金がピラミッドの中で流通してピラミッドが成り立っている。この奴隷状態、カモが葱背負った状態からの脱却をまとめて「平民の逆襲」としています。(笑)

これは自分が生きるために社会の歯車にはならないということへの挑戦でもあります。サラリーマンがイヤだというわけではなくて、生き方の問題で、モノカネが欲しいからサラリーマンをやっているんじゃないという人は多くいます。私は商人の出ですが、商人も同じで、カネは後から追いかけてくるものというのは事実だと思っていまして、風呂の中のお湯を手前に集めようとするとお湯は腕の中から出て行く。逆にお湯を押し出すとお湯は回りまわって自分の方に回り込んでくる。オカネもそれと同じなのよ、なんて私は幼い頃に母親と一緒にお風呂に入りながらも商人のものの考え方をあれこれと教えられ育ったのですが、あの母の教えは全くその通りだと社会に出てから痛感しましたし、お金は大事だけれどお金が目標になっては餓鬼の世界に墜ちると確信しています。

では子供達にどうして働くの?と聞くと、え?という顔をするわけです。働かなかったら食えないじゃないかと不思議そうな顔をするわけですが、私はそもそもここに現代人の勘違いがあると思っています。ほとんど全ての人たちは当たり前のこととして、学校を卒業したら就職してこき使われて多少の金銭をもらい、やりたくないことでもやらなくてはならないと自分にハッパを掛けて生きている。モチベーションが下がればそれは自分が悪いと思い込む。これは会社の同僚も上司も、周りの友人もその通りだと言うはずだけれど、私はこれってあの戦時中に赤紙が来て出征する兵士と同じだと思うんですよ。自分も回りもそれが当たり前で良い事だと言う。

ほんと?

良いことではないけれど、仕方の無いことだとは思っていたでしょう。今の時代も同じ。

私はこれに反発したいんです。

食わなければ死ぬ。こればかりはどうにもできないけれど、食うために自分を殺したり、やりたくないことをしたり、世の中で良いと言われていること、常識と言われていることを自分もその通りだと信じてその世界に自分を置くわけですが、私はこれに反抗したいんです。

どうやって?

それがわかれば苦労はないわけですが、まず、兵隊になることを拒否するのは一つの手段だとは思っています。

と、書きつつ語弊があるのがわかります。兵隊にしても大きな組織の歯車になるのもそれ自体は悪くは無い。大きな組織で動かなくては何も出来ないことって世の中にはいくらでもあって、組織の歯車になること、そのものを否定するわけではないんです。演劇の世界でも自分一人では何も出来ないのは当たり前で、皆がそれぞれ持ち役をこなすことで世の中は回っていく。

ただ、食うためにそれをやるのだけは止めたいってこと。子供も同じ。食うためにやりたくないことでもやれと言う親にはなりたくありません。

でも、それって甘いでしょ?はい、そうそううまい具合にはいかない。やりたいことだけをやって生きるにしても自分のなりたい役に就ける保証なんかないし、休みたいときに休めるほど楽じゃない。だからと言って自分では我慢し妥協しながら疑問を抱きつつ生きても、それでも自分としてはうまく行っていると思っているのに、自分の将来を決めるのは自分じゃなくて、上司に肩を叩かれればそれまで。こんな人生アホらしくてやってられません。

じゃぁ大きな組織から離れて野に下りやりたいことをやって生きたとしても、退場!を言う指揮者は居ない代わりに、現実社会そのものから退場を言い渡されてしまうことが多い。まぁ、この確率って非常に高いわけで、だからこそ寄らば大樹という考え方を普通の人間は持つ。でも自分で好きなこと、信じることをやってそれが世間様に認められないのなら諦めようもあるし、次のチャレンジの糧にもなる。

寄らば大樹の陰も良いのですが、世の中の景気が右肩上がりで生活も徐々に向上しているのが見えていればいいけれど、そもそも真面目なサラリーマンが多い日本社会はそういう戦後の復興、世界の奇跡と言われた発展を身をもって体験しているからそういう風に育ったと言えるのであって、日本人が組織に組み込まれることそのものに違和感を感じないのはそれなりのバックグラウンドがあったからだと思うんです(関東と関西とこの辺の感じ方は違うはず)。

でも時代は変った。終身雇用もない、年功序列も無い、能力主義がのさばっている組織になってしまった。これって海外では古くから普通だし、今でもその通りなのだけれど、実はそういう組織にはそれなりの掟というか常識もあるわけですね。でも日本には違うルールがある。将来が約束されていないのに組織はそれぞれの歯車を拘束するし、より高いモチベーションを要求し、家庭をも顧みない突撃兵を好む傾向は残ったまま。

海外の場合は、能力主義は能力主義ではあっても私は家庭や自己否定をしてまで会社のために働けという感覚は無いように思っています。そこが日本と違うように私は感じるところ。でも海外は海外で、休暇じゃ家庭じゃ趣味じゃという生き方を大事にする国はことごとく凋落している。困りましたねぇ。

企業戦士だなんて言葉も使い捨ての人材をうまく使うほめ言葉でしかなく、今では死語。

こんな社会でどう子供に生きて欲しいかというと、もっと自分を大事にして欲しいということなんです。でも口で言うのは簡単でもじゃぁ実際にどうする?

ここでどうするかの道を示すのも親の役目だと思うんですよ。社会に出たら後は自分の足で立って生きていきなさい、なんてちょっと聞こえは良いけれどそれって私は親の義務の放棄にしか思えません。

親と子供は線で繋がるべきなのに、今の社会は親は親、子は子で点と点になってしまっている。私はこれが奴隷の奴隷たる所以だと思うのです。親と子は別々なのが当たり前だと組織に身を置く人たちは考えるかもしれないけれど、世の中ってそういう風にはできていないはずだというのは前にも書いたことがあります。商店もそう。創業1850年なんて店もあるけれど、小さな商店でも生きるノウハウはもちろんの事、資産を代々譲って生きながらえてきている。企業も同じ。ありとあらゆるリソースは次世代に譲り、伝え、生き延びている。こういう風に考えると国家も同じで、世代世代で区切られてそれぞれがゼロスタートなんてことはあり得ない。農家も同じ。もし、全て借地で、親が死んだら全ての土地、農機具、種籾は没収なんてことにはなっていないし、農作物の育て方、売り方、先祖代々ノウハウを受け継ぐから生きていける。林業なんて一代で出来ることはほんのわずかでしかない。

そうやって、親は子に、またそれが孫へと譲られて育っていくのが社会だと思うわけです。代々医者だってのも似たようなもんでしょう。

でもフト現実に目をやると、学校を出たら就職して、社会に出てから先輩に一から教えてもらいなさいなんて突き放す。これって絶対におかしいと思うわけです。自分の子供を経済活動の中で必要な一労働力として市場に出すのが親の役目だなんて絶対に認めたくありません。かつての集団就職で東京に向かう夜行列車に乗り込む子供達を見送る親たちはどんな思いだったのか、それが気になるのと同時に現代も似たようなもんだろうと思うわけです。

では子供に伝えるべきものがなかったら?

結局そこが問題で、伝えるものが無いのは親の責任。それが普通だと思うべきじゃないと思うんです。

では我が家に何があるか?

ここなんですねぇ、困るのが。(笑)

でも我が家には小さな田畑があるのと同じと考えることは出来ます。裏山にはマツタケが採れる林もある。目の前の海には豊富な海の幸が一杯。

これを無視して放置して、大きな組織の一員になって働くのもOK。それが「望み」なら。

でも今は小さな田畑もまだまだ開墾できる土地は広がり、漁のノウハウもあれば漁業として大きな産業に育つ可能性もあるとしたら?

それに挑戦するのも良いと思うし、自分が来月、来年の今日、どこで何をしているか自分で決められる人間になって欲しいんです。

でもねぇ、農作物育てるのって結構難しいし、漁業にしても全くノウハウもないと駄目だと思うよ~。なんて巷の人たちは言う。でもそれで食っている人たちは決して少なくないし、子供が自立して生きて行きたいと思うのであれば、親として持っている多少の知恵、ノウハウを子供に譲りたいと私は思うわけです。

つまり、就職が決まった長男に言ったことは、「いつ頃やめるつもり?2年?3年?5年は長すぎない?」という話でした。(笑)

私が育った時代背景にヒッピー文化があったからこんな考えを持つのかもしれません。大きな組織の歯車になり、わけのわからない常識とやらをそのまま鵜呑みにすることを強いられ、身を粉にして働き、いつか捨てられる。そんな生き方に反発したいという若いときの気持ちが強いまま子供を育て、そしてジジーになりました。

さて、どういう生き方を望み選ぶかは子供の自由。もし私の路線で彼らも生きたいと望むのであるならば、ダボ流ヒッピーの生き方、極微零細企業なりの生き方を伝えたいし、食うために稼ぐのではないお金との付き合い方を教えたいと思います。

ま、そんな話を延々と長男としておりまして、多分、私がマレーシアに行ったら小さな投資会社を作ることになるかもしれません。で、そこで将来的に長男に我が家流の田畑の耕し方、種のまき方、育て方、収穫の仕方を教え、米代には困らないような生き方を伝えようと思います。それが将来的にどう大きく育つかはわからないし、それは子供達が持っている素養と努力次第。

あ、そうそう。その頃にはオプション売買で成功しているこのブログの読者でもあるポーのスクーターさんがシドニーに移住し終わっているだろうし、何ヶ月か丁稚奉公させてもらって徹底的にしごいてもらいたいです。そんな話もしていました。

でも大事なことはどうやって稼ぐかじゃなくて、稼いだ金をどう使うべきか悩むような人生を送って欲しいです。これが親としての私の願い。

ま、小商人的な発想ですが、私はこんな考え方を持っています。本当はこれとは真逆で天下国家を論じて、その世界に身を捧げたいなんて息子がいたらそれはそれで嬉しいのですが・・・・。その辺はやっぱり現代っ子。

しかしまぁ、世の中には伝えたい、継がせたいものがあっても子供がいないとか、子供にその素養がないとか、子供が全く違う人生を考えているとかうまくいかないことばかりですが、その辺を踏まえたうえで、どうにかなんらかの形で何かを残し伝えていけるように努力したいといつも考えています。

相場というのが一つのキーワードになるわけですが、でも相場が中心というわけでは決して無くて、それも稼ぐための一つの手段でしかないと思います。それどころか相場だけで食うことの難しさ、味気なさ、問題点も多々あるはずで、相場どっぷりはかなりうまくないと思ってます。私とて相場は難しく、それだけで食おうなんて若い頃は考えたこともありませんでした。でも相場を制する手立てがあるのも50を過ぎて見えてきましたし、これをどうにか生活の中に取り込んで生かして欲しいと願っています。ちょっとしたことで人生が変る。その手助け、切っ掛けを作ってやりたいです。

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上の文章から私が「遊んで暮らせるようになるべきだ」と言っていると思う方もいるかもしれませんので、それはちょっと違うと付記させてもらいます。

「働くこと=稼ぐこと」というようには世の中が成り立っていないんですね。仕事をしてお金が入るのは給与所得者だけで、本来仕事って利益が出たり出なかったり。やればやるほど損する仕事って結構ある。

でもやりたいこと、やらなければならないことっていくらでもあるじゃないですか。それをやれる状態を維持することが大事だと私は言いたいわけです。

仕事って一つしかないのが普通だと信じ込んでいる人は単にそう思い込んでいるだけで、田舎に行くとサラリーマンだけれど米は自分の家で作っているから買ったことがないとか、不動産業を副業としてやっているとかそういう人って少なくない。あるいは夫婦共働きだから好きな仕事が出来るというケースも多い。

二足のわらじを履くことって大事だと思うんですよ。企業はどこでも同じですよね。儲かる事業(商品)があるから他のやりたいことができる。それどころか単品、単一事業しかなかったら非常にうまくない。これと同じことで、自分は自分企業だと考えて、サラリーマンは一部門の事業であると考えたらどうでしょうか。

私は9年間ぐらいのサラリーマン生活がありますが、実はそれは本業ではないと考えていたくらいです。

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