なぜKLCC公園東のコンド群を候補に入れないのか

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ブログへのコメントやメールでいろいろとサジェスチョンを頂いております。ありがとうございます。m(_ _)m

その中で、私は度々話としてはKLCC公園東にあるコンド群に触れるのになぜ候補としないのかというご質問をいただきました。是非お勧めしたいコンドもあるとのこと。

この辺はブログに書いてもしょうがないと思っていましたし、書いても意味不明だろうと今でもそう思っています。

でもこれもまた「ダボ家の記録」として書いておこうと思いました。

簡単に言いますと、「望んではいけない場所」だと考えているってことです。決してあの周辺のコンドに興味がないのではなくて、それどころかオオアリです。特にThe BinjaiやTroikaはベスト・オブ・ザ・ベストだと思うくらい。事実はわかりませんが、私はそう思っています。

そしてベスト・オブ・ザ・ベストだからこそ、そこに住むことを考えてはならないと思っているんです。理解不能でしょ?(笑)

ここから先はいつものように話が長くなりますし、ややこしいですから暇人以外は読み進まないほうが良いです。m(_ _)m

それは金銭的なものでもなくて、我々の生き様とか、何のためにマレーシアに来たのかなどに密接に関係があります。

今借りているPavilionのコンドのベランダからツインタワーとそしてその右の方にはThe Binjaiが見えます。それらを眺めながらベランダに座り、この数日間、何時間も座ったままいろいろ考えていたんですよ。

マレーシアって我々にとってなんなのか、我々は何をしに来たのか、何をするべきか、計画通りに出来るのか。そしてKLCCってなんなのか、The Binjaiって我々にとってなんなのかとか、原点に返っていろいろ考えていました。

私たちはマレーシアには「資産を作るため」に来ました。我々は有り余る資産を元に優雅に暮らそうと思ってきたわけでもなく、逆に限りある資産を有効に使うために来たわけでもない。もちろん、ご褒美人生でもない。

では何のために資産を作るのかですが、普通は「自己実現」とか「我欲を満たすため」とか、あるいは単純に「生きるため」であると思うのですが、我々はそのどれにも当てはまらないんです。

そもそもなぜオーストラリアを出たのか。私個人、あるいは夫婦を単位として考えれば、ゴールドコーストで普通に生きて、普通に年老いて、普通に死んでいくのになんの問題もありません。でも(前にも書きましたが)、「俺はこんな生き方をしたかったわけじゃない」とある時、思うようになったのです。

でもそれは「もっと大きくなる」「もっと儲ける」「好きなものを手に入れる」「好きなことをして生きる」という意味じゃないんですね。それどころかそういう意味では私はゴールドコーストで十分満足していたんです。でもある時、自分が自分の人生に価値を感じられるかどうか、そのいちばん大事な点で疑問をもったんです。

このままじゃ俺の人生に価値はないと思ったってこと。

私には夢があります。それの触りをこのブログにも書いたことがありますが、その夢を「平民の逆襲」という一言で表しました。平民の逆襲って?って思うでしょう。あまりにも抽象的でわかりづらいと思いますが、ま、多くの方にわかってもらおうとも思っていないし、馬鹿か?と思う方もいらっしゃるでしょう。でもそんなことはどうでも良いことで、あくまで自分の心の中の問題でしか無いんですね。

その実現のためには「冨」が必要です。私は「優しさは力」だと思っていまして、また「力とは金」であるとも思っています。お金が全てではないものの、残念ながらこの世の中はお金で解決できることが90%を超えている。だから私の夢の実現には理屈や思想とは別に「力としての金が必要」なんです。

でも金は目的にはなりえない。あくまで手段、道具でしか無いんですね。では金で何をしたいのか、それに関しては、正直なところ、ブログにもはっきり書きたくはないのです。私の心の一番奥底にあるもので、書いても意味が無いと思うから。

ただ、「平民の逆襲」とそれを自分でもまとめています。ここで大事なのは「平民からの【脱却】」じゃないってことなんです。そもそもこの思いの根源にある力の元になるものは「反逆精神」かもしれない。権力とか不公平な社会、既得利権とかそんなものに対する反発が基礎になっています。

それとKLCC公園東側のコンドとどういう関係があるのあるのか?

オオアリなんですよ。ベランダからツインタワーを見ていますと、「権力の象徴」だと私は感じるのです。そしてその真正面にあるのがThe Binjaiで、コンドのベランダの真正面に公園があり、ツインタワーが建ち、クアラルンプール最高の景色を我がものとするThe Binjaiはやはり「権力の象徴」「成功の証」「選ばれた人たちのみに与えられた特権」みたいに感じるわけです。

つまり、私の敵でもあるんですね。面白いでしょ。(笑)

でも普通に住まいとして考えれば最高ですし、住める余裕があれば良いんじゃない?と思うわけです。

だから私もいろいろ考えたわけですが、原点に帰って「我々は何しに来たのか」を考えると、そういうところに住んで人生を楽しんではならないと思うんです。

私たちはまだ来たばかりで、新たな夢、希望を持っていますが、まだなんらスタートしていませんし、結果も出ていない。前途多難だと言ったほうが間違いがない。そんな状態で、どうしてベスト・オブ・ザ・ベストの場所に住もうなんて思えるのか?ってことなんですね。

でも「時期尚早」ってことでもないと思っています。もし計画通りに物事が進んだとしてもきっとあそこに住むことはないし、「住まない」というコダワリを持ち続けるほうが、我が家のモチベーション維持には有効となるはずなんですね。

また長男も一緒にいるということを忘れてはならないんです。彼は自分の夢を捨てて、私の夢に乗ることを選んだ。そして一緒にマレーシアに渡ってきた。その彼にはなんの実績も金もないんですね。

そういう息子と一緒にKLCC最高のコンドに住んだら息子はどうなると思います?

私はどんなに金持ちになっても、自分の息子にポルシェを買い与えることは絶対にしません。ポルシェが欲しければ、親の七光りも使わずに、ゼロから自分で苦労して自分で稼いで買えば良い。

住むところも同じだと私は考えます。

そして私自身は「住みたいなら住めば良い」と自分の欲望を開放しては駄目だと思っています。これは車も同じで、私がカーキチなのはブログの読者はご存知だと思いますが、私の世界で一番好きな車はアストンマーチンなんです。でも私はどんなに金持ちになってもそれは買わない。

自分の欲望って一体どういうものなのか。

これを私はオーストラリアで学びました。若い頃から私はのし上がることばかり考えていましたし、そもそも物欲も所有欲もそして食欲も凄いですから、お金があればあれも欲しいこれも欲しい、ああしたいことうしたいとそれはそれは際限がないくらいの欲望を持っていました。

でも年齢とともに角も取れてきたものの、そういう我欲は収まりませんでした。そもそもそれがあるからこそオーストラリアにも渡ったわけです。

そしてオーストラリアで私は小さなころから持っていた欲望の大部分を満足させることが、運良く出来ちゃったんですね。

そんな私に何が起きたかというと、「成長が止まった」ってこと。

欲望は行動の基本になるのは間違いがなく、ハングリー精神が大事だという人は世の中に多い(私は大反対だけど)。でも欲望って際限がないんですね。どんどんどんどん大きくなる。だったらそれを追い求めれば良いんじゃない?ってなりますが、私は全く違うことを考えるようになったんです。

私の人生の中でいわゆる「成功者」と呼ばれる人との出会いはありましたが、二種類いることに気がついた。一つは上に書いたように「我欲をとことん追い求めた人」。もう一つは「我欲ではない違うものを求めた人」。

前者には私の従兄弟も含まれますが、何度も失敗の末、とうとう成功を手にした。ところがですね、日本に何台もないという超高級車に乗り、周りは有名人しかいないようなところに大きな家を建て、健康のためだと疲れたときには一本10万円もする注射をする。そしてまだ止まらない金への執着心、そして次に出てきたのは名声が欲しいという欲望。

こういうのが丸見えの成功者って結構いて、「執着心こそ成功への道」という。

それはきっと事実だとは思うけれど、私はそういう人たちから学びたいと思うものはなにもないんですよ。それどころか嫌悪感すら感じる。自分の欲望を開放して、欲しいものを手に入れ、やりたいことをやる生き方はまさに地獄の酒池肉林、餓鬼の世界を連想してしまうんです。

でも成功者でも、質素に生きて、なんでそこまで頑張る?と思う人もいた。そして彼らは「自分を超えている」ことに私は気がついたんです。自分の欲望を満たすためではなくて、「やらなくてはならいこと」を背負っているんですね。我欲とは無縁みたいな人もいた。

私としてはそういう人たちに心を揺さぶられるわけで、それってオリンピックを見ているのと同じ感動があるんですね。世界のトップになるのはもちろん「我欲の強さ」が根底にあるとは思うけれど、実は「我欲は自分の思い一つですぐ変化する」んですね。頑張る力が一瞬にして消えることも簡単に起きる。

でもあのオリンピックの選手たちも自分がトップに立ちたいと思う気持ちだけではなくて、仲間や組織や関わりのある支援者、そして日本という国を背負うから「強くなる」のだと私は思うんです。

普通の旦那衆でも同じで、家族や会社、組織を考えるからとんでもない力が出るはずで、本来は「立って半畳、寝て一畳」とか「足るを知れ」なんて言葉もありますから、頑張るのを途中でやめたり、諦めるって本当に簡単にできちゃう。でも背負っているものがあるとそう簡単にやめられない。

昔の強かった日本軍も同じ。武士も同じ。自分を捨てて「何か」を背負っているから強かったのだと思うわけです。ただそれは自発的なものなのか強制されたものなのかという大きな違いがあるにしても、「捨て身」に勝るものは何もないと考えるようになったんです。

オーストラリアでそこそこの生活を確保できて、かつての夢はどこかに消えてしまった自分に気がついたのもそんな時でした。我欲は思い一つで簡単に変化してしまう。頑張り屋が突然やるきをなくすのもそれ。そして、背負うものがないと人の成長はそこで止まる、と。

だから「自分の欲望を超える」ところに「本当の伸びしろがある」と確信したんですよ。そしてその思いを持って我々は今、マレーシアに居る。

この考え方を私には息子にもしっかり持ってもらいたいのです。長男は優しいやつで(我欲の強い私から見ると)欲がないように見えます。そして現代っ子らしく、理屈っぽい。論理だの合理性だのを理由に「頑張ることをしない」ように見えるんですよ。私には手抜きをしながら生きているように見える。

そんな彼も結婚して子供でも持てば考え方が変わるんでしょうが、彼には「自分の欲望も捨てたところに本当の強さ、生きる世界がある」と理解して欲しいと願っています。彼には「自ら【何か】を背負う覚悟」を持って欲しい。

でも長男は私の考え、夢、計画を彼も理解し、賛同して一緒にやろうと思ったからこそ、こんなジジババと一緒にわけのわからないマレーシアに来ているわけで、これから我々親子がどんな考え方を基礎に置いて、何をやるかっていうのは、本当に気をつけて自己を見つめながら進めないと「簡単に曲がってしまう」んですね。私のオーストラリアでの後半の生き方がまさにそれでしたし、そういう生き方はもう私はしたくないし、息子にもそれをわかって欲しい。

KLCC公園の東のコンド群を選ぶか選ばないかとそれとどういう関係がある?って多くの方は思うでしょうが、この辺の考え方は非常に大事だと私は思っているんです。金があるならThe Binjaiのペントハウスだろうがアストンマーチンだろうがなんでも買えば良いじゃないかみたいな考え方を持っていると、人は知らず知らず餓鬼道の世界に堕ちていくと私は思うんです。

つい先程、日本のテレビ番組をみんなで見ていて、なるほどなぁと思ったことがありました。世界のトップアスリートや有名人が自家用ジェットを持っているという話なんですが、わたしみたいな庶民は「すげーー、かっこいい~~」なんて思っちゃうわけです。つまりその思いの底には「俺も金持ちになって自家用ジェットを持ちたい」みたいな思いがあるってことなんですね。

ところがそのトップアスリート達の話を聞いていると、そんな格好つけで自家用ジェットにのっているわけでもないし、「いつかは俺も」みたいなものとは全く無縁なのがわかりました。彼らが自家用ジェットに乗るのは「彼らの本来の目的を達成するためにそれが必要だから」という単純な理由なんですね。見栄で乗っているわけでもなんでもない。

農民がトラクターを買うのと同じ。

だからもし私達がベスト・オブ・ザ・ベストのコンドに住んだり、所有したり、あるいは大好きなアストンマーチンに乗るようなこと(笑)があっても、それは「そうすることが自然の成り行き」になったらそれはそれで良いですが、「あんなところに住んでみたい」「アストンマーチンに乗れたら・・・」みたいな、「下から上を見て感じる願望」を満足させるような生き方は排除したいのです。

私たちは泥沼のような世界であくせく生きていますが、私はそこから脱出したいとは思わないんですよ。でもその泥沼の中でスイスイ泳げるようになりたい。そしてそういう仲間を増やす。これが私の「平民の逆襲」。(笑)

欲望を開放するとそれは際限なく広がって、欲望の塊の方向に人間は動きやすし(私はその類)、逆に、「自分が満足できれば良い」となれば本来やるべきことも出来ないようになると思うのです。

ですから、自ら「何かを背負って生きる生き方」をしてみたいと思うのです。もしそういう思いが起きなかったら私はマレーシアには来なかったかもしれない。ただ、オーストラリアの高い物価、高い所得税率がきっかけになったのは間違いがありませんが、「新たな生き方を模索しよう」という思いがなかったら、オーストラリアで愚痴を言いながら住み続けることを選んだはず。

そんなことを考えるようになった自分ってアホか?って思ったんですよ。私の周りにそういうひともいませんし。(笑)

でもね、ある日ある時、ユーチューブで三島由紀夫のインタビューを見たんです。すると彼は言っていた、

「人は自分のためだけに生きれるほど強くない」と。

これを聞いて、感動したなんてもんじゃありませんでした。私が考えついたことは異常でもアホでもなくて、私が人間だから気がついた当たり前のことでしかないと三島は教えてくれた。

でも私は聖人君子でもなければ、我欲もかなり強い方なのはわかっていますから、「自分の際限ない欲望は絶対に開放しない。でもちょっとだけそれを許す(笑)」みたいな生き方ならできそうです。

我々がどんな考えを元に、なぜマレーシアに来たかの本心を今日は書きました。でもそれを理解してもらおうなんて全く考えていません。変人だと思われても全く構いません。ただこれが私の今までの生き様から最終的に出てきた結論ってだけの話。

長男は我欲が強くない男ですが(次男は正反対)、本当に欲がないのか、「欲を出すとろくでもないことになる」と考えているのかまでは私にはわかりません。でも上にも書いたように結婚もし、子供ができればあーじゃこうじゃ理屈をこね回す余裕もなくなるはずですが、これまた昨今の現代っ子みたいに、「結婚はコスパが悪い」みたいなことも言うんです。

私はそれは「逃げ」でしかないと思っていて、確かに合理性を追求すればそういう考え方も出てくるんでしょうが、いつか「お前となら苦労してみたい」と思う人が現れてくれることを願っています。

そしてその愛する人のため、子どもたちのために「自分の夢はちょっと横において」生きることになるんでしょう。そしてそれもうまく行って余裕ができたら、家族を愛するように、その枠を広げて世界を見れば、「自分だけ美味しい寿司を食って、家族には食わさないようなことは出来ない」のと同じ目で、世間を見れるようになるはずなんですね。

世界の人間は古来よりそうやって生きて、現代に続いてきたのだと私は思っていて、弱肉強食の中で自分の我欲を満足させるために戦い、勝ち残った者が今、生き残っているだけだとは思わないんですよ。

そういう意味で、我々親子がマレーシアに来たのは「人としての生き方の原点を探す旅」なのかもしれない。

どうなりますかね。(笑)

 
 
 

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