このブログの古い日記にコメントを頂き、それを読み返しているうちにちょっとホームシックに掛かってしまいました。
ゴールドコースト・・・・・・。やっぱり良い場所だと思います。
気候が良いとか環境が~とかいうんじゃなくて、30代で家族4人でゴールドコーストに渡り、そこで仕事を始め、子供を育てて来た中で自分が感じ、そして得たことってやっぱり今こうしてマレーシアにいるのとは随分違う感じがします。
今マレーシアにいるのは、「マレーシアという国にいるだけ」であって私はマレーシアの何も知らないし地域のコミュニティに参加しているわけでもなく、日本で言うと「会社がある場所」みたいな感じで「住んでいる場所」とはかなり違う。でもゴールドコーストでは「根を張って生きていた感」があって、旅行やロングステイで行った場所とも違う。
ではゴールドコーストが故郷かというとそれもまた違っていて、私の故郷はもちろん日本であり、体に染み付いている「故郷への思い」とは「新橋」。
でも「あの新橋」はもう存在しない。
新橋はサラリーマンの街なんて言われると「冗談だろ?」と私は思うわけで、新橋とは私の中では「商人と芸者の街」。私が住んでいた場所には今では大きなビルが建っていて、たまにグーグルで見てみると全く違う街になっている。
駅前広場から入ってすぐのところ。グーグルビューの画像。
今はパチンコ屋になっているんだ・・。我が家の目の前には「芸者の置屋」があって家からその二階がよく見えた。若い芸姑たちがいつも三味線や踊りの稽古をしていたっけ。私も彼女たちによく可愛がってもらったし、夜になると彼女たちが着飾って街を歩いていたし、遠くには「新内」の爪弾く三味線も聞こえた。って今の人達って「新内」ってなんだか知らないのかもね。
お祭りも「芸者みこし」が出たくらいで、楽しかったなぁ。また新橋って「ゲイの発祥地」でもあって、上の写真の左の奥には「烏森神社に抜ける小道」があってそこに「ゲイバー」が出来たのね。有名な青江のママは男装の麗人でカルーセル麻紀も新橋出身。新橋って元はと言えば「歌舞伎役者の遊び場」だったのね。だから歌舞伎関連の店を戦後の焼け野原がある時代に私の祖母が始めたのも新橋だったわけだ。新橋には常に「女形」が腰をフリフリ歩いている姿があったっけ。
当時はサラリーマンは全くいない街で、今とは180度違う。
でもその新橋はもう存在しない。
当時の友達もどこに行ったのか全くわからないし、街も全く変わってしまった。変わらないのはよく遊んだ日比谷公園と浜離宮ぐらいか。
それらへの懐かしさって半端じゃなくて、故郷は日本だとは思うものの、「帰る」という言葉を発した時に頭に浮かぶのは日本じゃなくてゴールドコーストなわけです。なんなんだろう、これって。
ただ思い浮かぶのはゴールドコーストであってオーストラリアじゃないのね。シドニーやメルボルンって大都市でどちらかというとクアラルンプールと似ていて人種のるつぼで私としては「オーストラリアのイメージ」じゃないわけです。
私がこんなことを感じるぐらいだから、息子はもっとそれを感じているはずで、我が家の息子達は小さい頃から「俺達の故郷はゴールドコーストだよ」って言っていた。彼らはもう29歳、27歳だけれど日本には数度しか行ったことがなくて生活もしたことがないから「日本好きの外国人」程度のことしか知らない。
ヨメさんはヨメさんで「世界で一番好きなのがゴールドコースト」とずーっと言っていて、マレーシアに来るのを大反対していたのは何度もここに書いたとおり。そしてヨメさんって不思議で「日本嫌い」ではないのだけれど日本にはほとんど帰らない人。ゴールドコースト在住の25年間の間にヨメさんが日本に帰ったのは多分6-7回しかないはずで、それも彼女の母、妹が病気であるのを見舞いに行ったり葬式に出たり、そんなことがなければ一切日本には帰らない人だった。今では日本に行く理由もなく、「日本に行く?」なんて話は一切でない。
でも「ゴールドコーストに行く?」なんて話も我が家では出ないわけで、それぞれが思いを押し殺しているのか・・・。
ところが歳は確実に取っていくわけで、「どこで死ぬのか」ってのも非常に重要で、統計的には私のほうが早く行くし、私はどこで死んでもかまわないと思っているんだけれど、ヨメさんは一人で住むとなれば日本で無ければ絶対に生きていけないはず。
だから私がまだ元気なうちに「日本に帰る場所」を確保しないとならないと思っていて、それは「介護施設が併設されているシルバーマンション」しか頭に浮かばない。いつかそこを拠点にすれば私が先に逝ってもどうにかなるはず。
なーんてことはあまり考えたくないのだけれど、老いも死も必ず来るわけで、その内決めないとなぁ、なんて考えています。それを決めるのは70を過ぎてからで間に合うのだろうか。(笑)
ゴールドコーストに帰ってそこで最後を迎えるなんて選択肢は・・・・・、無いと思うんだけれど・・。
マレーシアに拠点を移すと決めてから「家を売るまでの仮住まい」として借りたコンドも今思えば良いコンドだったわ。これほど見晴らしの良い場所に住んだのは私の人生でこれが最初で最後。
こんな海岸がすぐ近くにあるなんて、当時は当たり前に思っていたけれど貴重だったんだろうなぁ。
永住権を取ってオーストラリアの土になるつもりで渡った我が家で、ゴールドコーストに根を張り生きていたはずなのに結局は出ていくはめになった。出て行きたくて出たわけじゃないしこれってやっぱり負け組なんだろうと思う。
たまーにゴールドコーストに住んでいる夢を見るんですよ。
でもそこに出てくる子どもたちはなぜいつも小学生・・・・。
ゴールドコーストとマレーシアと半々の生活。そんなのもありなんだろうか。
でもねぇ、私は旅行に行くなら日本に行きたいんですよ。日本人なのに日本のあちこちを知っているわけじゃなくて、いや仕事で日本中は回ったけれど「住んだこと」があるのは東京だけ。できることなら北海道や北陸、中国地方や九州の「魚港がある街」を転々と住んでみたい。
暇な時にユーチューブでよく見る動画があるんですよ。最近、若者がユーチューバーとなって「好きなことをしてその動画を上げて、なおかつそれで利益を得て生活する」なんてのが流行っていて、その中でも「釣り」の動画をよく見ます。
こんなのを延々と見続ける私って、実はこういう生活をしたかったのが本音じゃないかと思ったり。(笑)
私の釣り好き以上にヨメさんが釣り好きで、日本ではよく釣りに行きました。荒波の太平洋に出てヒラメを狙ったり、グアム時代にもほぼ毎日二人で釣りに行っていたっけ。ゴールドコーストでも自宅の桟橋から釣りが可能で、飲んだくれながら釣りは良くしていました。でも釣れるのが一年中、黒鯛とキス。たまにマゴチだけ。マッドクラブはいつでもいくらでも捕れた(だから数年で飽きてしまいましたが)。だから意外に「釣り人生」なんてのが我々夫婦が唯一「一緒」に出来ることなのかもしれない、なんて思ったり。
まだ遅くない?
でも私は息子たちやまだ見ぬ子孫たちへの贈り物と「ダボ家のサバイバルシステムの構築」を選んだわけで、やっぱりそれをやるのが私のやるべきことなんだろうと・・。
ま、今まで好き勝手に生きてきて、遊びも今まで十分やったのにまだそれを考えるとしたらきっと罰が当たる。(笑)
私がそうであったように、子どもたちにも「来年の今日はどこで何をしているのか自分で決められる人生」を送ってもらいたいと強く思うんです(それはオーストラリア流でもある)。私の場合は紆余曲折、波乱万丈ってほどではないもののサラ金からお金を借りなければならない時もあったし、月末の支払いをどうしようなんて悩みながら生活することもあったんだけれど、そんな「運に任せた人生」ではなくて「(私がたまたま見つけた)自分で作る自分の人生構築の術」を子供たちに伝えることが出来るんじゃないかと夢を見ています。
古今東西、そんなうまい話は聞いたことがないわけで、出来るはずがないとは思うものの、だからこそそれをやろうと思うんです。
絶対に諦めません。
「このままでは終われない。まだ夢の途中、諦めない・・・」