第一回目の【ワクチン(ファイザー)】を打ってきました

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コタダマンサラにある「Thomson Hospital」でワクチン(ファイザー)を打ってきました。ブースーターショットではなくて、初めて、一回目のワクチンです。

予約なしのWalk inです。(Thomson Hospitalってかなり綺麗で対応も素晴らしく、いつもお世話になっているパンタイ病院より良いかもしれないと思った)

とうとうダボも白旗を挙げたのか?と言えば、そうかもしれません。

何度か書いてきましたが、私は「ワクチン否定派」ではなく、「判断するだけの情報がない」と思ってきました。十分な治験は行われていませんし、副反応、そして後々の副作用に関しては誰もわからない。それでも「緊急事態」だから打てと。

これって「人体実験以外の何物でもない」と思っていました。

だから喜んで打てるわけもなく、でもワクチンそのものを否定するようなこともできず、「様子を見る」ことしかできませんでした。

ただ緊急事態、つまり「戦争が起きた」のと同じで、そこでどう行動するべきかという時に「安心安全を求めても無理」なのはわかるし、ワクチンを推進しようと決めた政府が「ワクチンは安全だとゴリ押しをするしかない」のもよーく理解できます。

亡くなった人がコロナ陽性であった場合、「死因はコロナにする」ことも、ワクチンで死亡しても「ワクチンが理由とはなかなか決定しない」のも、私達の立場ではなくて、管理する立場、医師の立場で考えれば、【そうなるのも当たり前】だと私は考えています。

特にワクチンを打って死亡した場合、それを判断する医師が「真面目であればあるほど」、そして「トリガーになったのはワクチンだと思う」としても【死因はワクチンとはしづらい】のもよく理解できます。99.99%、ワクチン接種で死んだと思っても、「既往症では死ぬはずがない」「ワクチンとの関連性がある」ことを【科学的に証明するのは悪魔の証明に近い】と思うし、そうなるであろうことはワクチンが広がる前から言われていたこと。

私としては「ワクチンとの関連性が証明できなくても」【トリガーとなったであろうことが考えられる場合】は国が保障するべきだと考えていました。たとえば「ワクチン接種後に目眩がして、転倒して頭を打って死亡」したとしても同様。

またコロナそのものやワクチンに「陰謀がある」とは思わないものの(絶対にないという確証もない)、「ワクチンでこの危機を乗り切る」と政府が決めた以上、「情報隠し」「プロパガンダ」が横行するであろうこともわかる。そしてそれにメディアがそれに加担するであろうことも。

本来は「コロナの危険を煽った」のと同様に、「ワクチンの危険を煽る」ことも起こりそうなものだけれど、それは起きなかった。一部の人達が騒いだだけ。

そのワクチン否定派の主張が間違えている、フェイクだとも私は思っておらず、「そもそも安心安全なんて無い」わけだから「危険な部分を重視し、ワクチンに反対する勢力が出てくる」のは自然だし、その方が健全だと思ったくらい。

世の中では「大丈夫だよ」という雰囲気を広く醸成してきた割には、「子どもたちにも打つ」という方向になった時、「ちょっと待て」という考え方があちこちから上がったのは意外で、「やっぱり皆も危険だと思っていたんじゃないか」と私は苦笑いしたくらい。

私が気になるのはやっぱり「子どもたち」のことで、もう年寄りの自分としては「いつ死んでもおかしくない」と思っているわけで、「自分がワクチンを打ったらどうなるか」に関しては大きな心配をしたことがありません。

でもまだまだ将来がある子どもたちは全く別。

だから我が家の子供たちには「よーーく、考えろ」「慌てるな」と言い続けてきましたし、情報交換はかなり細かくやってきました。

ところが世界には「打たないままでいるのが難しい人たち」もいるわけで、それはシドニーに住む次男坊夫婦も同じでした。サラリーマンですが、周りを無視するわけにもいかず、暗黙のプレッシャーはかかり続けたと言います。

では「打つのか」、あるいは「仕事を失っても打たないのか」「ヨメさんの将来をどう考えるか」は彼ら本人であって、もし次男坊夫婦が「打たないことを決めて仕事を失うこと」があったとしても、私はその意志を尊重し、全面的に彼らをバックアップしようと思っていました。

でも彼らは「打つことを決めた」わけです。2021年10月にワクチンを接種しました。(2022年1月にはコロナに感染)

マレーシアに住む我が家はというと、「様子を見よう。まだ打つのはやめよう」と言い続けたのは私だけで、ヨメさんは「早く打ちたい」、長男は「打たないと生活が出来ない」と言っておりました。(時期は別にして長男だけ先に打つのは決めていた)

でもシドニーの次男坊夫婦がワクチン接種をしたことで、我が家の流れも変わってきた。

私の考え方というか、心の動きにも変化が出てきました。

「子どもたちが接種したのに、その親である私達夫婦が接種しないままで済むのか?」と。

ここの考え方は「子供中心に物事を考える人」じゃないと理解できないと思いますが、【子どもたちがリスクを受け入れたのなら、親も受け入れるべき】と考えるようになりました。たとえ世の中が「もうワクチンを打つ必要はない」ということになろうと、私は打つということ。

つまり、「子どもたちが十字架を背負うなら、親も一緒に背負うべき」であって、もし将来にワクチンが理由で子どもたちに何か起きたとした時、親としては「だから打たなければよかったのに」なんてことは絶対に言えないのね。

もし「将来、子どもたちになにか問題が出てくる」としたら、親も一緒に同じ様なリスクを取り、一緒にそれに向かうべきという考え方です。

同居する長男にその「考え方の変化」を話したところ、「その気持はよ~く理解できる」と言ってくれました。でも「俺達に何もないのにオヤジたちに何か起きたら困る」とも言っていた。(笑)

またワクチンを打つことにリスクがある「デブ」「高血圧」「糖尿病」「喫煙」に関して、私はほぼそれに該当するわけで、そこで何か起きるかもしれない可能性は「子どもたちより高い」のは間違いなし。

でもま、それに関しては「そもそも、何が起きてもおかしくない歳なんだから、ワクチンでなにか起きてもしょうがないだろう」という私の説明で決着。

私としては、自分がこの世を去る時には「私を心配そうに見つめる愛する人達の視線を感じながら逝きたい」と願っているわけですが、もし逆に「ワクチンが原因でベッドに横たわる子どもたちの手を握りながら、頑張ってくれ、ワクチン接種を止められなかった私を許してくれと涙を流すことは絶対にしたくない」のね。親としては、少なくとも「子供が取ったリスク」を同じ様に取る必要があると思っています。

もしワクチンに大きな問題があるとしたら、今まで通り、私達家族がいつも手を繋ぎ、信頼しあい、尊敬しあって生きてきたように、「一緒にそれを乗り越えよう」という考え方です。

だから、今までは「ワクチンを打たずに様子を見よう」と考えた私としては、「早くワクチンを打って家族皆が同じ状態になること」を望むようになったわけです。

私にとって何よりも重要なのは「子供」であって、自分の命ではない。断言できます。だから子どもたちがリスクをとる時に、「親の俺たちは関係ない」とはならない。もし同じリスクを取ったことによって、私だけが死ぬようなことがあったとしても、「オヤジは俺達と同じリスクを取り、一緒にそれを乗り越え、一緒に生きようとした」という思い出だけでも残れば私としては嬉しい。

命は有限で儚い。でも愛は永遠でいつまでも心の中で生き続けることを子どもたちに伝えたいのです。

こういうのって理解できますかね?(笑)

ま、理解して欲しいなんてことも思いませんが、今までそうであったように、「皆が手を繋ぎ、【一緒に河を渡った】満足感」で今、私は満たされています。子どもたちが3歳、1歳の時に「わけもわからない、知り合いも友人も全くいないオーストラリアに家族4人で永住し、オーストラリアの土になるつもりで渡った」ときのことを思い出します。

ワクチンを打ったことで、また我が家の結束を感じています。

いつも心はしっかり繋いで助け合い、それぞれの問題を共有して生きていく。

そういう我が家族であるというのを、今、私は実感できて幸せです。

後のことは神様にお任せ。何が起きてもそれを受け入れます。

世の中には、「安全のために」ワクチンに飛びついた人たちは多く、今でも「早くブースターショットをしなくては」と考える人も多い。ま、そういうふうに考える人には私の考え方が異常に思えるのだろうと思います。

でも逆に、「なぜワクチンをそこまで信用できるのか。おかしなことばかりじゃないか」と考え、頑なに接種を拒否する人も世の中には多いことを無視しないで頂きたいと思っています。

そして私みたいに「ワクチンを全く信用していない」にも関わらず、受け入れようとする人達もいる。私としては「未知のものを判断しようがない」わけで、要は「覚悟の問題」だと思っているわけです。

     
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