マレーシアの「感染者数急増」も困ったもんだ

マレーシアの新規感染者もそろそろピークアウトするかな?して欲しいなぁと思っていたら・・・・、急増ですかぁ。

1200人超え。

でも主な感染は海を渡ったサバ州で、今は行き来も簡単にはできなくなったようだから、それがすぐにクアラルンプールに来るとは思えない。

でも気を緩めて注意を怠ったり、全土の往来が自由になれば、「どこかで起きたクラスターから全土に飛び火する」のは同じことで私達が望む「終息」ってかなり難しいのだろうと思う。いくら自分が注意していても周りに「だいじょぶっしょ」という人がいればそこから感染は広がる。

だから「人を見たら泥棒と思え」と同じで、そして自分も感染しているかもしれないという前提で行動しないと駄目なんでしょう。

最近、私が気になるのは「三密に近寄るな」「ソシアルディスタンスを取れ」とそればかり誇張されているように感じること。

これはある程度、皆がもうすでに意識し、そうしているはずで「それなのになぜ感染は広がるのか」ってところが重要で、それは私は「物とか床」だろうと思っているのはいつも書いている通り。

例えばオフィースにしても工場などの作業場にしても、「そこに誰もいなくてもウィルスはごっそりいる」という発想が大事だと思うんですよ。

誰もいない会議室でお昼のお弁当を食べるとしても、テーブルはウィルスだらけかもしれないし、パソコンやコピー機を皆が使えば危ないし、それは作業で使う工具や計測器も同じで、共同で触るものがあれば危ない。当然、床は汚染されていると考えるべきで、【マスクを付ける】【三密に近寄らない】【人との距離を保つ】というのは【直接的な感染】を重視する考え方で、実は【間接的な感染】が多いのじゃないかと思っています。MERSの時もそうだったのを皆は覚えているはず。

だから消毒や手洗いが重要なわけだけれど、最近はそれは多くは言われずに、「マスクが大事」「人の集まるところへ行かない」「距離を置けば良い」とそこばかり強調されているように感じています。

これは自分にもそういうスキがあるのはわかるわけで、例えばスーパーに行った時、ある一角に人が多いと思ったらそこには近づくのはやめようと思うし、誰もいない場所ではなんだか安心して深呼吸してしまう自分がいる。そしてスーパーの商品に「ウィルスが付着しているかもしれない」なんてことは完全に忘れています。

その場に感染者がいなくても、感染者が動いた後には「お土産をたくさん置いて回っている」はずで、そこに一番の危険があるのだと考えるようにしています。実際に「感染者と遭遇する確率は低い」んじゃないですかね。でも感染は広がる。

やっぱり怖いのはお手洗いのような多くの人が使う場所。足で蹴飛ばすだけでドアを開けたり締めたり出来ないし、どうしたって取っ手は触るし、蛇口も触る。

だからこまめに消毒しないとならないし、「携帯用のアルコールスプレー」は必需品だと思っています。

でも感染の広がりが落ち着くと、そういう面倒なことはいの一番にやらなくなるはずで、「大丈夫だと思っていたら広がった」なんてことが起きるんじゃないですかね。

頭に浮かぶのは「イタチごっこ」だけれど、これに負ける人から感染すると考えるべきだと思って、自分に言い聞かせています。

でも自分の心理も「嫌なことは早く忘れたい」という方向に動くし、「もうダイジョブじゃね?」なんてすぐ考えるようになってしまう。

そういう意味ではまだまだ自分の中に「New normal」は定着していないと感じます。

意識している時は良いのですが、常にそんなことばかり意識していないのが現実で、どうにかちゃんとした「癖」を付けたいと考えています。

ウイルスは弱毒化しているという話を信じたいけれど、マレーシアの死者数やICU患者、人工呼吸器を装着する人の数を見るとまだまだだなという感じはしています。

そして是非知りたいと思うのは「感染者、そして特にICUにいる人、人工呼吸器を付けている人」の【年齢】です。(死亡者の年齢はわかる)

全体の数字は発表されるけれど、危ないのは年寄と持病を持っている人たちと言われている割には、その辺の情報が出てこない。

サバ州の大きなクラスターは刑務所みたいなところであると聞けば、一般には広まっていないと安心してしまいがちだけれど、そういう刑務所の「年齢分布」がどうなっているのか考えてみると、我々が一般生活をしている場所とは違うんじゃないですかね。

だからもし、同じ1200人が感染するにしても、それが「市中」で起きた場合には「死亡者数も重篤者数も【劇的に増える】のではないか」と考えています。老人や持病を持つ人は市中の方が多いと思うから。

年寄りや弱者は自然淘汰されて世の中は保たれているのは事実だとしても、コロナで死ぬなんて自分も身内も友人知人にも起きて欲しくないと思う。

ところが私が一目を置いている日本の論者たちの殆どが「コロナを恐れるな」という。

でもそれは「経済を停滞させてはならないから」という理由が多く、これって私には「論理的には聞こえない」んですよ。あえて言うなら、「危険があってもコロナを受け入れろ」っていうべきじゃない?

いやいや、風邪と同じなんだから~~、なんて言い出す人もいる。

じゃ、過去にスペイン風邪で5000万人死んだのはなんなのさと私は思うわけで、武漢やイタリアで「死体がゴロゴロ転がる現実」が報道されたじゃないですか。私はコロナが風邪と同じだとは全く思えません。

今のコロナを完全放置すれば、ああなる可能性があるわけで、「そうではない」というならそれの証拠を提示して欲しいと思う。

彼らははっきり言わないけれど、「死ぬやつは死ぬ」。しょうがないじゃないかというのが見え隠れしているように感じます。

だとしたら、私は「経済停滞で生きていけなくなる人がでてくるのも【しょうがない】」と言いたい。

これは他人事だからってことではなくて、もし家族が危険な状態になるとしたら、私は全財産を失っても彼らを守りたいと思う。そもそも家族を守るために今まで頑張ってきたのだから。

私はそう考える人はかなり多いはずだと思っていて、世界中が自由に行き来できるようになり、政府や自治体のロックダウンも行動制限もなく、出歩いて旅行に行けとか、買い物・食事に出ることを奨励され、補助金が出るとしても「行かないと決める」人も多いと思う。

やっぱり「感染者数」「死亡・重篤者数」って大事で、そこから感じる恐怖も薄れ、生命の危険もさほどなさそうだという「安心感」が生まれるまで何を言っても、やっても無理じゃないですかね。逆にたとえばGo to travelで感染者が出たとなれば、「ほら、見たことか」となる。

マレーシアみたいに感染者が急増すると、今は「嵐の真っ只中」にいると多くの人は感じるはずで、若者は別にして、年寄りや弱者はその【感覚】がある限り元に戻ろうとは思わないのが【正常】だと私は思う。

「コロナの終息」とは別に「恐怖の終息」というのがあって、雨が降れば傘をさして出かけるように「コロナとの付き合い方」も覚えて「恐怖が段々と薄れていく時」がいつか来るんじゃないですかね。

「正しく恐ろ」というのはそういうことであって、「恐怖で固まって家に閉じこもる」とか「傘もささずに雨の中を進む」ことを奨励しているわけじゃないはず。

いつか私にも「付き合い方」がわかって自然に行動できる日が来ると思う。でもそれには時間が掛かるだろうなぁ。

No tags for this post.