米国務省 改めて“イルカ漁”に反対

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ケネディ娘がツイッターで「イルカ追い込み漁の非人道性を深く懸念している」と書いたまではまぁ許すとしても日本側の反発を見て国務省が改めて「反対」を言ってくるとなると、やっぱりアメリカはおかしいと言わざるを得ませんね。

まず、イルカを殺すのが駄目なのか、追い込み漁が駄目なのか、それとも両方なのかこの辺が私には良くわかりません。多分鯨繋がりで言えば両方なんだろうけれど、国がいちいち言うことなんでしょうか。

この話が出ると、じゃぁ、牛や豚、鶏は良いのか?って話しになるわけで、もし生産管理された命だからOKとなると命への冒涜だと私は思うわけで、知能の差を言うのであれば、馬鹿は死んでも良いという差別だとしか思えません。

我々は他の命の犠牲の上に成り立っているという事実からはどういう言い訳を作ろうが逃げられないわけで、これはOK、これは駄目ってない筈なんですね。あえてその話になるとインド人が出てきて俺にも一言言わせろってことになるんでしょうが(笑)、本物の菜食主義者の人たちは根菜類は食べないんですね。ニンジンだって大根だって、引き抜いて食べれば死んでしまうわけで、そうならないように木の実や種子であるとか、葉っぱを少々頂くという食べ方をする。命は殺さない。(木の実や種子は独立した命だと考えないのかどうかは知らない)

私が知っている範囲の欧米の似非菜食主義者はその辺がいい加減で、動物を食べなければよしとするのばっかり。それで自画自賛するアホにオーストラリアで会った事があります。また彼はゴキブリや蚊も殺さないと威張るので、私は「道を歩くのにも大変ですね。蟻も踏み潰さないように歩くんでしょ?」と言ったらバツの悪そうな顔をしていましたっけ。

この彼は以前にもあるパーティで私に捕鯨はやめるべきだと話を仕掛けてきたことがあって、彼の論理では知能が高い動物を殺すべきではないとのこと。私にはこの答えは前から用意してあって(笑)、「実は私の息子は障害を持っているんだけれど、生きる価値がないということですね?」と返したことがあります。この時も彼は何も答えずに去っていったっけ。

まぁ、欧米人のこういう倫理観って本当に底が浅いといつも思うわけです。キリスト教徒のくせに何百万人もインディアンを殺したり、オーストラリアで言えばアボリジニを殺しまくって狩猟のターゲットにしたような連中ですからしょうがないのかも。民族浄化をしても良い差別そのものが彼らの文化の根底にあるんですから(ネズミを真ん中に集めて焼き殺すような東京空襲、広島長崎もいまだに是とする文化)。

じゃぁ、日本人はどうかというと、やっぱりおかしいと思うことも多々あるわけです。

かなり前ですが、あるホテルのイベントでマグロの解体ショーがありました。それに出て気がついたのは、そこに来ていた外人たち(オーストラリア人)は、まさに牛の解体でも見るような目で見ていたこと。彼らの反応を見て、なるほどなと思いました。やっぱりおかしいと言えばおかしい。

それと日本人の大好きな生き造り。アジの口や尻尾がピクピクしていると、おーーー、新鮮だと誰しもが喜ぶ。私も大好き。しかしこれもおかしなもんで、牛肉のたたきやユッケを食べるけれど、牛の生き造りは見たくもない。

中国で流行っている店の紹介で、その店では魚が死なない程度に胴体を空揚げにしてしまうというのがあった。それを見て、とんでもないことをするなぁと思った自分はなんなのか。身を切り落とした魚をまた水槽に入れて泳がす姿を見ても板前に拍手を送ろうとは思わないのはなぜ?

おかしなことはいくらでもあって、あるグループが穴に落ちた犬を何時間もかけて助けるわけですよ。で、救助成功!と皆で打ち上げパーティでバーベキュー。牛豚鶏ってどうしてこういう目に合わないとならないのか私はいつも不思議に思います。

他国の食文化に対する思いもケネディと似たようなもんで、犬は食うな、猫も駄目って思いますもんね。こういうのに「やめろ」と言うべきなのか、言っても良いのか、私にはその辺が良くわかりません。ましてや中国には未だに「人間の胎児」を食べる習慣が残っているところもあるようで(検索すると動画も出てきます)、それには文句の一つも言うべきでしょう。では犬は?

私には答えが出せないのですが、殺すならジワジワ殺さずに一気に殺すべきとは思うけれど、その殺し方で殺すことそのものは正当化できませんよねぇ。

自分と違う価値観を変だと思うのは自然だけれど、政府がでてきてあーじゃこうじゃ言うのはおかしい。また他文化を否定するなら、自分も否定されるようなことはすべきじゃないのが道理で、俺は正しいという決め付けには断固反発したいと思います。

またこういう話が出てきたときには自省するチャンスでもあるので、私は特に牛豚鶏、魚類には本当に申し訳ないと思うし、同時に感謝したいと思います。でも面白いのはお米に関しては同じ気持ちが持てるけれど、野菜類には感じないこと。なんでだろ?

日本人の多くは、そこが「いただきます」の精神なんだよと言いますが、なんだかそれも欧米人の言い訳と同じに私には聞こえるんです。命に感謝すればそれで良いのか?残さずに食べればそれで良いのか?それを美しいことのように言うのはなぜ?欧米の文化に比べれば命の重さをわかっているのだろうとは思うのだけれど、では欧米と比べないで自分自身の問題として「いただきます」で済むの?私にとっての「いただきます」は美では決してなくて、やっぱり「恥」の内。最低限やるべきことであって他人、他国に威張れるようなことじゃない。

忘れられないのが昔読んだ半村良のSF小説で、江戸時代に来た宇宙人と江戸の仲間達が旅をするんですよ。で、ある峠を越えたら目の前一面に広がる花の園があった。それを見て「美しい・・・」と江戸時代の日本人は感激するのですが、宇宙人は一人涙を流すんです。「どうしたの?」と聞かれた宇宙人は「なぜこの星ではこれほど醜い命の取り合いをするんだろうか」みたいなことを言う。そして彼の星では全ての命は他の命を犠牲にすることなく生きていると。彼にとって花の園は、残虐な殺し合いばかりの大戦場。

私の気になる視点ってそれに似ていて、ある時期スマップの「世界で一つだけの花」という歌が大流行しましたが、あの歌の解釈も変だと思いました。その一つ一つの花って、他の命を蹴散らし、仲間との熾烈な競争に勝ち残った勝ち組。それなのに、「なぜ一番になりたがる?ナンバー1にならなくて良い」と逆のことを強調している歌でしょ。そのそれぞれの花を美化することより、花屋の店先にも並ぶことのない花の方が私は気になります。そして綺麗に咲くことができなかった花も一生懸命生きていたはずだし、花をつけることもない誰も見向きもしない雑草はどんな生き方をしているんだろうか。みんなどれもナンバーワンになろうと熾烈な戦いを生き残った結果を私達は見ているはず。そして死んでも良い命なんかこの世には一つも存在しないはずなのに、死んでいった命の方がはるかに多い。自然界って本当に無情。

あの歌ってゆとり教育全盛の頃?戦わずともちゃんと生き残れると嘘を教える歌だと思った。

私はあの歌が流行ったときに、そういう表に出てこない、誰も見向きもしない命の尊厳を忘れるな、と同時に戦う限り負けるな、負けたら勝ち組の肥やしになるだけだと子供達と話したのを思い出します。万事にこんな感じで育てましたので、次男坊は積極的に勝ちを取りに行く性格に育ったけれど、長男は私と同じで人生の根本は「悲しみ」であると考えるようになっちゃった。(笑)

あ~~~、イカの生き造りが食べたいなぁ。鯨の尾の身も良いなぁ。最後に食べたのは何十年前だろうか。イルカは食べたことあったかなぁ・・・・。

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