死ぬ時に「資産ゼロで良い」という計算って当たり前?

古いエントリーが表示されているかもしれないので、是非、「投稿日」を確認してください

自分が年寄りだからだと思うのですが、ニュースを見るにしても「老後の生き方」「必要な資産、収入」に関するものが多い。

その中でいつも不思議に思うのは「年金収入年間XXX万円、資産YYYY円だから余裕」だとか、危ないとかそういう記述が非常に多いこと。

この「余裕、危ない」というのは、「収入だけでは足りない」「資産を切り崩す」のが前提で、「最後の資産がプラス」であれば「余裕」であり、「足りなければ危険」という判断基準。

◯ 将来のインフレ、生活の進化がどうなるかは誰にもわからない
◯ 最後はプラマイゼロなら良いのか

この辺が私にはどうにもピピっと理解できないんですよ。

考え方としてはわかるし、マイナスだったら「路頭に迷う」ことを意味するから【プラスじゃないとヤバい】のは当たり前で、でも私には「10年、20年先の支出、収入がどうなるか」なんてさっぱりわからない。予想も出来ない。

予想するとすれば、「将来の世の中の経済事情」「将来の収入、支出」がわからないと計算のしようがないわけで、前に「老後の2000万円問題」が大きく議論された時に【インフレが考慮されていない】【自宅はある】【年金はそこそこの厚生年金】なのが前提になっていることに大きな違和感を感じた。

まぁ「基準となる数字」を予想しなければ将来の何もわからないわけだけれど、「その想定された数字」にどれほどの確実性があるのか。

「今の状態が10年、20年続くという前提」というのも【それしかわからないから】仕方がないのはその通りだけれど、でも「将来のインフレや生活の進化は誰にもわからないから無視」って【予想としては最悪】だと思うし、そもそも【最終的にゼロならオッケイ】というのが私の理解の外。

自分が農家だとして、歳を取ったら「田畑を切り売り」して、最終的には「田畑はゼロでも良い」というのと同じじゃない?

商店、企業を経営していて、「自分の終わりが来た時にはその価値はゼロでも良い」のって当たり前?

「人は裸で生まれきて、裸で死んでいく」

これは事実だけれど、「生まれた時には家族なり政府自治体なりの保護がある」のが普通で、野良猫が親も仲間も何もないところに「ポッと生まれる」わけじゃない。また自分が育つにつれて「家族やコミュニティを助ける」のが普通だし、「死ぬ時には何も持っていけない」のは事実だけれど、それは「何も残さないで良い」という意味じゃないはず。

私達は「有形無形の過去からの贈り物」の中で生きているし、死ぬ時には「有形無形の何かを残す」のが当たり前だと思うし、それと「死ぬ時には持っていけない」のとは関係がないんじゃないですかね。この辺をごちゃまぜにして、「死ぬ時にはプラマイゼロで良い」というのは【支配層が奴隷に言い聞かせる便法】と同じだと思う。

「有形無形の過去からの贈り物」の中で生まれて生きて、「有形無形の未来への贈り物」を遺すから【生まれて生きて死ぬ】というサイクルが続くのは間違いがないはず。

でも今、世の中で語られているのは経済的な面に関しては【プラマイゼロで良い】という考え方が主流。

狩猟生活をしていた「古代」だとしても、「近隣の豊かな自然を遺す」のは【資産を遺す】という意味であって、自分が権利を持つ近隣の動植物を最後には食いつぶして良いとは考えなかったはず。

農耕が始まった時代も同じで、「田畑を遺し、果実や実を収穫できる木々、豊かな裏山を遺した」わけで、それは現代でも同じで、個人商店だろうが中小企業だろうが、あるいは親族が後を継ぐわけでもない大企業にしても「創業者が死ぬ時には精算してプラマイゼロなら良い」と考える人はいないはず。

ところが「個人」の場合は「最後はプラマイゼロで良い」って何?おかしくない?

でも【そう考えるしかない】という【現実がある】のは間違いがない。

これは「古代から同じ」で【後に続く者たちに遺したい】と考えたところで「環境の変化に負ける」のは常に起きたはずで、でも【遺さなくても良いという考え方は無かった】はず。

逆に「裕福だからどんどん消費しよう」という考えも無かったはず。

【出来もしないことを望むな】という考え方が常にあるのが根本的な問題で、「水飲み百姓の3男」でしかないのだから、「学校に行っても意味がない」「都会に出て学び大きくなるなんてことは考えるな」「村や郡、国家のことを考えるのはバカ」という時代もあったはず。

世の中ってどんどん変わって進化してきたけれど、その辺の考え方って「皆が水飲み百姓で貧しかった頃」と何も変わってないと思う。

皆が貧しい水飲み百姓でも「皆が小さな村の村長」になったつもりで「絶対にこの生き方を脱してみせる」と頑張る村々もあったはずで、そこに「発展の芽生えがあった」はずで、それが結果的に豊かな社会を作ったのは間違いがなくて、「挑戦することを放棄」した村々とは大きな差が着いたのだろうと思う。

でも「頑張っているつもり」で【形だけ真似をする】ことをしたところで良くなることはない。

それは今も同じ。

札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭を務めたウィリアム・スミス・クラーク博士が、帰国の際に教え子たちに贈った有名な言葉がある。

“Boys, be ambitious!
Be ambitious not formoney or for selfish aggrandizement,
Not for that evanescentthing which men call fame.
Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”

「少年よ大志を抱け。
それはお金や私欲のためにでなければ、名声という儚いもののためにでもない。
人としてあるべき姿であろうとする大志を抱け」

私は死ぬまでそんな少年であろうと思う。

「このままでは終われない。まだ夢の途中、諦めない・・・」

そんなことを感じる今日このごろ。

「にほんブログ村」のランキングに参加しております。是非、応援のクリックをお願いします。

にほんブログ村 海外生活ブログ マレーシア情報へにほんブログ村 海外生活ブログへにほんブログ村 海外生活ブログ ゴールドコースト情報へ