転載「幹になる言語のレベルに沿って他の言語のレベルが決まる」

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私の友人でもあり、MM2Hのビザサポートをお願いしたペナン在住のリカさんという方がいます。

彼女がブログを持っているのはご存じの方が多いと思いますが、2月14日のエントリーの内容はヒジョ~~~~~~~~~~~~に素晴らしいと思いました。

幹になる言語のレベルに沿って他の言語のレベルが決まる  ← クリック

あまりにも大事な事が書いてあるので、大変失礼ですがこのブログに全部転記させてもらっちゃいます。もし万が一、彼女のブログのログが消えたなんてことになると「世界の損失」だと思いますから。(笑)

最近お友達と話していてとっても頭に残った話がありました。

語学力についてです。

なるほどなぁと思ったのは「幹になる言語のレベルに沿って他の言語のレベルが決まる」ということ。

うちの子ども達を見ているとこのこと、結構頷けます。

息子(15歳)は現在英語で授業する学校に行っています。ま、英語と言ってもマングリッシュですが。それは置いておいて、彼が日本語を話す時は時々言い方が分からず、私が分かる他の言語(マレー語のことが多いです)に置き換えて言いますが、日本語自体のレベルは割と高く、「そんな言い回しも知っているのか~」とわが子ながら驚くことが時々あります。

彼にとっての第四言語である日本語の表現力がそれだけあるということは、英語や中国語(小学校の6年間は中国語教育)、マレー語のほうが得意であろう彼の場合はそれらの語学力の心配はまずないということになるのかな?と思います。まぁ彼の場合は全部同時期に吸収しているので、ちょっと違うかもしれません。

むしろ、娘のケースがこれに当てはまりそうです。

娘(12歳)は小学校1年生から日本人学校で、今では日本語以外の言語は殆ど分からなくなってしまいました。それはそれで危機感があるのですが、日本語の語彙が少ないような気がするのが気になります。他の言語で授業をする学校に行かせてその言語を覚えるのは良いにしても、日本語が中途半端になりはしないかという危惧や、新しい言語で急に難しくなる授業内容に付いていけるのだろうかという不安もあるので、日本人学校の中学部へ進むことになりそうです。

英語やマレー語(特に英語ですが)は自主学習をしないとなぁと思います。こんな環境に住んでいるのに日本語しか分からないだなんて、シャレになりません。

でも、日本語のレベルが8だったとして、後から勉強する言葉のレベルが同レベルになることはあってもそれを上回ることって普通はないのかな?って思います。私達が中学に入って英語を勉強し始めた時も、「日本語では○○と言うのを英語では××と言う」という言葉の覚え方をしましたから、「日本語では○○」を知らない場合は「英語の××」も自分のものに出来ないような気がします。だって意味が分からないんですから。「英語で××という単語を習った。でも日本語訳の意味が分からない。」こういうことは稀だと思います。それが「幹になる言語のレベルに沿って他の言語のレベルが決まる」ということなんだと思います。

自分で表現したいことが表現できないもどかしさ。そういうことが第一言語であってはならないことだと思います。娘の話を聞いていると、何か言いたくてトライするのだけれどもその表現が分からずに最後は「もういいや!」と言うのを止めてしまうことがあるのです。この部分、息子と大きく違います。息子は他の言語(第一、第二、第三言語のどれか)で表現できるのです。

私、よく「すごいね~3ヶ国語もできるんだ?」と言われますが、「できる」ってどういうことなのか。言語で「できる」レベルっていうその基準は人によっていろいろで、私は日本語は「できる」ですが英語やマレー語は生活に困らない程度しかできないと思っています。英語やマレー語を理解しない人から見ると、私が日本語並みに英語やマレー語を喋れると勘違いなさるのかもしれません。

「教える者や周囲の語学力が教わる者に多大な影響を与える。」

学校選びって言葉の問題だけじゃありませんけれど、ウェイトは大きいと思います。
うちの息子はマレーシア人なので(日本人でもありますが)普通に公立のセカンダリーに行っていても構わないと思います。但し彼が将来をマレーシアで過ごすのなら、です。彼の話している英語を聞いて何度驚いたことか。「そんな言い方するんじゃないー!!」と。(汗)

ローカルの教師が教えているインターとは名ばかりの学校で話されている英語もそれとあまり変わりないと思います。

以前、某ローカルインター(と私は呼んでいます)に通う子が学校の同級生と思われる子と話しているのを耳にしたんですが、まるでマレーシア人が話している英語だったのにショックを受けました。その子、日本人なんです。

なので、いらっしゃるのなら入念な準備をなさるべきです。私の知っている方で、1~2年前にいらして学校でテストを受け、人気校ですのでウェイティングリストに名前を載せてもらっていたという方がいらっしゃいます。そうやって、ちゃんとどこででも通じる英語で、ネイティブの先生が授業をする学校に入れてあげて下さい。

そしてもちろん、手抜き授業をしない学校を選んで下さい。昨日の帰り、バスの中で娘と話したんですが、「今の先生(6年生の先生ですね)は見回りに来た時に分からない問題で困っているとやり方をちゃんと教えてくれるけど、×年生の時の先生は見回るだけで教えてくれなかった」と言っていたのが印象的でした。日本人学校でさえそんなです。プリントばかりやらせる授業をしたりという学校もあるようです。そんなこと、学校に行かなくてもできますよね。

ついでと言ってはなんですが、我が家の子どもたちにどうやって日本語を維持させたか書きます。あ、いや、維持じゃないですね。元々知らない言語なんですから。彼らにしてみれば日本語のほうが縁がない言語。

私の息子たちはオーストラリアに渡ってきた時は3歳と1歳でした。今では27歳と24歳。こちらで現地校に通い、それぞれ大学、大学院を出て、私が想像していたより順調にうまく育ってくれました。

日本語に関してはこのブログに書いてきたように、

○ 家では絶対に英語禁止
○ 子供の頃から見せるテレビ、ビデオ、書籍は全て日本語
○ ゲームも日本語
○ 土曜日だけの「日本語補習校」へ小1から中3まで通う
そして大事なのは
○ 日本大好き人間になるように誘導(洗脳)しました (笑)
○ 大好きな趣味を日本語でやらせる(簡単な日本語の情報は与えないのがポイント)

これによって、言わなくても自分で日本語をどんどん吸収していきましたし、普通に日本で育った子とほぼ同じ日本語ができます。書く方は奇しいですが(笑)、読むのは問題がありません。これは日本語をしっかり勉強したというより、日本語の環境の中で生活し、「学校と友達だけは英語圏」みたいな「留学」に近い育ち方をしました。

ですから幼稚園から現地の中にいるのに学校の英語は「中学卒業」まで苦労したようです。なんせ私が宿題なり論文なりの手助けをしていたぐらいですから。(笑)

でも高校になるとかなりレベルが上がりますから私にはどうしようもなく、彼らは自分だけで伸びていきました。日本語の補習校も宿題や漢字の書き取りなどもずーっと続けていましたので彼らの苦労は半端じゃなかったと思います。補習校は中学までですが、その後、古文を自ら学びましたし、「日本人として日本育ちに遅れるのを許せない気持ち」が彼らの中に育ったのは有りがたかった。「俺は海外育ちだからそんなことは知らなくて当然」というのは私も許しませんでしたから。

日本語補習校は低学年はごっそり人数がいますが、高学年になるとどんどん減って、ピラミッド型の人数構成比でした。また彼の友人たちも途中でやめて行く子が多かった。これは現地校の勉強だけでも大変なのと、補習校は土曜日であったが為に結構盛んな部外活動に支障もあったんですね。ですから私立の補習校へ行く子も多かった。

ただ、最近の補習校は以前とまるで違う様子で、どうも中学校でも小学校の教材(3年生の教科書と聞いたような・・・)を使うような事が起きているらしい。そしてハーフの子の率がかなり高い様で「補習校」の考え方がきっと違うのでしょう。かつては永住者だけではなくて駐在組の子女もいましたし、「日本には遅れないようにする」というのを学校も生徒も親もアタリマエのこととして考えていましたが、今はそうではないようです。

我が家の息子たちですが、たまにおかしな日本語の単語を使ったり、読み方を間違えたりしますし、「こたつ」って何?なんてことをいうことがありますから、決して完璧な日本語を習得したわけではありませんが、彼らと話をして「海外育ち」とは多分気がつかないだろうと思います。

彼らが英語で困った話は聞いたことがありませんし、大学、大学院にすんなり(でもないか 笑)進めたのは、リカさんが書いたとおり「日本語の基礎」があったからかもしれないと、今になって思います。でもそこまで当時の私は考えませんでした。ラッキーだったと思います。

でも今でもわからないのは「両方同時にレベルを上げることはできないのかどうか」です。どうなのか自分でいろいろ想像はできますが、それは想像でしか無いのでここには書きません。

ただ日本語に追いつくように伸びていった英語力ですが、いつどこかで逆転しているはずで、それがいつ、どの時期だったのかは私にはわかりません。多分、大学時代ではなかったのではないかと想像しています。大学では家を出て生活していましたし、ここで英語力が大きく伸びたのは間違いがなさそう。ですから「普通の留学生」に限りなく近いと思います。でも「小さい頃から英語には慣れていた」ってことでしょう。

で、今では英語のほうが得意の様です。でも「どちらが得意なんだ?」と聞いてみますと「うーん」と首を傾げていますが、どういう感覚なのかは私には理解できません。

息子たちは二人共、真の意味での「バイリンガル」ではないですが、「両刀使い」ではあると思います。仕事をする上で両方使いますが、敬語も相手によって使い分けることが出来ますし、不便はないようです。

子どもたちの友人の多くは同じように子供の頃からこちらで育っていますが、彼らの話を聞いていますと「日本語が主」です。でも一人でも日本語の苦手なのがいると英語だけで話をしていますし、逆に日本から来たばかりの友人が混ざっていると英語は使わなかったり、「こいつら何人だ?」みたいな感じです。

また長男と一緒に仕事をするにあたって、彼に勉強してもらわないとならないことがたくさんあるのですが、それを「何語でやったほうが良いんだ?」と聞いたことがあります。基礎は書籍から学ぶしかないのですが、日本語か英語がどちらが良いのか聞いてみたわけです。

すると彼の答えは「どちらでも良いよ」でした。専門用語が多く出てくるわけですから、日本語と英語とどちらかに決めたほうが良さそうですが、まぁ、学術的というほど難しいことをするわけではないですから、どちらでもどうにかなると思ったのでしょう。

私としても「どちらでも良い」のですが、というか、片方しかわからないってのはやっぱり情報収集するときに弊害がありますから、両方で進めて行くことにしています。

ま、そういう意味でも「両刀使い」としては問題がなさそうです。でもこれを「バイリンガル」と言っては駄目なんですね。子供がちょっと話せるだけとか、屋台のオヤジが何カ国語話せるから「バイリンガル」だとか「トリリンガル」だなんてのは、親の欲目か、周りのお世辞でしかなくて、そんな程度の言語は下手をすれば「どちらも使い道にならないレベル」だと考える必要があると思います。

もしガイドとか接客業ならそれで十分かもしれませんが、ビジネスの分野で求められる「バイリンガル」ってそういうレベルじゃないんですね。下手なことを言うと「恥をかきます」。

でも「両刀使い」レベルのニーズは高いわけで、やっぱり語学が苦手ってのはお話にならない時代になったと思います。ただそれも「少なくとも一つの言語は完璧」でないと仕事も出来ないんじゃないでしょうか。というか言葉は「出来て当たり前」ですから、それとは別のプロフェッション、つまり「専門性」が問われるわけで、言語が半端だとそもそもその専門性を得ることそのものに「支障がある」ということなのでしょう。もし適当な多言語がいくつか出来る程度で終わったら悲劇だと思います。

私はビジネス言語ってそんなに難しいとは思っていなくて、定型句が多いんですね。そして使う専門用語も決まっていますから、「一つの言語でしっかりわかっていれば大丈夫」だと思うんです。でもしっかりした言語がないと、そのレベルにも達せないということなんでしょう。

難しいのは「弁護士」とかじゃないでしょうかね。両方の言葉がまともにわからないとどちらかの言語でしかややこしい論理の組み立てはできないかもしれない。

そういう意味で、普通の人対人のコミュニケーションに関しては、それこそ小学生でもやっているわけですから、どうにでもなると私は思うわけで、「英語が大事だから留学だ」とか「海外で育てないと」と考える親は「どこかピントがぼけている」と私は思います。

海外で育てる良さは「言語を覚えるためではない」と思っています。

このことを細かく書くと今書いた以上の量になりますのでまたの機会にしますが、「マルチカルチャーの中で生き抜く力を育てる」なんてのもまるっきり的はずれだと思います。

そんなのは「個人の性格」によるもので、海外で育たないと外人たちとうまくやっていけないなんてことは「絶対にあり得ない」んですね。逆を言うと「海外育ちで外人嫌い」なんてのもいるのを忘れてはならないと思います。

親は誰でもトラウマとまではいかなくても欠点もあれば苦手なこともある。そして後悔もあれば「ああすればよかった」「こうすればよかった」「あんなふうにしたかった」なんてことが山のようにありますから、「それを原点に」子供の育て方を考える傾向が多いと思います。

でもそれも「的外れ」なんですね。親の夢、希望、想像でしかない。

これって海外ではなくて国内でも同じでしょ。自分が出来なかったことを子供にさせてやりたいなんて思う親は山のようにいますが、それでうまく行きますか?

ああああ、まだ子供が小さい人たちはこの辺のこともわからないかもですね。

ま、経験すると色々わかりますが、子供が大きくなってから「しまった」と思わないようにするにはどうしたら良いのか。

100年悩んでも答えなんか出ないでしょうが、「常に臨機応変に動ける状態を維持する」ことと、「今の自分はまちがえているかもしれない」と少なくとも「自分を疑うこと」をやめたらアウトだと思います。ましてやどこかの「お気楽な人たち」の話を聞いて「私も~~~~」なんて思ったら最悪です。

これって「ウチはお受験でうまく行って、XXX校に入れたから安心です」みたいなのと全く同じレベル。

 

 
    

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