年末に思う【戦争と平和、そして無関心】

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ネットの時代になって大きく変わったのは【世界中の小さな出来事でも伝わってくる】ということ。

そこには「真実と嘘」が混在していて、またたとえ真実だとしても【それを観察する人によっては嘘になる】わけで、「りんごが木から離れれば、地面に向かって落下する」みたいな絶対に間違いのない事実とは違う。

善悪の判断となればそれはそれはメチャクチャで、「俺は善、お前は悪」という決めつけが世界中に蔓延している。それは個人の家庭内でも同じ。夫婦間、親子間でも同じ。

一瞬の言い争いで終わることもあれば、戦争にまで発展して殺し合いを続ける。そしてそれを見て「シメシメ、うまく行った」と喜ぶ勢力も大きい。個人間の争いでも、それを見ている他人にも「ざまぁみろ、もっとやれ!」とほくそ笑む人たちががいる。

争いごとではなくて「良いことが起きた」にしても、「フン!バカ臭い。失敗すれば良いのに」という人達もいる。それはこういうブログでも同じで、妬みや誹りが大集合だから「余計なことは書かない」傾向がどんどん進む。

これは一般的な社会でも同じで、「人権だの個人情報だの」とほんの些細なことに触れただけでも騒ぎになる。

綺麗になりたいと努力する女性に「綺麗になったね」なんて言おうものなら、周りから「それはセクハラだ。やめろ」と非難される。

面倒くさいことになるから、「何も言わない」「無関心を装う」ようになる。そして気が付かないうちに、本当の無関心になってしまう。

これは友人関係、社内でも同じで、政治や経済、国家の問題でも同じ。どんどん無関心になって、【自分を中心とした半径2メートル】が自分にとって重要な範囲となって、それ以上のことには関心を持たないほうがうまくいく時代。

私みたいにジジーになると「オヤジギャクだ」「昭和だね」なんて言われるのは良い方で、「ハラスメントだ」「明確な他人への攻撃だ」なんて「汚いものを見るような目で見られる」ようになる。そこには笑顔なんかなくて、「存在してはならないもの」という烙印を押される。

昔から日本では「通勤電車は混雑している」のが普通で、あれだけの人数が狭いとこに詰め込まれているのに、そこには「静寂」があって、誰も言葉を発しない。話をすることさえない。「そこでは誰も居ないのと同じような態度を取る」のが普通。まさに「無関心の世界」。

あの世界って異様な世界だと外国人に言われたことは何度もあるし、我が家のオーストラリア育ちの子どもたちが日本に行った時、【日本人はみんな死人みたいだ】と言ったのが忘れられない。

でも私は「そういう風にするのが日本の常識だ」と子どもたちに言ったっけ。

そして今、あの異様な通勤電車の世界が、どんどん表に出て広がっている感じを私は受けているわけです。

そもそも多くの日本人は「他人に迷惑を掛けてはいけない」と育てられるし、何か問題が起きても「内向的になる」のが普通で、自分の考えや言動が「他人の迷惑になるかもしれない」と思えば、【何も発しない】ようになるし、【それがよい社会の基盤となる】ようになってきた。

そういう意味では私はやっぱりネジが外れているのか、そういう考え方をほとんど持っていなくて、子どもたちを教育するときにも【人は迷惑を掛け合って生きるもの。迷惑を掛けてはならないと縮こまって生きるな】と教えてきた。でもその代わり、【迷惑を掛けられてもそれで良しと思え】と。

「人という字は人と人が頼り合う姿を表している」なんて言われることも多かったのに、今の社会は、「人」はそれぞれ一本ずつで成り立って、他人に干渉するな、干渉を受けるなという時代になった。

支える人、支えられる人はその時その時入れ替わるだけのこと。私も子供の時からそして今でも、支え、支えられ生きてきた。

このクリスマスが終わって、年末年始に近づく【新たな年を迎えようとしている】今、フト世の中を見ると、片や戦争をして殺し合っていて、また終わったはず、あるいは大した問題じゃないはずのコロナでドタバタ死人が出ている国もある。そして同じ国の中でも貧しさや寒さに震えて「いつ死んでもおかしくない」ような同胞がいる。

でも自分の半径2メートル以上の出来事には無関心。

自分とは距離があるところで「人が死にそう」だとしても無関心。気がついても見ないふりをする。「殺されそうな人」がいても、【それに関わったらバカを見る】とやっぱり無関心を装う。「えええ~?本当?そんなことがあった?」と気が付かなかったふりをするぐらいのことは誰でもやる。

危険な状態にあるのが自分の家族だった場合は、半径2メートル以上でも気にする。

もし今のウクライナに自分の愛する家族がいたら気が気じゃないはず。でもそれとて「自分に近い家族」だから気になるわけで、会ったことがあるのも思い出せないような2親等、3親等となれば、赤の他人と同じ。

なんだか変だなぁと思うわけです。

そして、自分もまさにそういうふうになっている。

私は地球の裏側で死んでいく子どもたちに涙を流したことは一度もない。これは同じ同胞の日本人でも同じで、大災害や大事故で死人が出ても「うわ~~、大変だ。可愛そう~」と思っても「自分じゃなくてよかった」という気持ちが必ず存在する。

また「家族じゃなくてよかった」【家族だったら一大事】とも思うわけで、それが常識だから「海外でそういう事が起きたとき」にはまずメディアが【日本人の犠牲者がいたかいないか】をまっさきに報道する。

これは日本の常識だけれど、海外の報道を見て「犠牲者に自国民がいたかいないか」を重視する報道を私は見たことがない。

では日本人だけがおかしいのかというとそういうことではなくて、「日本人は素直なだけ」かもしれない。

正直なところ、他人がそういうことをどう考えどう行動するかはどうでも良いというか、それはその人の勝手。

問題は、自分がどうあるべきか。それも私には良くわからないんですよ。

ウクライナの戦争も、私は「ニュースで報道される大筋」だけではなくて、現地の「小さな村々で起きている戦闘」も気になって追っていて、「大筋とは小さな出来事の集積」であると思っているし、「細々としているものを追っていると、大きな動きも見えてくる」のね。

でもそれもまた両方の陣営から情報が出てくるし、当然、そこには嘘や誇張もたくさんあって、【真実は外部に漏らさない】のが戦争の常識ではあるものの、例えば「ヘルソン奪還」「クリミアの大橋が爆破。使用不能」みたいな「ほぼ間違いのない情報」も多い。

その中から「現状を把握する」のは簡単ではないし、戦争とて「綱引き」「相撲」みたいなもので、押したり押されたり、取ったり取られたりが各地で起きているわけで、なかなか大筋は見えてこない。

でも嘘、誇張、そしてプロパガンダの集合体である情報を見ていると、やっぱり見えてくるものがあるような気がするわけです。

そして間違いのないことは「かなり悲惨な状況である」のはウクライナ人、ロシア人にとっても同じ。

特に、ロシア兵の方が悲惨とも言えると私は思っていて、訓練も受けていないような素人が最前線に送り込まれて、命令に背く、逃げるようなことがあれば、「後ろに控えた友軍から撃たれて殺される」ことまで起きている。

「XXXを攻撃しろ」と言われたら行くしか無くて、当然、ウクライナ兵から反撃を受ける。それを後方にいる友軍は観察していて、【ウクライナ軍の動きを得て、そこに砲撃、爆撃を繰り返す】というような、【敵軍の情報得るために、ロシア兵を餌として使う】こともある。

また「突撃命令が出ればそれに従うのみ」で、上の上の方のおエライサンが「XXを奪還しろ」と命令を出せば、無理がわかっていても総攻撃を掛ける。当然、そこでは【死体の山】ができるわけで、流石にその場面が一般的なメディアで報道されることは無いけれど、「死屍累々」「屍の山」「友軍の死体を踏み超えてまた突撃」が行われている証拠写真、映像も出回っている。

ま、それが時代を超えた「戦争の真実」なんだろうとは思うけれど、そうかと思えば、バカンスで有名なタイに押し寄せている外国人は【ロシア人が一番多い】という報道も見た。

今は寒いロシアを離れて、タイで遊ぶ多くのロシア人。

我々外国人がウクライナ戦争に無関心であるのはわかるにしても、戦争をしている当事者のロシア人が、タイのリゾートで遊んでいるのは理解の外。でもそれもまた、歴史的に日本人には考えられないような悲惨な歴史を生き抜いてきたロシア人の「生き方」かもしれないと思ったり。

私は凝り性ですから、ウクライナ戦争のことを知りたいと思って調べだすのだけれど、本当にキリがないのね。そしてまさに「反吐が出る」ような画像、映像にも出くわすし、「人間てこんな恐ろしいことも出来るんだ?」というのを、過去の言い伝えではなくて【現実のもの】として見ると、なんとも言えない無力感に襲われます。

「人間は進化していない」

それどころか「高性能の武器」を手に入れて、今まで以上に人は残忍になっているような。どう考えても「人間は退化しているんじゃないか」としか思えないようなことが起きている。

フト思い出すことは、「日本の1万年以上続いた縄文時代の遺跡から【対人用武器】が一切発掘されない」という事実。当然、「戦闘で殺された遺骨も出てこない」とのこと。

1万年以上もの長い期間、「戦争がなかった」「部落間抗争もなかった」なんてどうしたって信じられないわけで、発掘そして調査にとんでもない大間違いがあるんじゃないかと今でも半信半疑です。

でも「戦いのない時代が一万年も続いた」のは事実かもしれない。

でもそれって、当時の日本人たちが【他のことには無関心でいた】からではないと思うわけです。

嫌なことは見たくもない、知りたくもない、そういう無関心であったとするなら、そんな状況で【勢力を武力で広げようとする存在】があったら、簡単に滅ぼされるはずなのね。でも「大戦闘、殺戮などが行われた証拠は皆無」とのこと。

争いごともなく、他とともに生きるには【他のことに無関心であったらそれは出来えない】わけで、もしかしたら現代人が忘れてしまった、あるいは失ってしまった【高度な精神文明があの時代にはあったのかもしれない】。そんな気がしてならないのです。

今の時代、「9条を守れ」「戦争反対」と声を上げる人たちがいて、そういう人たちは「現実を見ていない」「論理的ではない」「理想主義者」「あまりにも幼稚」いう風に見られるようになってきたけれど、もしかしたら彼らこそが「縄文時代の日本人の後継者なのかもしれない」と思ったり。

自分とは違う考え方を持つ人達を【下に見てしまう】傾向が誰にでもあるけれど、それは「自分には到底理解が及ばない高邁な思想」もそう見えてしまうことがあるのは事実で、それは「地動説」を言い出したガリレオも同じかもしれない。当時、「地球が回っている」と言い出したらどれほどバカにされ軽蔑されたことか。

いつの日か「タイムマシン」が出来たり、「我々と同じ様に時が進むパラレルワールドの存在がはっきりしたり」「宇宙人との遭遇も起きて、人間と交配が始まったり」、そんな時代が来るのかもしれない。

当然、今の私達が持っている常識どころか「科学や宗教さえも根底から揺らぐ」わけで、その時、【戦争?殺し合い?あり得ない】というのが常識になる日がくるのかもね~。

でも今はそれとは逆の方向へ動いている。

「他人の不幸は見ぬふり」どころか「他人の不幸は蜜の味」で、そう思う自分を【隠すのもうまくなっている】のは間違いがないと思う。そしてそれを「個人の権利だ」と【正当化する】。

なおかつ「他人の不幸を利用して」、自分は儲けてもっと太ることを画策する勢力は間違いなく存在する。

そしてそれを後押ししているのが、「世界でどんどん強力になる全体主義」であり、その先鋒は「グローバル主義」。

これは共産主義と同じで、「一つの価値観のもとに皆が集まるべき」というのは高邁な考え方に思えるけれど、それは【独裁主義を認める考え方】であり、「個人の権利を重視する。LGBTQを保護するなど」とは【実は真逆の思想】であることに彼ら自身が気がついていない様子。

でもその考え方は【一神教をバックグラウンドに持つ人達】には常に起こりうることであって、「個性だの人権だの思いやりだの愛だの」言うけれど、それらは「彼らの基準に則っていることが絶対条件」で、【そこから離れた考え方や行動は抹殺すべき対象の異端】と彼らは判断する。

だからいとも簡単に「対立軸」が出来上がる。でもそれを彼らは「当たり前のこと」としか考えておらず、「異端を徹底的に潰さなくてどうするのさ?」と「お互いを認め合うべき」なんて考え方はそこにはない。

それはウクライナ戦争を見ても同じで、「ロシアの都合なんか無視すりゃ良い」という人が大半。悪いやつは悪いのだから、徹底的に潰してしまえば良いと。そして相手も同じことを考えている。

それは「リベラル色が異常に強くなって全体主義にまっしぐらの米国」を見るとよくわかるはず。彼らが高邁な理想を掲げ、それを全面に出せば出すほど、私には矛盾が見えてくるわけです。

たとえば「人はみな平等だ。同じ権利がある」と、【国境も開放し、米国に来たい人は来てください。歓迎します」ということに米国民主党は酔いしれているように私には見えます。「聖域」と呼ばれる【私たちは不法移民でも受け入れます】と宣言した都市があちこちにある。それらのほぼ全部が民主党の支配下。

ところが、それならそこに行こうと実際に違法移民が大勢入ってきたら【緊急事態宣言】を出す都市が出てきたり、収容しきれなくて毎日数千人単位の違法移民者が街に放たれ、彼らが寒さに震えていても知らん顔。

そういう違法移民もいるのだろうというのならまだしも、2022年は推計で200万人以上の違法移民が入ってきてどうにもならない状態。しかしそれで大騒ぎになっているのは「共和党配下の国境にある州や街」で、アメリカ国民全体にアンケートをとると、国民の70%以上が「違法移民は20万人程度じゃないの?」と簡単に思っているという。

ま、それも来年、共和党が取った下院が始動し出せば、そのへんのことはどんどん明るみに出てきて「責任追及」が始まるはず。

そして世の中、善人ばかりじゃないわけで、善人にとってのチャンスは、同時に悪人にとってのチャンスであるわけで、では悪人にはどう対処するかという【理想を具現化するための方法論は持っていない】のね。

こういうバカさって多くのリベラル派に共通のものとして見えると私は思っていて、日本の場合は「外国人にも生活保護の手を差し伸べる」「(日本人の子弟は無視して)外国人留学生には多くの補助金を出す」のも同じ。

そしてそれらの多くは【良いことをしているフリをして、ある特定の利権を守っている】のね。だからアメリカでは「ウォール街や軍産複合体が民主党に着く」。ここで見逃してはならないのは、「自由」を表面に出すけれど、実は彼らは「形成されたピラミッドを維持しようとする」のね。つまり、命令する側と、命令される側を区別し、【その行き来を無くして固定する】ところが大きな問題。でも「命令される側の世界では自由も権利も保証されている」というインチキな世界。まさに【完璧なサファリパークの構築】を目指している。(これに反発したのがトランプ大統領で、全アメリカを敵に回したのと同じ)

違法移民とてアメリカに渡るまでには日数もお金もかかるわけで、誰がそのお金を負担しているのか?

今回ゼレンスキーが突然、アメリカに渡り議会で演説をしたけれど、それには裏があるという。民主党はなんと1兆7千万ドルという200兆円を超える予算をちょうど通そうとしていた。その中には「ウクライナ支援」が入っていた。でもそれは一部分で、左派リベラルが喜ぶ建物を立てたり、団体への支援金がごっそり入っている。でもそれらの予算が単体で通るわけもないので、大きなくくりの中に入れ込んで、【ウクライナの支援を急がなくてはならない】という大宣伝をした。

その予算案は何千ページもある膨大なものなのに、なんとゼレンスキーが訪米した次の日には上院を通過。そのまた次の日は下院も通過。その膨大な予算案に目を通した議員はいなかったはずという論者もいる。

下院を共和党に取られた民主党としては「今のうちにその予算を通す必要があった」。1月になれば下院を牛耳るのは共和党だから。だからゼレンスキーを何が何でも訪米させて「全国民に支援を訴える」事が必要だった。そして「予算を成立させる」。

ゼレンスキーもうまくて、「これはチャリティーではない。自分社会を守るための投資だ」と皆が反対できないような演説をした。

出来すぎじゃん。でもそういうことは「周辺の動き」を見ていないとわからない。

そしてロシアは悪。ウクライナは善という凝り固まった考え方の人たちは、そういう裏の計画に簡単に乗せられてしまう。それどころか反対派を断罪してしまう。そして200兆円もの税金が、ウクライナと【民主党系の利権を持つ人達に渡っていくこと】になる。でも民主党支持者たちは、それを知って「シメシメ、良くやった」と思うのだろうか。

アメリカってオバマ以前からそういう動きがあって、だから絶対に、絶対にトランプを大統領にしてはならないのは当たり前。

イーロン・マスクがツイッターを買収し、内部のメールのやりとり、会議の内容を調べたら、次から次へとFBIがツイッターをコントロールして民主党を助け、共和党、トランプを潰しにかかっていたのが明るみに出てきた。これは現在進行系で、次々とまさかと思うようなことが表に出てきた。でも、それもまた主だったメディアは報道していないという。

アメリカは本当に腐ってしまったと私は思う。

問題はトランプじゃなくて、彼はただの我儘な変人なだけかもしれない。注目すべきは「おかしなアメリカを放置するべきかどうか」であって、俺に任せろと手を上げたのがトランプだっただけかもしれない。でも当然、再びトランプは叩かれるばかりで、民主党を中心とした大勢力は勢いを増すばかり。

バイデンが大統領になった時に、「戦争が始まるかもしれない。民主党は戦争大好きだから」とこのブログに書いたのが忘れられない。

今となれば、戦争が始まるどころか、とんでもない巨額のお金がウクライナ支援の名目で使われている。そして今、それにまた巨額の予算が上乗せされた。これじゃ軍産複合体にしてみれば【この世の春】じゃないんですかね。

だからどうしたってトランプに政権を取らせたくない。絶対に受け入れられない。

そして民主党を見ているとすぐわかるけれど、彼らの理想を推し進めることばかりに一生懸命で、それによって起きる「新たな問題」まで頭が回らない。いや、問題があれば解決すればいいじゃないかと言うのだろうけれど、「解決できていますか?解決できそうですか?」と私は聴きたい。

でもねぇ、正直なところ、何が正しいのかなんて私にはわからないんですよ。

でも革命を起こすが如く、「理想社会を作ることを慌ててはならない」と思っていて、そしてとんでもなく長い時間を掛けて、「皆で合意して作り上げた価値観」は【同じように時間を掛けて変えていく】必要があるはずで、【選挙で勝ったのだから、好きなようにやらせてもらう】というのが正しいとは私は思わない。そもそも「民主主義を絶対のものとする」のも私は馬鹿げていると思っていて、民主主義も共産主義もそれらは「近代の理想論の実験でしかない」と思っています。

でも独裁主義、あるいは選挙、多数決によって許された独裁の効率は良くて、それに走る人たちや国があるのも理解できる。しかし、独裁主義は歴史的に「続かない」ことはすでに証明されていると私は理解しています。

では、どこに私達の答えを見つけることが出来るのか。

これは最近、私が気がついたことなんですが、それは聖徳太子の「十七条憲法」にその答えは示されていたと思うようになりました。

「和を以って貴しとなす」ところから始まっていますが、これこそが何百年もあとになって海外で生まれた「民主主義の原点」であると思っています。

では「和とは何か?」ですが、それは決して「多数決で決めろ」とはなっていない。ここが欧米生まれの民主主義とは違うと私は考えています。

その答えは最後の十七条にある。

これらを読み、理解しようとしていてフト気がつくことは、上にも書いた「9条を守れ、戦争するな、話し合え」という人たち。彼らは最近は劣勢となり「非論理的だ」「現実を無視している」「幼稚だ」と言われるようになってきたけれど、彼らの考え方の底に、聖徳太子の「十七条憲法」を私は感じるということ。

そしてこの聖徳太子の「十七条憲法」も、今の「9条を守れ、戦争する」という流れの原点に、【1万年以上も争いがなかった(と思われる)縄文文化がある】ような気がしてくるわけです。

私には本当に何が正しいのかとかどうあるべきかなんてことはわかりません。

でも今年、2022年に初めて感じた、日本人の源流である縄文文化から聖徳太子へ、そして未だに流れる「異常なほどの平和主義」に【私が今まで気が付かなったことがあるような気がする】わけです。

私は自分でも「保守系」だと思っていますし、「9条を守れ、戦争反対、話し合いで解決しろ」と騒ぐ人たちを、本当に申し訳ないですが、【軽蔑していた】のは間違いがありません。彼らはあまりにも理想主義者で現実を無視し、自分の言葉に酔っているだけで、【それでは絶対に日本は良くならないどころか、日本の危機を呼び寄せる】ぐらいに思っていたんですよ。

でももしかすると、もしかすると、彼らこそ【日本の縄文時代からの平和主義を受け継いで大事にしようとしている【保守】かも知れない】と気になっています。

私が今まで信じてきた「保守思想」こそが、非常に大きな時代の流れの中では「現実に、そして欧米に影響を受けすぎた改革派」なのかもしれない。

そもそも日本の国土に「外国の軍隊を駐留させている」ことからして異常で、今では「核装備」の話まで出てきている。当然、米国に対抗する、あるいは反対するなんて考え方は皆無で、【従属】という言葉は使わずに「歩調を合わせる」とは言うけれど、これは「日本そのものを放棄する考え方」かもしれない。(でも韓国や中国の代弁者のような存在は「日本人にあらず」と思うくらい)

こういう「曖昧な保守思想」に警鐘を鳴らしていたのが、あの入水自殺をした保守言論人として有名な【西部邁氏】かもしれないと思うし、私が彼に惹かれていたのは「日本の保守思想」の中にある「まやかし」にうっすら気がついていたからかもしれない。

また今になって気になるのが「三島由紀夫氏」でもあって、私は彼の思想を理解はしていなかったけれど、彼の言葉の端々に「これが真実だろう」と思うことは何度もあったし、これから、遅まきながら改めて三島由紀夫氏を研究してみたいと思ったり。

そして彼の源流にあるのが、聖徳太子の「十七条憲法」であり、そしてそれよりも古い【縄文時代】に日本人の大本があるような気がしているわけです。でも当然、「争いごとさえなければ良い」と言ってるわけではなくて、【守るべきものは守れ】と。

そしてその縄文時代も終わりを告げる時が来る。そして「武器や戦闘で死んだ遺骨も発掘される」様になる。ここで重要なことは、【半島から渡ってきた弥生人に縄文人は駆逐されたと言うことはない】という点。また「半島からの人々から、文明的に劣っていた縄文人に文明開化が起きた」というのも史実とは違う。ここには日本人が【戦後作り上げた自虐史観と同じ流れを持つ】のと同じ根っこがあるのを私たちは知るべきで、そして縄文時代がまさに「原始時代」であるが如く言われていることも間違い。これに関しては日本より外国の学者たちが「縄文時代には高度な文明があった」と再評価を始めているという事実がある。

でも弥生時代に入ってから大きな変化が起きたのは間違いがない。

私としては、縄文人が弥生人たちとどう向き合って新時代を作っていったのか。私は【日本史でいちばん重要な部分はここだ】と思っています。平和を望んだけれど、それは簡単には行かないようになったのが弥生時代。生活も質素になり、土器も優雅なものがなくなった。これはまさに「戦国時代に入ったから」ではないかと言われている。

でもそれは「弥生人との戦い」を意味しているわけではなくて、【生きることに精一杯だった縄文人が「冨を持つようになった」ことが原因】かもしれない。簡単に言えば「農業が発展し、長期間備蓄できる【穀物】を栽培するようになってから【冨】ができた」。つまり「持つもの、持たざるもの」の差が出てきて、そして「冨が権力と結びつく」のは今の時代と同じで、「戦いが増えていった」のかもですね。

もし弥生人が「戦闘集団」だとしても、彼らはどうやって異文化、違う価値観を受け入れて共存の道を歩いていったのか。【戦いのない世界を作るために戦う】ことを縄文人も始めたのかもしれない。ここのところを深掘りしてみたいと思っています。

さて2022年ももうすぐ終わり、新たな年となる。

経済的にも政治的にも、そして「世界の価値観が大きく変わりつつある」のを私は感じるし、世界のリーダーたちは「グレートリセットだ」なんて決定している(ダボス会議)し、私は【大きな地殻変動が起きている】のを感じています。でも何がどう変わるのか、具体的なことはまだ闇の中。

所詮、私は「流れに身を任せて生きていく」ことしか出来ませんが、新しい年を迎えるととうとう70歳になります。

これが本当に自分では信じられなくて、中身は30~40代の感覚だし、精神的にはまだまだ子供の自分を感じるわけで、鏡に映る自分を見ると、【嘘だろ?】としか思えない年老いて腐りかけたようなジジーが見えるだけ。

でもま、それは仕方がないことで、でも【歳を重ねてきたからわかることもある】わけで、私の終わりも見えてきた今、日本人として生まれ、日本人として育ち、そして「日本人として死ぬために」は【自分の中での日本人としての本質を知っておかなくてはならない】ような気がするわけです。

今の私の脳みそでは、ますます変化が早く大きくなった今の時代には追いつけないのがよくわかるし、自覚があります。

だからこそ、これからは年老いた自分にできそうな、年老いたから理解できることがありそうな、【過去に向かって目を向けてみよう】と思うようになりました。

聖徳太子の「十七条憲法」の本質は何なのか。そしてもっと遡って「縄文文化とは」というところの「精神的な部分」に注目しながら調べて理解をしたいと思っています。

「古事記」「日本書紀」を【史実というより精神的、あるいは価値観の変遷】に重きをおいて再び読んでみたいと思っています。

そして調べるのも簡単ではない、「神代の時代」と言われるような時代のことも。神話が一体「何を象徴しているのか」を私は知りたい。

私達日本人には非常に身近である【神道】も、私は深く掘り下げたことはないし、でもそこに「隠されているもの」にはずーっと興味を持っていたし、誰しもが知っている「言霊(ことだま)」に関しても、【知る】のではなくて【理解したい】と思っています。

そして「カタカムナ」です。これの説明をうまく出来ませんが、この古文書(?)に非常に惹かれるものがあります。日本人の原点がそこにあるような気もしますし、それは「思想ではない」のであって、【精神と肉体】を結びつけているもの、人間の正体、そんなものを感じることが出来るような気がしています。

こればかりは、自分の中でどういう進捗があったかをブログに書いてもしょうがないし、他人にわかってもらいたいなんてことも、発信したいこともなくて、全ては「私自身の内面的なもの」なので、これらに関して深くブログには書くことはないと思います。

でも「大発見した~~!」と思ったら書くかも。(笑)

ここまでこの日記を読む変わり者も少ないとは思いますが・・。

皆様、2022年も、こんな偏屈親父のブログに来ていただきまして本当にありがとうございます。

2023年は、皆様にとっても幸せで実り多き年でありますよう、心から願っています。

そしてやっぱり、世界が平和でありますように・・・・。世界中の人全てが「生まれてきてよかった」と心底思える世界でありますように・・・。

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