グアムウルルン物語 その7

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グアムウルルン物語 その7

私はグアムのことや、グアメニアンの思考傾向などわかったつもりでいたが、オバーチャンをグアムに呼ぶ事に難色を示す彼らを理解できなかった。誰もオバーチャンを最後まで面倒見ろといっているわけでもなし、たった一人の肉親だったフジカワの墓参りぐらいやらせてやってもいいじゃないかと思った。それとも居座られるのが怖いのか。墓参りに対する考え方が違うのか。単なるケチなのか。想像もつかなかった。

当時私は19歳であったが、友達も増え、遊びも覚え、酒を飲む機会も増え、いつも金欠病であった。もちろん学生なので、それで当たり前なのだが、いくらバイトをしてもお金が足らないことに苛立ちがあった。グアムに行きたくてもそんな金などあるはずもなく、どうにかお金を稼ぎたいと思っていた。そんな時に、友人が面白い話しがある、ちょっと話しだけでも聞いてみないかと誘われ説明会に行った。良くあるアレである。マルチ。ただ、その当時はマルチレベルシステムという言葉も知らず、ネズミ講というのが巷で噂になっているのを知っていたが、それが似たような物であるということも知らなかった。しかし、説明会でこれはやる価値あり、とその場で契約しマルチの世界に入ることになった。

ちょっと話がそれるがこれも決してグアムと関係ない話でもなく、私の生き方にリンクしているので書いておこうと思う。

私の母は商人、父は小さいながらも貿易会社を経営していたので、自分も将来は独立して稼ぐ形になるだろうと何の疑いもなく考えていた。また、この当時からお金を儲けるということはリスクを取ることだという当たり前の理屈は親から教えられていたし、彼らを見ていてわかっていた。だから巷で言われているマルチのリスクはなんの抵抗もなく受け容れることが出来た。そしてそれに没頭することになる。一生懸命やったので、1ヶ月後には記録を作った。販売店には4段階あるのだが、一番下から一番上まで登る日数の最短記録、そして一番上の総卸元としての19歳の最年少記録を作った。お金が面白いように入ってきた。当時は連鎖販売規制法もなく、このマルチの実体は完全なネズミ講で、入会した時に支払うお金が動くだけのとんでもないシステムで、商品は倉庫に山積み。それを販売するという事は皆無であった。初めて時間給以外のお金を自分で稼いだ喜びは大きかったが、この頃に金使いが荒いという私の性格が完璧なほどに形成されたと思う。当時、大卒の初任給が4万程度であったのに、私の月収はそれの20-30倍はあった。お金が天から降ってくるような錯覚に陥り気が狂ったように金を使った。ちなみに私と一緒に事務所を借りていた先輩格の24歳の青年は私の10倍は稼いでいた。今から35年以上前に月収1000万越えという異常な事が起き、マルチが注目されだした時代だった。

グアムを知ってグアムに行きたい、行こうと思うこと、それすなわちお金が必要だということで、こういうマルチの世界に飛び込む切っ掛けはグアムであったとも言えるかもしれない。普通の学生生活をしていれば金の亡者になる必要はなかったわけだから。

実はこのマルチに手を出したというのがこれまた私の一生を決めてしまうほどのインパクトがあった。マルチはマルチで悪い面がいくらでもあるのと同時に、販売と販路拡張を同時に行うというハイブリッドシステムとして、商売の基本の延長線上にある面白さがあると思っていた。これは普通の商売でも販売量を増やし、販路を広げ、代理店を増やしと、基本的な動きは全く同じだと今でも思う。ただ、マルチには大きな大きな問題がある。それは個人レベルの仕事であるからして友人を引き込むことになるケースが多いということ。これが普通のビジネスであるならばリスクをわかった上で契約通りに物事を進めれば良いのだけれど、マルチの場合は友人知人の輪を利用するのが普通で、あとでややこしいことになる。正直なところ私はこれで友達も出来たがそれ以上の多くの友人をなくした。でもこういうビジネスの面白さを知ると、そもそもサラリーマンを最初からやる気が無かった私としてはこういう世界にドップリ浸かる下地があったのかもしれないと思う。その後、様々なマルチに手を出し、紆余曲折がありながらも数年後にはマルチの虫と言われるぐらい、マルチの専門家になってしまった。私としてはサラリーマンではなく自分でリスクを取って自分で稼ぐのが当たり前で、自分はそういう世界で生きていこうと心に決めたのもこの時期だった。また、動く金の単位が大きいので、金銭感覚が麻痺してしまうという最悪の状態にもなってしまった。

しかしこんなことが長く続くわけもなく、社会に出てから数年後、実はこれで墓穴を掘ることになる。全てを失い、失意のまままたグアムへ渡る日が来た。自己嫌悪に陥っていたし、世の中の怖さ、自分には越えられそうもない大きな壁を感じて、将来の希望も失ってグアムでボーッと過ごしていた時期がある。でもそんな私に彼らは言った。いつまでも好きなだけグアムに居ろと。お前一人ぐらい我々が食わすことに全く問題がないと。そして仕事をしたいのなら探してきてやると言って、当時タモン湾の一番西にあるヒルトンホテルのフロントの仕事を探してきてくれた。今思えばビザはどうするのか、彼らが取ってくれるのかもわからなかったが、給料は月に1000ドル。土日や夜勤をうまく入れると1500ドルにはなると言われた。当時の為替は1ドル305円ぐらいで、その換算だと毎月30万から45万。日本の私の年代の一般的給料の5,6倍だった。

ところが私はそれを受けたら自分が終わるような気がした。負け犬の烙印を押されてそれを引きずって生きていくわけには行かないと、この話が切っ掛けでまた日本に帰ってやり直す意欲が湧いてきた。自由に生きるのは基本だけれど、負け犬として生きるのはとんでもないし、金に対する執着心も半端でなく強かった。そして日本に帰ってリベンジ。またゼロからのやり直しで復活劇が始まる。ただそれからはマルチからは一切足を洗い、しかし組織を使う販売戦略という点で共通点がある仕事をした。それが今の私の基礎となったわけでかつてマルチをやっていた経験が生きた。しかしこれまたイバラの道でまたその後に何度も挫折を味わうことになるのだけれど、私の生きる方向は決まった。ちなみにその後は完全なアンチマルチ派、マルチは絶対にやるべきではないという考え方を持つようになった。今ではどんなに良い商品でもマルチだった場合には絶対に買わない主義。マルチにはどうしても人間の弱さ、狡さ、汚さが見えて来てそれに耐えられない。

どちらにしてもグアムがなければマルチにも手を出さなかったろうし、グアムを知らなければ私の人生はまるで違った物になったろうということ。人生って何が切っ掛けで動いていくのか全くわからない。面白いと思う。ただ今思うのは、私の原点はグアムだったのは間違いがないのだけれど、ではグアムを知らなかったら本当にまるで違うようになっていたのかどうか、そこが良くわからない。グアムによって私は変わったけれど、グアムとは私にとってただのトリガーだっただけで、グアムがなくても何かの切っ掛けでこういう方向へ動くようになっていたのかもわからない。人生って本当に面白いと思う。そして不可思議。

話しはそれたが、そういう事情になってきたので、オバーチャンをグアムに私が連れていってやることも出来るようになった。そして、オバーチャンに聞くと行くというので行くことにした。でも私は嬉しくなかった。私が連れて行くのは日本男児の意地でしかなく、やっぱりグアムの彼らにお金も出してもらってオバーチャンを受け容れて欲しかった。でも、フジカワが生きていたらどうしただろうか。喜んで彼女を呼んだはず。その代りを同胞の私がやるだけのことなのだと思うようにした。フジカワが間違いなく感じていたはずの無念さ、悔しさは痛いほど理解できるし、それを私が絶対に晴らしてやろうと思った。しかし逆にグアムの連中の優しさは上辺のその時だけの気まぐれの優しさだと思うようにもなっていた。

オバーチャンは確か当時78才であったと思う。いや83歳だったろうか。もう忘れてしまった。パスポートの取得も一緒に着いていって手伝ったが、年齢のせいでアメリカの観光ビザが取れないかもしれないと旅行会社に言われた。そこで、個人で申請するのではなくて、3泊4日のツアーの一員ということにして団体でまとめて申請するのに紛れ込ませてもらったのを覚えている。正直言って心配ではあった。オバーチャンは気こそ強く、怖いくらいだが、体はかなり弱っていた。飛行機の中、あるいはグアムへ行ってどうにかなったらどうしようかと思った。でも、私が行こうと言い出した言い出しっぺであるけれど、オバーチャンが行きたいというのだから、何かあってもオバーチャンの責任だし、グアムの連中がどうにかするだろうと私は考えることにした。私の立場としてはフジカワの墓参りを最優先と考えた。

グアムへオバーチャンを連れて行くとグアムへ電話したら、皆凄く喜んでくれた。単純である。彼らの唯一の日系のルーツでもあるオバーチャンを渡航させる金をケチるくせに、会えるとなったら大はしゃぎだった。当日、オバーチャンに取って生まれて初めての飛行機も心配することも無く、グアムへと順調に近づいていった。オバーチャンは外ばかり見ている。一体何を考えていたのだろう。あの威勢のいいオバーチャンはずーっと静かだった。私もあえて聞く事はしなかった。着陸体勢に入る。旋回している時に空港が見えた。結構人が集まっている。私の時もそうであったけれど、かなりの数の出迎えが来ているであろう事は想像できた。着陸。そして入国、通関。やっと待合室に出たときには、予想はしていたものの、いささかびっくりした。楽隊こそいなかったが、雰囲気はまさに賓客の出迎えであった。総勢200人はいただろう。オバーチャンと同じ血が流れている血縁だけでも70人弱いるわけで、それらの伴侶、親戚友人を入れれば200という数字は決して多くはないのかもしれない。しかし空港はオバーチャンを出迎えの人でごったがえしていてグアムの暑さもあったが半端でなくムンムンしていたのを覚えている。そして歓声、拍手、キス、花束。やっぱり連れてきて良かったと思った。そしてそのまま民族の大移動みたいに、リンケットの家に向かった。アイダの家、つまりフジカワの長男のトニーの家はヤシの葉葺きのニッパハウスで小さく、オバーチャンや私が泊まれる大きさではない。そこで長女のリンケット宅が我らの宿となった。そしていつもの大パーティー。飲めや歌えや、大騒ぎ。さすがにこの日は食べ物が違った。豚の丸焼きもよほどの事が無いとやらないが、この日は豚の丸焼きプラス、非常に高価で、しかし彼らの大好きなコウモリが山のようにあった。あれだけのコウモリの数を見たのはあれが最初で最後だった。かなり彼らも入れ込んでいるのがわかった。でも不思議だった。この大パーティーの経費は誰が出すのか知らないが、大変な額だと思う。この金額は出せるのに、オバーチャンを呼ぶ為の飛行機代をケチる彼らをどうしても理解できなかった。

パーティーはいつもと違って、長く続いた。私はオバーチャンの付き添い兼通訳。オバーチャンはというと、もちろんそのパーティーの中心人物で、大スターである。そしてオバーチャンはいい気なもんで威張っていた。大きな声で江戸っ子のべらんめい口調で誰にでも話し掛けている。グアムの連中は皆それぞれ似たような事を聞くので、私は通訳しなくてはならないものの、オバーチャンにはいちいち聞かずに彼らに同じ事をそれぞれに説明した。ところがオバーチャンからすると私が中心に見えるのだろう、時々怒り出すのが面白かった。私はオバーチャンに気を使い、グアムの連中に気を使い、疲れ果ててしまった。あれだけ英語を何時間もしゃべり続けたのは生まれて初めてかもしれない。早くどこかのホテルのバーにでも逃げたかった。

次の日も朝から大変かと思いきや、意外と静かでホッとした。月曜日で皆仕事、あるいは学校に出ている。朝寝坊の私はゆっくりしたかったが、年寄りは朝が早い。リンケットはいつも暗いうちから起きている(その代わり昼寝をする)。オバーチャンも早かった。ただ、リンケットが片言であるが日本語を話すので、オバーチャンのいい話し相手になった。私の用意が出来るのを待って、オバーチャン、リンケット、そしてフジカワの妻であるナナと墓参りに行った。私は関係者ではないので、ちょっと離れていたが、オバーチャンがどういう反応をするのか見ていた。私は大袈裟な涙の墓参りを期待していたのだが、そうでもなく、普通の墓参りだった。それはそれでいいのだけど、この一瞬の為に私は尽力してきたつもりだったから、もうちょっと盛り上がりが欲しかったのは本音。

フジカワの妹であるオバーチャンの話しはこの辺で終りにしたい。フジカワの妹を探し出してグアムへ連れて行き、そして墓参りをさせることが出来たので、私の一つの仕事は終わりである。この後、私はオバーチャン一人残し、日本へ帰った。本当はそういう予定ではなかったのだけど、オバーチャンも皆もそれを望んだから。でも、後で誰がオバーチャンを日本へ連れて帰るのか?その質問に彼らはいとも簡単に答えた。私、もちろん私しかいない。正直言って、面白くなかった。なんで私がそこまでやらなくてはならないのだろう。でもこの旅行の言い出しっぺは私であったし、最後までやらざるを得なかった。4週間後またグアムへ渡り、オバーチャンを連れて帰った。この4週間に何があったか分からないが、グアムの連中はオバーチャンを引き取って面倒みたいとは絶対に言わなかったし、オバーチャンも早く帰りたかったと私に言った。そしてその後、日本で何度かオバーチャンの家に遊びに行ったりもしたけれど、そしてグアムにはこの後、何十回と行くことになるのだけれど、オバーチャンの話しは出なくなり、そして私も段々と忘れていった。あれから35年は経っているわけで、彼女はもうこの世にいないはず。でも私は彼女を気にかけることはなかった。それも不思議だ。きっと彼女は一人寂しく死んでいったに違いないのに。

私は不思議な力って存在すると思うのだけれど、今改めて思い出してもフジカワの何らかの力が働いたような気がしてしょうがない。まるで関係ない私がフジカワファミリーと知り合い、彼らの中に溶け込み、オバーチャンを探すことになって、結局見付けて、なおかつオバーチャンを連れていくなんて息巻いたのも、結局そうなるようになんらかの力が働いたような気がする。皆がそれぞれコマとしての役割を持っていたようだ。オバーチャンのグアム訪問が終わった後は、すーーっとオバーチャンの話題さえでなくなり、また私自身も全く気にならないというのが変に感じる。もうお前達の役目は終わったとフジカワに言われているような気がしてならない。きっとあの墓参りで全ては終わったのだろうと思う。そしてフジカワは気になる妹に会えてきっと喜んでいると思う。私にマルチの道を見せ、結果的にそれが切っ掛けで墓参りも実現したし私の生きる方向が決まったのももしかしたらフジカワの計らいかもしれないなんて気がしてくる。

とにかくこの事がきっかけで私はグアムの連中とより一層強い繋がりができた。旅費をなぜ彼らが出したがらなかったかという答えも後でわかったが、それは意外に簡単であった。ケチ。これだけである。では、なぜ自分たちが日本へ行ったり、パーティーには大金を惜しみ無く使うのかということだが、これまた答えは簡単。そのお金を使う対象に自分が入っているかどうかということなのである。オバーチャンが来ればそりゃ嬉しいが、来るのはオバーチャンであって、自分が行ったり来たりするわけではない。だからその飛行機代は払わない。でもパーティーには自分も参加するわけだから払うという考え。単純明快であった。とにかくこの一件、つまり私がオバーチャンを見つけ、私がオバーチャンを連れて行ったということで、彼らは私をファミリーの一員だという認識を強く持ったようだ。もともと心が開いている人々だったが、その後はもっと繋がりが深くなっていった。その代わり、誰も私に気を使わなくなってきたし、飛行場への送り迎えも無くなった。その後は私が行っても帰っても騒ぎにはならず、ああ来たの?帰るの?と気楽なもんである。私は私で態度も大きくなって、言いたい事を平気で言うようになったし、彼らの家にいつでも当たり前の顔をして居候していた。

まぁしかし、フジカワの霊に呼ばれようがそうじゃあるまいが、私がグアムを知り、グアムに行くためにマルチに手を出し、今の私がそれの延長線上にあるというのが非常に面白い。グアムに行かなかったら、アイダと会わなかったら、今の私も無いと言うことになる。どちらにしろ、この後、彼らとの付き合いはどんどん深くなり、私は休みさえあれば何度も何度もグアムへ渡り、かなり後にはグアムで会社を興すことになる。グアムが私に取って一番心の休まる、そして楽しい場所となった。そして日本では当たり前の、自分を殺して生きることは絶対にしまいと心に誓った。これが私が今生意気な理由。あの小心で引っ込み思案の子どもがこんなズーズーしいオヤジになるなんて誰が想像しただろうか。これもあれもグアムが切っ掛けだと私は思う。

自分は自分、私はそれを維持して生きていきたいし、それがグアムでは当たり前だと知った。しかしやっぱりそれは日本では出来なかった。世の中に合わせて生きろと言う無言の強大なプレッシャーに私は耐えられない。だから私は今オーストラリアにいる。

それと余談だが、グアムの人達を知り彼らと付き合う内に私には一つの特技が出来た。人と会うとその人の心が何パーセント開いているのか一瞬にわかるようになった。これは面白い現象でチャットをしていても掲示板を読んでいてもそれが瞬時にわかる。いや、わかるというよりそれを何よりも重要視するようになったと言うべきか。どんなに偉い人、凄い人でも心が開いていない人はいくらでもいる。多くの人達は心をホンのちょっとだけ開いて様子を見ながら自分を小出しにする。私の付き合う人の選び方だけれど、この心の開き具合で選ぶようになった。心の開いていない人には付き合う価値を感じないし、心が閉じた状態の言葉や行動は全てに重みがなくウソだと私は感じる。そういう意味で私の友人は心が全開の人が多い。いわゆる世の中ではバカと言われる人たち。その代表格はうちのヨメさんかな。バカ丸出し、生まれたまんま。(笑)

そういうバカに対する世の中の風当たりって結構強くて、って日本の話ね。いや、海外でも日本人の村社会では同じ。でも私はこのバカを一生通して行こうと思う。駄目ならグアムに逃げようか。(笑)

とりあえず、グアムウルルン物語はここで終わり。いや、休憩かな?

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