世界で一番日本に友好的な国はどこ?

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日本はご近所さんに恵まれていないというか、まぁご近所さんとは仲が悪いのが普通なんでしょうが、世界で一番日本に友好的な国はどこだと思います?

私はパラオ共和国だと思っています。

まず、パラオ共和国の国旗ですが、こんな感じでどこかで見たことがあるような意匠(笑)。海に浮かぶ月。

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なぜこのような意匠なのかを想像するのは勝手ですが、まぁ、パラオはサイパンと同じく日本の委任統治領でした。当然、日本は搾取することなく日本的な統治の仕方をしたと思うのですが、日本を大好きな人が非常に多い国。こういう言い方をするのは失礼だけれど、近代文明をもたらし発展したのは日本のおかげだと思っている人も多く、日本時代を懐かしむ人も少なくなく、近年は知りませんが、年寄りは日本語を話すし、自分は「日本の学校を出た」と言う人もいる。

私がグアムに入り浸っていた若いころ、結構パラオからグアムに出稼ぎに来ていた人が多かったんです。どこでどう知り合ったのか忘れましたが、あるパラオ出身の老婆と友人になり、昔話を良く聞かせてもらいました。その話の内容はそれこそ日本の田舎のオバーチャンと話している感じで、やっぱりグアムとは違うんですね。グアムはアメリカナイズされていますし、日本に侵略されたと思う人もそれなりにいて、やっぱり短い期間ながら日本領だったという感じは皆無。ところがパラオは日本人と話をしているような錯覚があるんです。見た目はいわゆる東アジアの黄色人種じゃなくて、またポリネシア系でもないし、スペインと混ざっているフィリピンやマイクロネシア系とも違って、もう少し体も大きく色が濃い、ヤップとかトラックの人たちと同じだと思います。つまり見た目は結構違和感がある。それなのに日本人と話しているような気になるから非常に不思議な人たちという感覚を持っていました。

パラオって半端じゃなく綺麗な南洋の楽園でグアムみたいに発展していないんですね。そこがまたパラオが美しく保たれている理由だと思いますが、私もパラオは大好きで、いつかのんびりとロングステイしてみたい。オーストラリアを出たら必ず行きたい国のトップ5の一つです。

でも私が若いころ、戦争当時の話は避けていました。あれほど友好的で日本を大好きだという人たちから、実は・・・・なんて話も聞きたくありませんでしたから。また自分から調べようとも思わなかったんです。ただいつ頃のことでしょうか。インターネットが出来てからですから10年ぐらい前かなぁ。ユーチューブで偶然パラオで戦争当時、何があったかの動画を見ました。それは有名なペリリュー島の戦い。

まずパラオの位置関係ですが、こういう場所。

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どうしたってアメリカが日本に反撃をするのに避けては通れない最重要拠点の一つ。まずアメリカ軍はもっと東にあるマーシャル群島から西へ向かいフィリピンを奪還するにもこのパラオはその線状にありますし、そして日本を爆撃するにはグアム・サイパンに陣取る必要がありますから順序としてはまずパラオを取りに来る。そして日本上陸するにはその後、硫黄島へと繋がっていくわけで、日本としてはどうしても死守しなくてはならない場所。ってまぁ、死守は無理にしても時間稼ぎをしないとならない。

ですからかなりの日本軍が配置され、「死守せよ」という命令が出た。ところが日本の思惑ははずれてアメリカ軍はまずサイパンを取りに行ったんですね。でもパラオの重要度がなくなるわけでもなく、このサイパンの後、アメリカ軍はパラオに向かい、ペリリュー島での大激戦が始まる。

ではそのペリリュー島ってどこにあるのか。パラオの南端の小さな小さな円周4キロぐらいしか無い、本当に小さな島。ここに約10000人の日本軍が立てこもりました。

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こんな小さな島にどうやって1万人もの兵士が立てこもるのか。珊瑚礁の島なのにそんな場所があるのか。そこがまず疑問なんですが、なんと日本軍はサンゴ礁の島に坑道を張り巡らせてそこに立てこもった。まさに蟻、あるいは蟹みたいなものです。これは硫黄島でも同じですが、当時の日本軍が良くやる作戦だったのかもしれません。

ま、こんな小さな島ですからすぐに決着は付きそうなものですが、これが延々3ヶ月も続いたそうです。日本軍は神出鬼没でアメリカ軍にもかなりの被害が出て、2,3日で戦闘は終了すると言っていた司令官は解任。でもま結果的には玉砕。

ただこの縦横無尽に張り巡らされた陣地もかなりのものだったのでしょう。戦闘終了後も何もなく爆撃や砲撃、ナパーム弾、火炎放射器などで丸裸になった小さなこの島に隠れて生き延びた日本兵が35名。彼らが投降してきたのは終戦後2年もたった1947年というから驚きです。

私が感動をしたのは実はこの戦闘そのものの話じゃなくて、当時ペリリュー島に兵を移し、そこを死守するとなった時のパラオ住民と日本軍との間で起きたこと。

日本統治時代も長く、日本人と島民との関係もうまく行っていたのでしょう。ですのでこの最後の闘いの時に多くの島民が日本人とともに戦うつもりでペリリュー島に渡ったらしいのです。しかし、彼らが日本軍隊長に「我々も一緒に戦わせて欲しい」と願い出た時、その隊長はなんと

「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」

と怒鳴りつけて追い返したというのです。これを聞いた島民は落胆し、自分たちは騙されていた、友情なんかなかったのだと思いつつパラオ本島に船で向かった時、フト、ペリリュー島を振り返ってみた。すると、なんと海岸に多くの日本軍兵士が出ていて、皆が自分たちに向かって大きく手を振っているのを見つけた。そこで彼らは初めて気がついた。自分たちを巻き込まず、守るために隊長はああいう風に言ったのだと。

私はこの話を聞いた時に、涙が出て止まりませんでした。

グアム当時に知り合ったパラオ人は皆日本語がペラペラで日本人みたいで、そして若い私を本当に可愛がってくたし、日本を大好きだと言ってくれた。彼らがそうであるのはやっぱり日本の統治が素晴らしかったのと、こういう(事実はわからないものの)美談というかお互い想い合う気持ちが本当にあったのだろうと思ったから。

ペリリュー島にはペリリュー神社があり、その建設ですが住民が協力して作られたと。また戦後はアメリカが統治をするのですが、日本とは違って、アメリカはパラオの産業育成など考えず、福祉政策を行ったのみとのこと。つまり金だけ出したってことでしょう。これはグアムでも聞いた話で、日本に原爆を積んで出撃したB29はテニアン島から飛んだわけですが、テニアンにも住民はいるのですがアメリカは金を出すだけだと。

またパラオでは日本の非核三原則を素晴らしいと思ったのでしょう。パラオは「非核憲法」を住民投票で決めたのですが、アメリカの圧力によって高等裁判所は無効を宣言。産業育成もせず、金だけだして統治を続けたアメリカも冷戦後はパラオの利用価値がなくなり、アメリカもパラオの独立を認め、国連の委任統治から外れて独立。その時に制定されたのが、上に出したどこかで見たような気がする国旗。(笑)

私のグアム時代、どうしてあのパラオ人達が私に優しかったのか、なぜ日本、日本人が好きだというのか、こんな歴史を知って初めてわかったような気がします。

当時知り合った老婆に「日本の食べ物では何が一番好き?」と聞いたところ「スジコ」だとはっきり言いました。あんな昔の南洋のど真ん中で、日本人がスジコを持ち込んでいたことにもびっくりしましたが、その老婆が「スジコ」という言葉を覚えていることにもびっくりしました。当時のグアムには日本食材店がありましたが、イクラもなければスジコなんて無いわけで、どうにか取り寄せが出来ないか店に頼み、その老婆にスジコをプレゼントしたことがあります。老婆は涙こそ流しませんでしたが、私に何度も何度も礼を言いながら、美味しそうに食べていましたっけ。

その老婆は私にお礼をしたいというのですが、老婆に何をしてもらいたいこともなく、お礼はいらないと言ったのですが、では・・・と老婆が話しだしたこと。

パラオには大昔から伝わる秘技、秘薬があるそうです。ま、呪術師のお祈り、薬みたいなものでしょうが、「好きな人を自分に向かせる事ができる」と言うんです(笑)。でも当時は私は婚約していましたし、婚約中のヨメサンをグアムに連れて行っていたのでその老婆の秘技も秘薬も必要なし。でも今思えば、パラオに伝わるそういう秘技の話も突っ込んで聞けば面白かったろうにと思います。もしかしたらあの老婆はシャーマン、呪術師だったかもしれず、これって大変なチャンスを逃してしまったのかもしれず、今思い出しては「ヘマこいた」と思っています。(笑)

パラオ – Wikipedia

実はグアムにも太古の遺跡があり、古い信仰が残っているんですね。悪魔の存在を年寄りは信じていました。「トトモナ」と彼らは呼んでいましたがジャングルに行くとそれが存在すると。

私が世話になった家に生えているマンゴーの木が原因で顔中腫れ上がったことがあります。マンゴーって漆と同じなんですね。ウルシ科の植物。この時の私の顔はまさに化け物みたいになりまして、皆に「トトモナ」と呼ばれたのを思い出します。(笑)

もう今はわかりませんが、南洋の島って本島に面白いと思います。どこでも住民は人懐こくてずるいところもなく、純粋な人達が多い。そして日本との関わりが色いろあるんですね。戦時中には激戦の地になったところも多く、戦跡や壊れた戦車や砲台があったり、海にはゼロ戦が沈んでいたり。まるであの時、時間が止まってしまった様。私みたいに「一体あの戦争はなんだったのか」と子供の頃から未だに追いかけ続けている私には興味が尽きません。

特にサイパンは凄いと思っていまして、パラオもそうですが最盛期は日本人の方が多い時代もあった。その当時の名残があちこちにあるんですね。当然それらは爆撃などで破壊されていますが、最後の司令部跡は凄いなんてもんじゃ無いんですね。断崖絶壁に洞窟が掘られているのですが、その周辺は艦砲射撃によってボコボコ。それも残っています。また島の南に上陸して北上するアメリカ人から逃れるために兵隊も住民も北へ北へと向かったわけですが、島ですからすぐ行き止まりになる。

海岸つたいに北上したグループは最北端の海岸の絶壁に突き当たる。その先には祖国日本。でも救援の船はない。後ろからは鬼が迫る。この時の恐怖、敗北感、挫折感はどれほどのものであったのか想像もつきません。結局彼らはその断崖絶壁から身を投げた。この場所がバンザイクリフ。

またジャングルを北上したグループはやっぱり北部の山の断崖絶壁に突き当たった。そしてやっぱりそこから身を投げた。この場所がスーサイドクリフ。

この場所には記念碑が立っており、私は何度か行きましたが、お線香だの花だのが置いてありました。またジャングルの中から拾ったものでしょう、遺品のようなものも幾つか置いてありました。

当時、観光案内をサイパン人に頼んだのですが、その彼が嘆いていました。日本語がペラペラの年配だったのですが、最近の日本人は同胞が身を投げた断崖絶壁、バンザイクリフに立ち、\(^o^)/をして記念撮影をすると。何か勘違いしているんじゃないかと思うと。日本人以上に日本人みたいなそのオヤジさんが「でもユーは違うね」と言うんです。私達はサイパンで観光というより、戦跡や日本人住民の住居跡や工場跡に興味がありそんなところばかり連れて行ってもらいましたし、お線香も現地で入手していましたから。当時私は20代でしたが、そういう日本人って少なかったんでしょう。

実はですね、そのサイパンから帰る前にヨメサンと二人だけでレンタカーでまたあちこち回ったのですが、多くの犠牲者が出たバンザイクリフやスーサイドクリフであることをしました。手を合わせながら、「もし私の声が聞こえたら、私に乗り移ってくれ。そうすれば日本に一緒に帰れる」と。これって笑い話じゃなくて結構怖いことだと当時は(今も)考えておりまして、ふざけてやるべきことじゃないんですね。だからもしものことがあれば、不測の事態が自分にも起こりうると考えていました。

でも思ったんですよ。「一緒に帰りましょう」って。

日本に戻った時に、フト肩が軽くなることもありませんでしたし、遠くのほうで「有難う」という声も聞こえませんでしたが(笑)、私はあの時に、きっと何人かは連れて帰ってきたと今も信じています。

またサイパンは行きたいと思っています。随分変わったんでしょうね~~。

実はサイパンではまた面白い体験をしまして、何度か行っている内に現地に長く住むある日本人と知り合いました。彼は日本にいる当時はヨット界では有名な人だったようで、どこか忘れましたが大きなヨットハーバーのハーバー長(?)もやっていた海の男。彼は日本にも海のレジャーがもっと広がり、グアムにも客が押し寄せる時代が来ると考えたんですね。そしてグアムに渡った。

ところがグアムには観光客は来るものの、さほどボートじゃヨットじゃという方までは至らない。そうこうしている内にグアムでの滞在許可が取れなくなり、当時ちょうど独立(厳密に言うとアメリカの自治領化)をしたサイパンに移ったんです。そこなら永住権が取れると。

そこで彼はまた海洋レジャー関係を初め、トローリングサービスとかやるんですが閑古鳥。たまに日本の俳優とか(松方弘樹、梅宮辰夫は常連)が来ていたそうですが、商売としては全く駄目で、客がいない時には漁師として海に出るんです。私が彼にトローリングを頼んだのが切っ掛けで知り合い、また彼の家が綺麗な海岸沿いにあったんです。また男の子が二人おりまして、彼らと遊んだり、そのオヤジさんの話が面白くて入り浸っていたんですよ。

そうしたらですね、実は相談があると。

私に跡を継いでくれないかっていうんですよ。半分漁師、半分トローリングサービスをです。(笑)

一瞬考えていろいろ想像しましたが、即刻、丁重に断りました。小さな息子が二人もいるわけですし。

下の子の名前は忘れましたが、上の子はGeorge。ジョージですがチャモロ語(グアムサイパンの言葉)ではゾジって呼ぶんですね。実はお父さんもジョージ。あれから20年以上経って、オーストラリアの飲み屋でサイパンから遊びに来たという日本人と知り合ったのですが、彼のことを聞いてみたんですよ。お父さんのジョージは亡くなっていましたが、息子のゾジはサイパンで一番大きな海洋レジャー会社の社長になっていると。海岸でパラセールやジェットスキーのレンタルとかあの手の会社。

会ってみたいなぁ・・・・。私のことなんか覚えていないだろうけれど、彼が子供の時には一緒に車に乗せてあちこち遊びに行ったもんでした。

そしてまだ一つ後日談があるんです。

ちょっと時計を巻き戻して、ある時、まだ私が若いころサイパンに行った時ですが、そのオヤジさんは一切海から手を引いて居酒屋をやっていました。海の男が海から手を引くって普通考えられないわけですよ。でも手を引いた。一緒に酒を酌み交わしながら、何度か聞き出そうと思って食い下がったのですが、彼は海を捨てた理由を話さないんです。ま、話したくないことがあるならしつこく聞くべきじゃないわけで、ま、その再会が彼との最後になりました。

またそれから数年経ち、日本での話ですが、ヨメサンの親友が結婚することになったんです。で、その彼を紹介してもらった。そこで話をした時に、彼はダイビングキチガイであちこちの海で潜っていると言うんです。サイパンもよく行くと。

ではサイパンでダイビングをするならきっとあのジョージオヤジも知っていると思って、彼のことを聞いてみたんですよ。そうしたら顔色が変わった。なんでダボは彼を知っているのかと言うんですわ。

ま、これこれしかじかと話をしたのですが、その彼もジョージオヤジをよく知っていると。それどころか一生忘れられないとある話をしだしたんです。それを聞いてぶったまげたんですが、彼は前に婚約者がいまして、一緒にサイパンへ行って潜っていたそうなんですよ。そして浮上したところへ、一艘のモーターボートが近づいてきた。「危ない!」と思った時には遅く、結局、彼の婚約者は巻き込まれて亡くなってしまった。

その話を聞いて、そこでサイパンの話は一切止めにしましたが、あの海の男が海を捨てた理由がそれでわかったわけです。しかしまぁ、世の中って広いんだか狭いんだかわからないと思いましたっけ。

その彼が結婚するときには私も出席し、嫁さんはその前に私達の結婚式に出席していて、同じホテルが良いということで同じホテルで結婚式をし、私も歌を歌わされるなんてことがあり、ヨメサン同士は親友ですから、あれから長い付き合いが続きました。オーストラリアにも来て我が家に1週間ぐらい泊まっていました。

なんでこんなことを今思い出すかというと、つい先週ですが、日本から連絡があり、その彼が急死したと。すでに密葬も済ませた後の連絡だったのですが、人間の命のはかなさ、歳を取るということ、そんなことを考えずにはいられません。自分も終わりが想像できる年齢にいつの間にかなってしまいましたし、若かった頃の思い出、楽しかった日々、夢がいっぱいで前しか見ていなかった頃のことが走馬灯のように出てくるのです。

 

 
    

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