懐かしい写真が出てきた・思い出話

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自宅の私物を整理していた所、昔の写真が出てきました。

これは気に入っていた写真なのですが、どこに行ったかわからず、またネガもなく、残念だ・・・と思っていた写真。

ほんとうに懐かしいです。友人(恋人ではない)と江ノ島にドライブに行った時の写真。白い点々はノイズではなくて雪です。綺麗だった・・・。

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この写真を見つけた時、「あった~~~~~」と大声を出した所、息子が「どしたの?」と聞いてきましたのでこれを見せたんですよ。

「へ~~~~、若いね~~~、20代?」なんて聞いてきましたが

「いやいや、これ18歳の時」

「うっそ~~~~~~~~~」ですと。(笑)

私が大学1年の頃で、まだまだ高校生の延長で両親に嘘八百並べてはうまいことを言って小遣いをセビッていた頃。アルバイトをしたことはあるっていう程度で「稼ぐ」なんてことはまだ先の話だと思っていて、ここに写っている車(2シーターのフェアレディ2000【SR311】)もオヤジに泣きついて38万円の中古を買ってもらったもの。ボンボンだという自覚はありませんでしたが、その部類だったのかもしれませんね。

私は小学校2年の時に地元新橋の小学校から当時有名だった区立麹町小学校へ越境で転校しました。当時は番町(小)-麹町(中)-日比谷(高)-東大と言われていた時代で、親がその線を狙ったのかどうか知りませんが(笑)、新橋の駅前すぐのところに住んでいて、小学校は新橋の商店のワルガキばかり行くようなところ(桜田小学校)では危ないと思ったんでしょう。親戚の家に住民票を移し形だけ千代田区の住民となりました。その後、そのまま区立麹町中学へ進んだのですが、私の成績は真ん中ぐらいだったですかね。

塾だの受験だのそういう周りの雰囲気がまるで無い時代で、私が中二になった時に親はこれじゃまずいと思ったんでしょう。家庭教師を付けられました。今思い出すとこの家庭教師、東大の学生だったのですが天才と言っていいくらい頭も良いし、進んできた道も凄い青年で、こんな風になれたら良いなぁなんてことは全く思わず、別世界の人だと思っていました。でも彼の教え方が良かったんでしょう。突然成績が上がりだして、それでも学年500人中、最高で68位という成績しか残せませんでした。平均的には100位前後。やっとトップ20%ってところ。

しかしやっぱり進学校って凄いんですね。勉強もろくにしない、成績もたいしたことないと思っていたのですが、毎年、上位連中は都立日比谷、教育大付属、御茶ノ水、私立で言えば開成だの武蔵だのへ進み、早稲田慶応はちょっと良い程度、その他の私立高校は中位以下というような学校でした(あとでわかったことですが、クラスは50人ですが、5人東大に行っていた)。偏差値は70以上が当たり前で、60台だと「お前?それで大丈夫?」って感じの学校。これって不思議なもんで、自分は勉強していないと思っていても他校に比べると勉強していたのかもしれないし、教育方法自体がまるで違うのかもしれない。それは今でもわかりませんが、全国レベルで言うと私の成績はかなり良かった。

私の高校受験もすんなり行っちゃいまして、都立高校は単独校の受験ではなくて学校郡制になって群を受けるのですが、私が受けたのは11群でした。日比谷、三田、九段の三校で11群になっており、群に受かってもどの高校に行けるのかはわからないというシステム。日比谷は有名ですが、三田は女子校みたいなイメージで、九段は全く未知の高校でした。この学校郡制になった都立高は当時の私の中学では「滑り止め」という受け止め方をしていて、私もそんなもんだと思っていました。

今思うとツイていたと思うのですが、入試のテストは三科目だったのですが、テスト直後の中学の授業で自己採点をしたところ英語は100点、数学は98点、国語は何点だか忘れましたが全く問題ないレベルで(都立の試験は簡単で、ミスをすると駄目というテスト)、結局、11群に受かり、日比谷高校に割り振られました。でも学校群になってから日比谷はダメになると言われていましたので、行くつもりは全く無く。でも国立とか有名私立校へ入れる成績ではなかったのでそれらは受けず(本音は大学受験なんて真っ平御免だった)、問題ないだろうと担任に言われていた早稲田、慶応(日吉、志木)、青山学院(親友に付き合った)を受け、これもすんなり。

当時(大嫌いだった)オヤジは良く慶応?と言われるタイプの人だったので、そして私は小さい頃から「慶応幼稚舎?」なんて聞かれる子供で、それに反発して田舎臭い学校を選びました。(笑)

面白いのは高校に入ってみると地方から来ている子が半分以上いまして、俺は学年1位だったとかそういうのが結構いた事。嘘だろ?って思いました。私なんか学年1位どころか68位が最高でしたし。(笑)

私が今でも「学校(環境)が大事」と思うのはこれが理由です。勉強するつもりがなくても周りの雰囲気に釣られるのだろうと思うし、もし私が小学校時代に進学校に転校せずに新橋の下町の学校を出て、親友は悪ガキばかりのところにいたらかなり違った方向になっただろうと思います。これは海外でも全く同じで、「英語ができたら・・」なんて親が思っているととんでもないことになるんですね。その土地の言葉なんか出来て当たり前なんですから。日本に「日本語ができたら・・」って思う親がいないってことをちゃんと考えないと。

高校時代も勉強しないクセはそのままで、真ん中辺りをウロウロしていましたっけ。でも段々と追いつけなくなるんですね。一夜漬けじゃテストをパスできなくなって、3年になり数学も微分積分が出て来てあたふたしましたっけ。そして成績はどんどん落ちて下の中ぐらいまで下がり、私の親友が二人いたのですが、3人揃って三バカトリオだなんてよく言われたもんです。

大学はそのままトコロテン方式で、付属校を卒業さえすれば必ず入れて、追い出されることは皆無(早稲田実業とか早稲田高校は付属校ではないのでまるで違う)。入る学部は志望リストを提出して成績順に割り振られるのですが、私は基本的には理工系に行きたかったのですが、第三志望まで理工系の学部、4番目が政経、そして志望リストの最後が商学部でした。当時、商学部はバカが行く学部と言われていて(本当のビリっけつは法学部に行かされた)、まさにその商学部へ行くことになりました。(笑)

まぁ何に一生懸命って遊ぶことしか考えていませんでしたし、大学も遊ぶ場所、青春を謳歌する場所だと本当に信じていて、その通りの生き方。(笑)

でも大学って難しくないと思ったんですよ。高校ではドイツ語が第二外国語で3年間勉強させられて、教材はニーチェの「ツァラツーストゥラはかく語りき(Also sprach Zarathustra)」なんてのをやっていたのに大学でまた初歩からやるわけですから簡単なんてもんじゃ無いし、英語のレベルも決して高くはありませんでした。そして大学らしい授業として経済学があるわけですが、最初の最初がマルクスですから、大学なんて何の役にも立たないってもう1年の頃から思うようになりました。他の授業も授業さえ出てテストでは頓珍漢なことを書いても「可」はくれますし、付属校のほうが大変でした。何も知らない若造ですが、やっぱり商人の家に生まれ育っていますし、オヤジの中小企業(家内制手工業みたいな)を見て育ちましたから、商学部という名前の割にはろくでもなくて大学の勉強って念仏を唱えるようなもので実社会とは関係ないぐらいに思っていました。

学生運動は私より上の世代で、校内ではそれがまだくすぶっている感じでしたね。でもある日、授業中に革マルの残党がそのビルを占拠してバリケードを作られて出るにでられなくなって慌てたことがある程度。でも構内では旗を振り回しマイクを持ってアジる連中は残っていました。そんな感じですからテストもなくレポートで終わるクラスもあったし、大講堂で教授の独り言を聞くような授業には全く興味でませんでした。

だから遊びまくりましたよ~~。ただ私の周りは結構真面目な奴、こじんまりした奴が多くて、一緒に遊んでも面白く無いんですよ。ですから知らないうちに慶応の連中と遊ぶようになりました。やっぱり慶応って凄くて伝統的な慶応ボーイってこういう連中のことなんだろうと思うような、生まれも育ちも家柄も経済的にも親の社会的地位も凄いのがいくらでもいて、彼らと遊ぶのが面白かった。でも彼らの多くは半端じゃない金持ちの子弟で、私は貧乏人の子みたいな感じでしたね。当時、大卒の初任給が3万にも満たない頃に、地方から出てきて毎月親から30万の仕送りをしてもらう名士の跡取りとか、学生でもポルシェに乗るようなのはいくらでもいた。昭和40年代ですよ。マイカーって言えばカローラの1000ccとかホンダのN360の時代。

スキーにも凝って年間30日滑った年もありましたっけ。慶応のたまり場、スキーの合宿で使う山荘が白馬にありまして、なぜか私だけ違うという変な環境でしたが私はそんな場所に入り浸っていました。面白いのは高校の時から早慶戦というと早稲田の学生服を着て慶應側に慶応の友人と座ってみたり。あの当時からやっぱりおかしいっていえばおかしな子供だったような気もします。でも高校時代はグリークラブは結構まじめにやっていたのですが、早慶戦もそうですが、何かあると借り出されるんですね。それが嫌で3年で止めたり。(笑)

まぁ、めちゃくちゃでいい加減だった学生時代。

その頃の写真が上の写真です。バカな子供がバカの絶頂だった頃。(笑)

でもこの写真がなぜ私にとって大事かというのは、この時を堺に私の人生がガラッと変わったから。

この時には、まさか次の年には金儲けに走り、またグアムを知りそこに入れ込むなんて全く想像もできなかったわけです。そして学生なのに起業して訳の分からない仕事にのめり込んでいくようになり、今に続くわけです。(笑)

なんだかこうやって思い出してみると、一体どこで道を踏み外したんだろう・・・って思います。小中学校の時には大好きな先生もたくさんいて、勉強はしなかったもののやっぱり真面目で立派な大人になりたいと思っていたんですよ。学生服の着方も真面目で、高校に入ってからもきっちりしているのが好きで、襟のカラーは絶対に外しませんでしたし、不良っぽい格好なんかしたこともない。でも高校時代に尊敬できる大人に出会えなかったというのが大きいような気がします。こんな大人になりたくないという人ばかりだったし、またそういう風に考える年頃だったのでしょうが、まじめに勉強して高みを目指そうなんて一度も考えたこともありませんでした。人生の目標らしい目標も持てませんでした。そういう意味では今のヤンキーと同じかもしれない。暴走族にも入りましたし。(笑)

そのくせ環境には恵まれていて、ずーっとすんなり行きましたから、人生って楽勝だと思っていたのは間違いがないんですね。学生で起業したなんてのもそれが理由だと思います。自信過剰でした。

でもそんなのはすぐに挫折するわけで、途中までうまく行ったとしても私にはトラウマがあって、いつもそれが頭を上げてくるんですわ。自信過剰と劣等感が交互に波のように押し寄せてきて、こんなはずじゃ・・・・と思うまでに大した時間は掛かりませんでした。でも引き返すことは出来ず、やり直しもできず、前に進むしか無いと思って不安に押しつぶされそうになりながら、泣き泣き生きてきたって感じですかね。(笑)

そして今に至る。(笑)

だからこの写真って私にとっては非常に意味のある写真で、私がバカの絶頂期だった頃を思い出すんです。だから懐かしいとは思うものの、内心ではあまり嬉しい懐かしさではない。

前にやっぱり偶然見つけてこの日記にもだしたことがある写真があります。これも若い頃ですが、29歳頃かな。

これも本当に懐かしい写真ですが、上の写真とは全く別人になっていました。11年後ってことですかね。ヨメさんと出会って恋愛中の時の写真。(笑)

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この頃には過去の馬鹿さは吹っ切れていて、経済的にはまだまだでしたが実社会の中で生きる道は見つけていて、ポルシェを乗り回し、赤坂六本木で(自費で)遊び、仕事的には20代で中小企業ですが年商30億弱の企業の取締役営業部長なんてやっていましたし、それなりに満足しながら生きていた時代。でもこれからは自分だけではなくて他人の人生をも背負ってどうにかして生き抜かなければならない。そして愛する人を守らなければならないことに目覚めた時期でもあるんですね。もうこの時期には若者のする遊び、悪さも大体し尽くしましたし(笑)、家族という感覚はまだありませんでしたが、愛する人のために生きることに集中しようと思いました。もう自分としてはやりたいことはやったという感覚をもうこの当時には感じていました。

この頃からでしょうかねぇ、私が真面目になったのは。(笑)

どんな悪さをしたかは、誰にも言えない、文字に残すことも出来ない、それこそ墓場に持って行かなくてはならないようなこともしてきましし、でも警察の厄介になることはしませんでしたが、倫理・道徳的には酷いこともやってきましたし、それは卒業しようと心に誓ったのがこの写真の頃です。

この女性がいまのヨメさんでもあるわけですが、ヨメさんだから大事にすると言うのとは別に、私の人生を変えた人。そして私が極度の偏頭痛で廃人同様になっていた時にそこから救ってくれた人。

だから「この~、ボケナス!」っていつも思うのですが、私の生涯をかけて守らなければならないと思っています。そして私が自分より何十倍、何百倍も大好きで大切な子どもたちを産んでくれた人。私を彼らの父親にしてくれた人。私に光をくれたこの女性と子どもたちの為だけに私が生きるのは苦でもないし、それが私の生き甲斐となりました。

でもその後、また挫折し結婚した後に仕事もなくサラ金にお世話になったり(ヨメさんは子供を連れて家を出ちゃうし 笑)、まぁ、いろいろありました。そしてまた復活し、なぜかオーストラリアに渡った。そして次にはマレーシア。なんだか忙しい人生のような気もします。(笑)

そんな今までの私の人生のストーリー、転機、その時の自分が何を考えていたかをこれらの写真を見ると思い出すのです。

そしてそんなストーリーもいつか終りが来るのも見えてくる歳になりました。

人生って本当に面白いですね。あーーー、面白かったってもうすでに思ってます。(笑)

後は子どもたち、子孫のことを考えて私の人生の仕上げをするだけ。

ですから私には「ご褒美人生」はいらないのです。というかもうご褒美は頂きました。ヨメさんと子供達が最高のご褒美ですし、生まれた時から私を大事にしてくれた両親がいます。生まれた時からご褒美を頂いちゃったようなもんですね。(笑)

 
 
 

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