普通のことを普通にこなす生き方はやめようと思った平成29年1月1日

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今日はシドニーから遊びに来ている次男坊と一緒に我が家親子4人で、年老いた私の両親、姉の家に行きました。正月のご挨拶。

仏壇にお線香を上げてから雑談の後、サウジャナビラの中にある「出雲大社」で初詣。

その後はいつもいく和食店でお節料理。

当たり前のことを当たり前にこなして家に帰る途中、次男坊が「悩み」を口に出しはじめた。もう会社なんか辞めたいと。

彼はまだ25歳。一般的に言えば、良い大学院を出て良い就職先に就職し、資格(公認会計士)も取らせてもらってそれなりの地位と給料をもらい、順風満帆に見えるのだけれど彼の心のなかにくすぶるものがある。私に言わせると「誰しもが通るべき道」を通っていると思うのだけれど、本人にしてみると大問題。それもまた「誰しもが思うこと」なんだけれど、どうやって解決するべきか、これからどうするべきか、家族4人で大討論会の始まり。(笑)

彼は彼の生きている世界の「常識」に囚われている。将来的に何を狙い、結婚後もどうするべきかも彼の世界には「標準」がある。結婚して子供が生まれる日がわかればそれに合わせて学校も予約をしないとならないし、そうじゃないとまともな学校にも進めないと。日本流に言えば、東大法学部をでなければ人に非ずみたいな。それって馬鹿げている部分が多くあって、アホらしいと思うもののその世界でのし上がるにはその「既定路線」を歩かなければならない、と彼は信じている。ただ仕事がかなりハードで、同期は100人ぐらいいたのに今現在残っているのは二人だけらしい。

「あのね~、そもそもお前たちを連れてどうしてオーストラリアへ来たんだと思う?」

そこから話は始まった。私は彼らを「日本の常識的な育て方」で育てたくなかった。長男が3歳になる頃に、そろそろ幼稚園の受験のことも考えなくてはならず、とりあえず慶應幼稚舎を目標にするべきかとか長男の寝顔を見ながら考えていたんです。

そして順調に行っても、普通に社会に出て、そして就職し、普通に周りの目を気にし、自分を押し殺して、愛想笑いをしながら「こんなはずじゃなかった。俺って何なんだ?」と思いながら(当時の)私のように生きていくんだろうと思った。

冗談じゃない。そんな人生を過ごすために彼らにこの世に出てきてもらったわけじゃない、と思った。そしてやっぱり日本を出ようと。

私は子供の頃から息苦しさを感じて生きてきたし、10代にはグアムを知って、こんな世界があるんだと日本脱出を企んだ。でも失敗。その後、アメリカ本土を狙ったけれどそれも失敗。そして半分人生を諦めて、普通の野良犬のごとく日本で生きていた(笑)。

そして結婚し、子供も出来て、「馬鹿らしくてつまらない人生だ」とは思ったけれど、結婚と子供が出来たことだけが私の唯一つの喜びとなった。

でもそんな人生を子どもたちに送らせたくないと思ったんです。だからやっぱり日本を出ようと。海外では羽を広げて羽ばたくことが出来ると思っていたから。

そしてオーストラリアへ。これはトントン拍子で話は決まり、永住権も取れたのでなーんもわけわからないオーストラリアへ来てしまった。無謀と言えば無謀だけれど、「自分の足で立って生きる」という満足感だけはあった。

結局、私が息子たちに伝えたかったのは、「自分の人生は自分で決める」「来年の今日はどこで何をして生きているのかも自分で決める」、そんな生き方をして欲しいということ。

それなのに、次男坊はオーストラリアはシドニーで、かつて私が日本で感じていたようなことを感じている。

面白いもんだと思いました。日本より遥かに恵まれている環境なのに、本人にしてみればそれでも我慢できない。そして彼はなんとその環境の中にどっぷり浸かって、その中の価値観を大事にし、そしてその中でのし上がろうとしている。このストレスが半端じゃない。(彼がプレッシャーに耐えられず精神科に通っているのは前に書いたとおり)

彼はその中でそう生きることが自分のすべきことだと考えているんですね。動物園の中で飼われている存在でしか無いのに、そこでいかに勝ち抜くかを考えている。

「なぜお前たちをオーストラリアに連れてきたのか」、このところを理解すれば彼は変われるだろうと思ったんです。

毎度のことで話し合いだか、怒鳴り合いだかわからないような状態で数時間、色々話し合った所、彼は一つの答えを見つけた様子。

「常識にとらわれる必要なんかない。生きる道はいくらでもある」ってことなんですね。

これは自分がいる世界から飛び出すという意味ではなくて、もしその動物園の中で生きるにしても「精神的に檻から開放されて生きることができる」ってこと。

これを次男坊が理解できないのなら、私が彼らをオーストラリアへ連れてきた意味が全く無いということになるんだと。

彼の人生は多分今までうまく行き過ぎたんだと思うわけです。大通りの真ん中を歩いてきて、負けないように頑張ってきた。

でも世の中には裏道がいくらでもあって、細い路地に咲く花を愛でながら生きる生き方もあるんだと。でもそれは決して負けではなくて、皆が良いという本当に価値がある路線かどうかわからない道ではなく、自分で選んで自分で道を作り歩いて行く満足感がそこにあるんだと。

そう生きるためにはそこら辺に転がっている常識とか価値観を捨てるしかないと。他人と同じことをしていると安心する怠惰な自分と決別する必要があると。

でも夢だの希望だのクソミソ一緒にした妄想を追い求めても駄目で、チャレンジし続けろなんていうのはたまたま成功した者の後付の論理でしかないと。チャレンジしても七転び八起きではなくて、七転八倒するのが現実で、チャレンジ精神とは宝くじを買い続ける夢想家が持つものと似ている。我々は背伸びをすること無く、出来ることを一つ一つこなし、増やして、少しずつ前に進むしか無いのだと。

そんなことを話していました。

すると面白いもんで、「おばーちゃんにもそう言われたんだよ」ですと。年老いたジジババの家で、次男坊だけ母(彼から言うと祖母)に呼ばれ母の部屋で長い間話していたのですが、「おばーちゃんは俺が悩んでいるのを見通していたよ」とのこと。

そして母が大事にしていた、姑からもらった小さな書の束をもらったと見せてくれました。人が進むべき道を短い言葉で表している、まぁ、名言集みたいなもの。でもそれらはどこの誰が書いたものではなくて、次男坊の(宗教家だった)曾祖母が一族のために書き残した我が一族の宝みたいな書。それを次男坊がもらった。

こんなことを話した私も今日は何かいつもと違う感覚を持っていて、正月だから「あけまして御目出度う御座います」とか、ご先祖様にお線香をあげる、初詣に行く、それらは行事であってやるべきことだとは思うのだけれど、あまりにも形式的になっていて、違和感を感じていたんです。

サウジャナビラにある出雲大社ですが、こう言ったら怒られると思うものの、「観光地の神社」的なものがあったし、そこに神の存在があるのかないのかなんて考える人も多分いなくて(我が家はそれを真剣に話す一族 笑)、ピースサインを出して記念撮影をする人たちもいた。

その後に行った和食店のお節料理も去年よりは良いものを頼んだものの、なんだかお節には違いがないものの、お節に見えるただの食べ物という感じがしたんです。

だからもう来年からは正月にお節を食べに行くというのもやめようよと帰りの車の中で話したくらい。(家でお節を作るのはもう10年ぐらい前にやめて外食が定例となった)

儀式は儀式で大切だと思うのだけれど、あれもこれも全て形式的なものになっていて、「中身がない」と感じた元旦でした。

次男坊の悩みも同じで、どう考えても価値があることとは思えないのに、「皆がそうする世界」にいるとそうしなくてはならないと思ってしまう。でも「そんなんじゃない!」という声は心に耳を傾けるとちゃんと聞こえる。

本質的なものが消えて、あるいはそれがわからなくなって、表面的な形式的な、そして常識的なものばかりに囲まれている人生。

もういい加減、それはやめようと家族で話し合った平成29年1月1日。

原点に帰ってまたやり直そうと思う。

 
 
 

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