「KLで日本人拘束」に関して

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マレーシアで日本人家族が拘束されたニュースがあったが、それに関する反応は様々。

私の考え方としては、その家族が余計なことをしたとは思わない。彼らは彼らの主張があり、それを表明する権利があると思うし、ニュースからは、彼らが聖火リレーを妨害しようとしていたようには見えない。

チベットの旗を掲げて、「チベットに自由を!」と叫ぶのがそんなに悪いことだとも思えない。ただ、それに対して中国人が過剰反応して、その日本人達と衝突するのも当たり前と言えば当たり前。でも私から見ると、その日本人より、みんなで寄ってたかって魔女狩りでもするかのごとく、日本人を袋だたきにした中国人の行動に、これだけ進んだ世の中なのに、どうしても越えられない人間としての性を感じてしまい、がっかりする。

その日本人達が自分たちがそうなるであろうと予想していたかどうかはわからない。何も起こらないであろうと考えたとしたら、ただの我が儘な子供と同じ。私としては、彼らは一悶着起きるであろう、そしてそれが世界に報道されるだろうという期待した確信犯ではなかろうかとうがってしまう。

まぁ、私にするとどっちもどっちで、起こるべきして起こった事件だろうし、あえて大騒ぎをする事件では無いような気がする。

私が気になるのは、この事件に対する反応。

良くやった!と褒める意見はまだ見たことがないが、余計なことをして・・という意見はかなり多く見られる。

余計な事をするからそのような目に遭うのだ。自業自得だ、というのとは違う意味での余計なことをして・・・であるのにすぐ気づく。そこには事件にあった日本人に対する思いやりもなければ、同じく、中国人に対しての思いやりもない。当然、チベットなんか全く関係ない。ただ、同じ日本人としてそういうことをされると、自分もその仲間と見なされて、自分にも被害が及ぶ。それが気に入らなくて、余計なことを・・・と言ってるのがわかる。

良い気持ちで昼寝をしているのに、すぐ横で騒がれれば頭にも来るし、一生懸命目標に向かって走っているときに、目の前に障害物を置かれるのも腹が立つのはわかる。でも、自分の事しか考えていないという意味においては、事件の当事者である日本人家族や袋だたきにした中国人より問題がある発想かもしれない。

世の中の出来事を、自分にとって利益か不利益か、そういう判断基準でしか見れないのは悲しいことだと思った。ただそれは誰しもが陥る罠で、自分では自分なりの善悪の基準で判断しているようだけれど、よくよく自分の中をのぞいてみると、なんていうことはない自分の利益、不利益か、あるいは好き嫌いで判断して、それに理屈を着けているだけということに気がつくことも少なくない。それは私も同じ。

この事件に限らず、当地オーストラリアでも「日本人として恥ずかしくないような云々」というのをいつも口に出す人がいる。「オーストラリアに住まわせて頂いているのだから」という言葉とたいていセットで出てくる。

私はどうもこの手の発想は苦手だ。「オーストラリアに住んでやってる」とはもちろん思わないが、住まわせて頂いているという言葉に、どうしても卑屈さを感じしまう。本人は感謝のつもりで言っているのだろうけれど、感謝をする対象はオーストラリアか?と思ってしまう。私にとっては「オーストラリアに住んでる」というだけで住まわせて頂いているという感覚はない。東京にいる頃に、東京に住まわせて頂いていると感じていなかったのと全く同じ。

感謝するとするならば、そのようなチャンスを与えてくれた神(いるとするなら)、あるいは、自分の夢を叶えるのに力を貸してくれた人達であろうし、夢がくじけないように努力を続けた自分自身かもしれない。あるいはそれらを全部ひっくるめて、宇宙、万物に対する感謝かもしれない。

東京に住んでいる人で、東京に住まわせて頂いて・・・等と言う人には会ったことがないし、日本に感謝しているという言葉も聞いたことがないのに、でも海外に出るとその手の言葉が出てくるのは当たり前なのだろうか。何か悪いことでもして、本来住んではいけないのに住んでいるのならわかる。でもそうではないのなら、なぜそういう発想が出てくるのだろう。

この手の言葉を発する人たちの多くは、日本人としての模範行動を取るのが良いことだと信じている人が多い。日本を背負って立つのも良いし、自分がそう信じてそう行動するのは勝手だけれど、「ですので、皆さんも日本人として恥ずかしくない行動を」などと言われると、おいおいおい、あんたがそう思うのは勝手だけれど、余計なことを押しつけないでくれと言いたくなる。軍国主義の時代を連想してしまうのは私だけだろうか(そんな時代には生きてないけどさーー www)。

日本人も外国人も関係ないんじゃないでしょうか。それぞれがやるべきだと自分が信じる事をやればいいのであって、あえて日本だとか日本人だとか、オーストラリアに感謝だとか、そう言う言葉を出してくる発想が理解できない。

このマレーシアの事件で、かつてオーストラリアで日本人が起こした大小様々な事件を思い出す。そしてその度に私が思うことは同じ。「日本人らしく」とか「余計なことを」という言葉が必ず出てくるのが悲しい。

個人の行動によって、その個人が所属するグループをまとめて非難するというのは成熟していない社会だと思う。そしてそれが差別の根本だと思う。殺人犯の親族を全て殺人者扱いしてみたり、タチの悪い中国人がいると、中国人とはXXXXXだと一纏めにして決めつけてしまったり。確かにあるグループは似たような習性があるので、グループ化してまとめるのが決して悪いことだとは思わないけれど、個人個人を尊重する考え方がもっと発達しても良いような気がする。

グループ化されて判断されるのがイヤだから、日本人として・・という発想が出てくるとしても、それらの根源は全く同じレベルだということに気が付く必要があるのではないだろうか。そういう枠そのものを捨て、離れて考えるべきだと私は思う。日本人という同じ枠で差別を受けるのはイヤだからと思うかもしれないけれど、それって被害妄想だと思うべきで、そういう考え方を示されたら、その考え方に対して憤慨すべきで、差別されないように余計なことをするなというのは自由を認めない本末転倒の考え方だと思う。

自分が自由であるためには、他人の自由を認めることでもあり、それによって自分に不利益があるかもしれないけれど、お互い自由であることの重要性の方がはるかに大きいと私は思う。他人の目を意識しすぎて息が詰まるから日本を脱出する人が多いというのは一体どういうことなのか、今一度考えてみるのもいいだろう。自分は自由でいたい。でもそれは誰からも迷惑を受けないという意味ではないはず。迷惑を受けるという発想を持っていることが、自分を、他人をも縛り付けていることに気がつくべきだと思う。

自由でいたいけれど、迷惑を掛けるのはやめましょう?そんなうまい話が世の中にあるわけがない。誰でもが自由であるということは、自分とは異質の物の存在も認めるわけで、ストレスがたまるのが当たり前。しかし、それを排除したら自由を否定することになる。

オーストラリアに来て、楽だなぁと思ったことがある。それはこちらが個人主義だから。他人のやること言うことに干渉はしないし、かといって知らんぷりではない。自分がそうでありたいように、他人のそれも認めるということだろう。日本とは逆だと思った。日本は口出しはしても、何か起きたときには知らん顔する傾向があると思うけれど、こちらでは普段口出しはしないものの、何か起きるとすっ飛んできて手を貸してくれる。

余計なことをして・・という言葉の裏にある発想にも、日本人的な冷たさを感じる。その人のことを思って、余計なことをしたんじゃないの?というのと、余計なことをしてお前は私の邪魔をしたという発想の二種類が同じ言葉の中に隠されている。優しい言葉や行動にも、その裏には相手を思う優しさと、自分を守る為に相手に優しくするという二通りがあるのがわかる。そう言う意味で、オーストラリアでは真の優しさ、奉仕の精神を感じるケースはかなり頻繁にある。オーストラリアを好きだという人はこの辺を強く感じるからではないだろうか。

もちろん日本人を日本人グループとしてまとめてあーだこーだ言う人もいる。でもそういうことはあまり多くなく、その手のことを多くの人の前で言うと賛同を得るどころか、失笑を買うケースが多いと思う。これも日本とは逆。オーストラリアはかつて白豪主義といわれるものがあって、差別に関してはプロ中のプロ(?)なのに、日本人ほど差別意識はないのが面白い。

私が思うに、個人主義と全体主義とは主義が違う二つのものではなくて、個人主義は全体主義を脱皮して育っていく過程にある考え方のような気がする。選ぼうと思って選べるものではないのだろう。全体主義は本能の上に立った主義であり、個人主義は相手を認めるという、もしかしたら人間の本能に反することを理解しない限り成り立たない。そんな気がする。

似たもの同士集まると安心するのは本能だろうが、それを第一と考え、自分や組織に不利益になるものは同胞といえども排除するという考え方。村八分って現代の日本人の中にも、意識するしないに関わらず、強く生きているのだと、今回の事件に対する反応を見て思った。

ま、思うままにとりとめもなく書き殴ったけれど、今回の事件をどう感じて受け止めようと、それはその人の勝手で、私はこう思ったというだけの話。私と違う考え方の人を攻撃しようとも思わないし、考え方を変えろとも思わない。それぞれ価値観の違い、主義主張の違いがあるのは良いことで、画一化社会には何の魅力もないと思う。

ただ、力によって相手をねじ伏せるというのだけは我慢ができない。

そう言う意味で、私としてはやっぱり昨今の中国、納得いかないですねぇ。

(しかし、どうして自分は簡潔にわかりやすい文章が書けないのかと思いますわ。ダラダラ長いばかりですいませーーん。)

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