永住権 今昔物語

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私がどうやってオーストラリアの永住権を取ったのか聞かれることが結構あります。その事を含めて永住権の今と昔なんて事を書いてみましょう。

私が永住権を得たのは1991年で、いわゆる事業家ビザと呼ばれていたものです。日本で取りました。こちらに渡ってから永住権を申請するケースも結構あるのですが、カテゴリーが違いますし、その当時の私としては子供のこともありましたし、駄目です、なんて言われて帰るわけにも行きませんので、永住権をまず取ってから渡るというのが大前提でした。

実は、私は今でもグアムが一番好きな場所なんです。えーー?グアム?なんていつも言われるんですが、グアムは私の人生観を変えた場所で、心の故郷。で、グアムには親戚以上の付き合いをする友人がたくさんいますし、グアムに渡りたいという思いも非常に強かったのですが、子供の教育を考えると、そしてアメリカの永住権取得の難しさを考えて候補からはずしました。

当時私が考えていたのはカナダでした。正直なところ、文化的にも経済的にも自然の豊富さ、美しさでもオーストラリアよりカナダの方が上と考えていましたし(今でもそう思っています)、あまりにも田舎のイメージが強いオーストラリアには食指が動きませんでした。同じ理由でもっと田舎のニュージーランドは最初から頭にありませんでした。

ところが、嫁の

オーストラリアじゃなければ行かない

この一言で決まっちゃいました。

で、オーストラリアの永住権ですが、最初から事業家ビザを取るつもりでした。理由としては、当時すでに難しくなったと言われていたものの、それ以前の1980年代は50万ドルの見せ金があれば大丈夫だと聞いていたからです。

見せ金ってことは銀行の残高証明でOKで、使い回しが出来た時代もあったらしいです。Aさんが取った後はBさんがそのお金で申請してってことですね。多くの中国人がこの手を使ったと聞いていますが、そんな簡単ならその手を使わない方がおかしいですね。

また当時、永住権を50万ドルで買う、というような言い方もされていました。実際にはそのお金を支払う事はないわけで、それを資金にして商売を始めるも良いし、預金するも良いし、ウォーターフロントの家とクルーザーを買って遊んでいても良かった時代でした。つまり、事業家ビザとはいうものの、投資、起業の必要はなかったのです。好きに使ってOKでした。オーストラリアから持ち出しても良かったわけですし、今思えばいい加減な永住権だったと思います。

これは私の申請時点でも似たようなもので、過去の経験、オーストラリアでの事業計画、語学力とかが重要だと言われていたものの、今思えば簡単だったと思います。申請はコンサルタントに頼みましたが、彼らの指示通りに書類を作っただけで、悩んだことは何もありませんでした。書類審査が終わったあとに面接があってそれで決定するのですが、面接にまでこぎ着ければOKという話も聞いていました。

で、その面接ですが、面接官によると思うのですが、私の場合、若い担当官が喧嘩を売ってくるような雰囲気でした。経歴に関してもいちゃもんをつけるというか、貴方には経営者としての資質はないんじゃないかみたいなことを平気で言われましたし、提出した内容の経歴では不十分だ、他にないのか、と過去のことを根掘り葉掘り聞かれ、結局、書類として出してもいない過去の話が中心になりました。提出した書類なんかまるで関係ないと言ってるような感じさえ受けたもんです。事業計画にしてもこんなのはすでにオーストラリアにもあるし、どうしてこれがオーストラリアの利益になると考えるんだ?という感じ。

今でこそインターネットは当たり前ですが、当時はパソコン通信。インターネットもあったのですが、USENETと言って学術研究者とか学生、オタクが情報交換をするぐらいだったと記憶しています。で、オーストラリアには当時、商用大型パソコン通信ネットワークが存在せず、アメリカのCompuServeを利用するのが主流。このCompuServeは日本でもNIFTYと提携してニフティサーブとしてやっていましたが、世界最大手。日本ではその他、PC-VANとかアスキーネットなど大手が存在しましたが、オーストラリアには無かったのです。草の根的な、今で言えばピア2ピアみたいなFIDO-NETというのがあった程度。

で、私はオーストラリア初の商用大型パソコン通信ネットワークを構築するという事業計画を出していたのですがこれに面接の担当官がいちゃもんをつけました。コンピュサーブを世界中の人が使う時代なのに、今更独自のものを作る必要があるのか、勝算は無いだろうと言うんですよ。

これを言われたときには、とうとう頭に血が上りましたっけ。

コンピュサーブが存在するのは外国だ。勝算があるなしではなくて、外国のものに間借りすること無く、自国のネットワークを作るということが大切なのに、あんたは何を言ってるんだ!と言い返してやったのです。この若造がぁ~~~~~と言いたかったのですが、当時私も38歳の若造でしたので我慢。^^v

でもね、結局これは彼の作戦だったのですね。私のその一言を聞いて彼はニコって笑いましたわ。そして私の経歴にいちゃもんをつけたのも、私が感情的になるように煽ったのも、私という人間を見るための彼の手法だったんですね。

この後はその若い面接官は私に質問らしい質問もしませんでした。雑談をした後に、これにて終了と言い渡されましたが、提出した書類とは全く違う話ばかりしましたし、どうなるのか心配になりました。でも、当然その場で合否を言うわけがありません。

握手をして別れるときに彼が言いました。

キャンベラが貴方の体重を心配しています。ダイエットでもしてみますか?

私はその当時から結構太っていて、健康診断で問題があったのかと一瞬思いましたが、そうではないんですね。キャンベラっていうのは首都でそこにイミグレの本拠地があるんですが、私はこのオーストラリア流ジョーク一言で絶対OKが出ると確信しました。

その後、永住権がおり、資産売却などゴタゴタしてオーストラリアへ渡ったわけですが、オーストラリアへ渡ってからはその事業をちゃんとやっているのか?という調査も一切なく、こちらから進行状態を報告することもありませんでした。ああ、アンケートが一度きました。その後どうですか?何か援助が必要ですか?みたいな感じの書類だったので、適当に書いて出しただけです。事業の方は様子見、市場調査ということで手を出さずにプラプラしていたのですが、そんな時にアメリカで通信の規制緩和があり、インターネットが動き出したわけです。下手にパソコン通信なんかやっていたら大変なことになりました。一瞬にして倒産したでしょう。

結局、私は通信のジャンルではありますがインターネットではなくて、電話の方向へ進んで起業しました。インターネットの方に進めば面白いことになっただろうにと今でも悔やむことがありますが、しょうがない。しかし、知らない国でどっぷりのめり込んだら危険だという考えも持っていましたので、遊び半分みたいな仕事でした。逆にそれが良かったのか、後々世の中も変わり、競合が閉鎖して脱落していく中でもどうにか会社は動いていましたっけ。しかし、それも今では遠い思い出です。

渡った頃に話を戻しますが、オーストラリアへ渡ってから、良く永住権が取れましたね、といわれました。というのは、私が取った頃、また変更が有り、難しくなったようです。

その後どれだけの変更があったでしょう。コロコロ変わったようですが、どんどん厳しくなっており、今ではすぐに永住権がおりずに、猶予期間が設定されているようです。その期間中に予定通り事業を興し、それが順調に動いていないと事業家カテゴリーの永住権がおりないようです。

また、退職者用ビザですが、以前は退職者用の永住ビザがあったはずです。その後それは一時滞在ビザとなり、4年ごとの更新となりました。そして今、それも無くなり、退職者用の投資ビザみたいな形になりハードルは高くなるばかりです。

そんな時期に、日本では団塊の世代が海外に目を向けるようになり、昔の海外ブームの再来となったんですね。そして東南アジアの国々がそれぞれ退職者用のビザを新設したり、あるいはハードルを下げて退職者を積極的に呼び込むようになって、現在に至るという感じでしょうか。

永住権申請のためにコンサルタントに支払った額は確か150万円だったと思います。高いとは思ったものの、選べるほど何カ所もあったわけでもなく、この手の申請はコンサルタントの力にかなり左右されるのは事実で、諦めました。ただ、これは日本のコンサルタントですが、オーストラリアの本社から人が来て、私の会社まで実際に来ていろいろ調べたりしていましたし、それなりにコンサルタントも金は掛けていたようです。今でも結構掛かるのではないかと思います。これはあくまで事業家ビザの話で、他のカテゴリーの場合は全く別です。独立移住などのカテゴリーは個人で申請してもOKですし、かなり安く上がるはず。ただ、本当に良く条件がコロコロ変わりますし、精通したコンサルタントに頼むのは良いことだと思います。

後に知ったことですが、オーストラリア人のコンサルタントの友人ができまして、私の会社の日本人スタッフのビザを取るときなど彼に頼みましたが、結構イミグレとはネゴをする余地があったり、審査の順番を上に上げてもらったりしていましたので、やっぱりコンサルタントのコネクションは大事だと思いました。ちなみにオーストラリアの法律で、ビザに関するアドバイス、コンサルタントは免許が必要です。

コンサルタント料に関して一つ思い出しました。こちらに来てから、いくらぐらい掛けたか何人かに聞いたのですが、なんと、600万円払ったと言う人がいたのにはたまげました。いくらなんでもその金額って変。でもね、気持ちはわかります。中には気の早い人もいて、永住する気持ちばかり前に進んで、仕事もやめちゃう人も結構いたようですし、いくら高くても絶対に取って見せます、なんて言われるとお金がある人なら出しちゃうカモですね。

まぁ、この事業家ビザというカテゴリーはかつては簡単だったということです。これは体裁の良いオーストラリアの外貨稼ぎのビジネスだと思ったもんですわ。カモがネギ背負って来たいというのを断る必要もないんですね。50万ドルという資金がボーダーラインでしたが、その何倍のお金を持ち込む人はいくらでもいるわけで、毎年毎年この永住権を出すだけで大変な額の外貨が稼げたことになります。

でも今は事情が違って、簡単ではなさそうです。

ビザがらみで一つ思い出しました。ああ、これは別記事にします。

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