やっぱりマレーシアのインフレも凄いと思う。
と同時に、それから「逃げる」ことを自分が考えているのもわかるのね。「高くなったものを買う」のじゃなくて「質を落としても安いものを探そう」とする自分がいる。
そりゃ当たり前の反応だと思うのだけれど、それでよいのかと言うと「違う」と思うのね。やっぱり「インフレをアウトパフォームできる自分」であることを諦めちゃ駄目だと思う。
ということで、ここから毎度の思い出話も含めた長い長い話に入ります。(笑)
長話が嫌いな方はここで終了してください。
我が家は外食は少ないけれど、「デリバリで取る」ことは結構多くて、それも【外食と同じ】といえばその通りで、好きなものを好きなように注文するとかなり高くなっているのがわかる。でも例えば「まめとんのトンカツ」だとすれば「ジャンボロースカツ定食」ならそれを頼むしか無いわけで、値上がりはそのまま受け入れるしか無い。(笑)
全般的にどこでも2~3割は上がっている感じがするし、それは「牛肉も同じ」だし、なおかつ長い目で見ると値上がりは2~3割なんてもんじゃない。
ところが「食材」という視点で見ると、そんなに値上がりはしていないのね。
ここが不思議というか「救い」でもあるのだけれど、販売店は「質を落とすことで対応している」のも見えるのはいつも書いている通り。
今回は「牛肉」に関していつも買う店の「価格の変化」に注目して調べてみると、やっぱり「高くなった」と思う。
我が家が牛肉を買うのは「主に二店舗」からで、一つはいつも紹介している「Wmart」ね。この店は「大きな輸入商の小売部門」なんだけれど、インフレ対応策としては「安いブランドを増やす」ことで対応している。
Wmart offers quality halal meat, seafood, fresh fruit and ve…
で、もう一店舗は「Feast Market」なんだけれど、この店は「昔から同じものを売っている」から【値上がりは非常にわかりやすい】のね。
余談ですが、実は、私は私の人生において「本当に美味しい牛肉」って知らないんですよ。
日本にいた若い頃は「美味しい和牛を食べる」なんて時代じゃないし、しゃぶしゃぶやすき焼きで「最高級のものを食べる」なんてことも無かった。で、30代に家族4人でオーストラリアへ渡りましたが、当時のオーストラリア牛って「牧草で育てる」のが普通で、有名なステーキ店でも「牧草臭い牛肉」もあった。「牧草臭さ」ってどういう意味かわかりますかね。それは「牛糞のあの匂いがする」ってことなんですよ。恐ろしいでしょ?(笑)
そしてオーストラリア人って「健康オタクばっかり」で「脂を嫌う」のね。だから「赤身肉ばかり」で「サシが入っている牛肉」はスーパーでも【売れ残る】ような状態。当時は「豚」もいかに脂身を減らして育てるかに業界が一生懸命になっていたような国(ある頃からそれは見直されて、昔の豚のほうが美味しかったねとまた変わっていった)。当然、日本へ輸出される「オージービーフ」って「日本の市場向けに育てられた特殊な牛」なわけで、「穀物飼育」もするしサシも入っていた。だから私は「是非、日本へ輸出されるオージービーフを食べてみたい」とずーっと思っていたのですが、日本では「オージービーフは不味い」なんて言われる時代もあって、それを聞くと私がどれほど落ち込んだかわかると思います。(笑)
でも時代も変わって、スーパーでも「穀物飼育牛(Grain fed)」も売られるようになり(60day fed、90day fedとか出荷前の一時期に穀物を食べさせる)、また高級な肉屋では「オーストラリア産Wagyu(日本の基準では和牛ではなくて交雑牛=F1 ハイブリッド)」が売られるようになってきた。その頃になると私達日本人でも美味しいと思う牛肉になってきたわけですが、私達がゴールドコーストに渡った1991年頃は非常に残念で、「これが牛肉大国の実情か?」と思った(私が若い頃にアメリカに行った時も、なんだ、アメリカのステーキって硬くて不味いんだと思った)。でもそのかわり、「美味しくない牛肉、安い肉は【ソースで食べる】ことも覚えた」し、低温調理で美味しくできる事も覚えたという過去があります。
ゴールドコーストではやっぱり牛肉は安くて、Wagyuを売るようになってもこんな価格。下の写真の「オイスターブレード(ミスジ)」はWagyuだけれど、1キロ2500円(グラム250円)という信じられないような安さだった。(今のマレーシアでの価格はこれの10倍近い)
でも普通の無印牛の「オイスターブレード(ミスジ)」ってもっと全然安いけれど、硬いしサシは入っていないし、全く美味しくないのね。買っても「どうやって調理したら良いのか悩む」ような肉。今、日本では「オイスターブレード(ミスジ)」も高級部位だけれど、それは「和牛だから」と言って間違いないと思う。
私達がオーストラリアに渡った1991年当時はこんな「サシの入った牛肉」は見たこともなかった。オーストラリアのWagyuは「日本で言えば交雑牛」だけれど、こういうのが安く店頭に並ぶようになった時は嬉しかった~~。
また一般的なオーストラリア産無印牛なら「リブロース、サーロイン」でも当時は1キロ2500円ぐらいで(今のマレーシアでは2.5~4倍)、今、思えばゴールドコーストの牛肉は本当に安かったと思う。牛タンなんて「犬の餌」みたいなもんで、1.5キロぐらいの大きな牛タンが300~500円ぐらいで買えた。頬肉も同じくらいの価格。それらの肉は「肉売り場の横の【ペット用肉の棚】に並んでいた。(今のマレーシアでの価格ですが牛タンは15~30倍、頬肉は10倍ぐらいの感じ)
で、色々な牛肉があるわけじゃないマレーシアに、2016年に渡ったわけで、そして牛肉はオーストラリアに比べたらとんでもなく高くてびっくりしました。和牛なんて恐ろしくとんでもなく高くて全く手が出ない(当然、日本での価格も知らない)。そんなこともあって、私は多くの日本人みたいに「日本の美味しい牛肉を知らない」と言っても良いのね。だからこのブログで私がオススメする牛肉って、日本人には合わないかもしれない。「本物の和牛の高い部位」をオススメすることもないし、でもそうだとしても「上に出した二箇所の牛肉販売店」は良いと思っています。和牛でも「リブアイ、サーロイン、テンダロイン」じゃなければ目が飛び出るような価格じゃないし、そして比較的安価な「和牛のもも肉でも十分美味しい」し、我が家はそういう肉を狙って買っています。でも和牛でもないWagyuでもない「無印オーストラリア牛」でローストビーフを作るのはいつものことで、十分すぎるほど美味しい。やっぱり「火の入れ方」と「ソース」で安い肉でも美味しく食べられるのは間違いないと思う。
インフレも「ジワジワ上がる」わけで、それだとなんとなく「受け入れるしか無い」と思うけれど、「かつての価格」を考えると値上がりは2~3割どころじゃない。
面白いのが「和食材輸入卸商」で、値上がりはこの何年も「小さい」のね。これって彼らも頑張っているのだろうと思うけれど、「質を落としている」のは間違いがないと思っていて、それは即、「和食店の質が下がる」のと直結しているんじゃないですかね。
本当に小さなことだけれど、私の大好きな「はんぺん」を安くて美味しくないはんぺんに変えた「Focal Marketing」のその動きが全てを象徴していると思う。実際に、和食材輸入卸商から買う「蒸しタコ」や「イクラ」も値上がりは大きくないけれど、数年前と比べて質が大きく落ちたと思う。その変化はやっぱりコロナ禍だったかも。
でも「値上がりの本質」を考えると「人件費や光熱費を含む固定費や流通コストが上がっている」んじゃないかと思う。
これは例えばアメリカやオーストラリアで「サバ焼き定食が3000円以上する」というのもそうで、「サバのコストが大きく上がったわけじゃない」んじゃない?アメリカでもオーストラリア、日本、マレーシアでも「サバの切り身のコスト」が大きく違うとは思えない。人件費が大幅に上がれば当然それは「売値」に影響するわけで、店舗の固定費や変動費が上がれば当然、それは「売値」に乗ってくるわけで、それが「インフレの正体」だと思うようになりました。
逆に「マレーシアは安い」と言われたのも「人件費などの経費が安い」からで、「世界的に高いものでも安いわけじゃない」のね。
そんなことは仕事をしている人たちはすぐにわかることだけれど、一般的な実業から離れて20年以上も経っている私にはピンと来ない。でもそれがインフレの正体だとやっと最近思うようになった。(笑)
だから「外食を減らして自炊を増やす」だけでインフレの直撃は少ないのだけれど、それでも「高くなった」と思うし、今までも「自炊は多い」のにそれ以上に増やすのは簡単ではないし、「外食は少ない我が家」だからこそ、自炊やデリバリでは「ケチらない」生活が出来てきたわけで、でも「デリバリの出費が増えた」のは間違いがない。
ただそれに対抗するのはそれほど難しくはなくて、中華のデリバリを取る事が多い我が家だけれど、「有名店から取るのは控える」だけで随分出費は変わる。それはラーメンを含む和食、お寿司類も同じで、「美味しいけれど一風堂からのデリバリは減らす」とか(笑)、お寿司は気に入っている店からは「全く取らない」ようになって「ドンキ」で我慢するとか、中島水産(なかよし)を増やすとか、でもどんどん酷くなってもう駄目だなんて騒いでいるわけです。で、「スシロー」に期待をしたら思ったほどじゃなかったとか愚痴る状態。(笑)
今回、牛肉の変化、値上がりをじっくり調べてみたり、また「引っ越し」せねばならないので不動産事情を調べてみて思ったことは、「インフレから逃れよう」としても無駄だということ。
なんていうのかなぁ、「何か危険が迫ればそれから逃れようとする」のは当たり前だけれど、【インフレ対策】としてはそれは駄目だと思うのね。
それって若かろうが歳を取ろうが同じで、「インフレをアウトパフォームできる収入が得られるように頑張る」のを一生続けるしか無いと思う。
若い頃は「がむしゃらに進む」しかないし、40代50代になると「収入も生活レベルも上がってくる」けれど、どうしても60代、70代になると「守りに入る」し、それはそういう立場と言うより【精神的に戦う気力がなくなる】のが大きな理由だと思う。より大きくなろうというより「散り際をどうするか」「終活」みたいなことばかり考えるようになった自分に気がつく。
「老兵は死なずただ消え去るのみ」なんて言葉に「ウンウン、その通り」なんて納得したり。
でも現代は、かつての様に60代はもうヨボヨボで70代になれば「終りが来るのを待つばかり」なんて時代じゃないわけで、「人生100年」なんて言われる時代に「昔通りの考え方」で100年の人生を全うできるわけがない。まして「収入の額も減るし、収入を得るソースも減る」わけで、本来なら【現役時代より頑張る】ようにしないと長い老後をまともに生きられるわけがないと思う。
ウクライナ戦争の毎日の戦況も興味があって調べている私ですが、それとはちょっと違う視点であの戦争を見ると「ウクライナの60代の兵士や女性兵士が前線で戦っている」のが見えるのね。それだけ「兵力に問題がある」わけですが、60代のジジーや女性が「前線で戦う」なんてのは私は過去には聞いたこともないこと。
でもそれが「現実」であって、私達も同じなんだろうと思うのね。
「定年後はマレーシアに渡って悠々自適に過ごす」なんてのがこの20年、流行ったわけですが、その中心になったのは今70代になった私ではなくてもう一つ上の年代ね。団塊の世代と呼ばれる人たちとそのもうちょっと上の人達が中心。そういう年代の人達が若い頃から考えていた「老後」とか「歳を取るとはどういうことなのか」の根本的な考え方が今とは違うと思うんですよ。
「ハッピー・リタイアメント」なんて言葉は日本には無かったと思うのだけれど、そこまでハッピーではないにしても「定年後は働かない」のが当たり前で、というか「まともな働き口もなかった」のでしょう。そして私より上の世代の老人って、日本がイケイケの時代に生きた人たちで「現役時代にはしっかり稼いだ人」も多く、「一戸建ての自宅を持ち、退職金も年金もしっかりもらっている」人が多い。そして「円安の時代じゃなかった」から「老後はマレーシア~~♫」なんてことも流行ったわけで、「今の定年を間近に控えた50代、60代」とは全く違うんじゃないですかね。
そして今の老人は「タコが自分の足を食べて生きる」みたいな事もできる【資産を多く持っている】のは間違いがないと思う。
でももっと悲惨なのは、若い人たち、今の中年層だと私は思っていて、「ガンガン儲かった時代もバブルも経験していない」どころか、資産も収入もOECDに加盟している38カ国の中でも下の方。それは「日本そのものが稼げない国」になったことが大きな原因だから、今の70代中頃~80代とは全く「別世界」と言っても良い、「退職金、年金もあてに出来ない」時代に入ったのは間違いないと思う。
私は私のちょっと上から80代の老人は「逃げ切り」を考えていれば良いと思うし(私の世代は高度成長時代は子どもだし、バブルは30代でギリギリそれに乗れなかった人が多い世代)、老人と言えども資産もそこそこ持っている人が多いのだろうとは思うけれど、そういう人たちは「幸せな人達の部類」で、日本の老人世帯の貧困率は20%を超えているらしいし、女性だけでは30%を超えている様子。そして老人世帯の48%以上が「生活が苦しい」と言うとのこと。
それも今の日本から考えると「そうだろうな」と思ってしまいがちだけれど、実はそういう年寄りは高度成長時代やバブルも経験しサラリーマンでもガンガン稼げた時代を生きた人なのを忘れちゃならないと思うのね。ここが非常に重要な点だと私は思っていて、今、困窮している老人たちも「かつては稼いだ人たち」なはず。
路上インタビューで「そりゃ生活は大変ですよ」なんていう老人も実は資産も年金もばっちりだったりする。
今の人達には嘘みたいな話だけれど、かつて「武蔵野市」の一般的な女性公務員が5000万円の退職金(55歳定年)をもらって話題になった時代もあったくらい。
つまり今の中高年で「収入が十分にない」人たちが、70代、80代になったらもっととんでもないことになるってことじゃないかと。
そして今、30代、40代の若者、若者++の人たちが老人になるときにはどうなっているか。
ま、それはわかりきったことで、だから「新NISAで頑張るんだよ」という声が聞こえて来そうだけれど、私にはそれって「仕事がないからラーメン屋、弁当屋でも始めようか」という【あまりにも世の中を簡単に考えている】のと同じ様にしか聞こえない。
ま、それは経験しないとわからないことだけれど、昔から株式の長期保有、短期トレードで「どうにか収入、資産を増やそう」と寝ずに勉強して頑張ってきた人はごっそりいるわけで、それはラーメン屋、弁当屋を始めた人たちも同じで、そういう人たちの多くはどうなったのかをしっかり調べれば経験しなくてもかなりのことがわかるはずなのね。
でも今、「アメリカ株式、インデックスをガチホすれば良い」という人たちは、そういう先人たちを馬鹿にしているとしか思えないんですよ。「昔の人達は馬鹿だったから儲けられなかった」と言っているように聞こえる。あるいは「本業、本職のほうでうまく行っているから深く考えない」のかもしれない。でも「想定外のことは必ず起きるのが人生」だと思うし、【ある年齢に達すると稼げなくなる】時は誰にでも必ず来るのね。そして若い頃には考えもしなかった「医療費」がどんどん増えていく。私は、たとえ若くて稼ぎがあっても「その時が眼の前に来ている」という想定で「将来を設計する」事が重要だと思う。
日本で言われる「老後の2000万円問題」はインフレが考慮されていないし、医療費も「一般的な計算」でしかなく、不慮の事故や重篤な病気があったら全く計算も違ってくる。「平均値を信じる」って本当に怖いことで、現実は良い方にも悪い方にも大きく動くわけで、「悪い方へ動いたら生活が成り立たない危険」も考慮すべきですよねぇ。
日本では下流老人なんて言葉も出てくるようになったけれど、一度、今、苦労している老人たちに「昔の話を聞いてみる」のも良いんじゃないですかね。
今の若者が稼ぐ何倍もの収入を過去に得ていたり、かつて2~3億の資産は持っていたよなんていう老人はごっそりいる。でも「今は苦労している」としたら、彼らは「馬鹿だったから」なんですかね。
歴史は繰り返すから面白いし、そういう今は苦労しているけれど過去には稼いでいた老人達が、「若い頃に何を考えていたのか」を知るのも良いと思うんですよ。彼らが若くて稼いでいた頃に、「その時代の落ちぶれた老人」を見て、「俺は彼らみたいな馬鹿なことはしない、絶対にああはならない」と信じていたはずなのね。
ま、私の場合は若い頃から私の周りには「反面教師がごっそりいた」から、どれほど稼いでも有頂天になることはなかったけれど、そして今でも「一寸先は闇」と思っているから【これで安心】なんてことはあり得ないのね。でもま、それは「私の生き方、考え方」でしかなくて、それを他人に押し付けようとは思わないし、誰が将来どうなろうと私には関係がないのだけれど、息子たちだけには「調子に乗るな。常に大惨事が来ることを想定しろ」と幼い頃から教え続けて来た。それでも「一大事に巻き込まれる」「魔が差す」から人生って怖いし、「とんでもないことに巻き込まれても、魔が差すようなことが起きても再起し生き延びる方法がある」と思うし、それをいつも息子たちとも話をしています。
人生で大事なことは「落とし穴に落ちないこと」じゃなくて、「落ちてもそこから復活する方法を知る」ことが何よりも重要だと思う私。嫌でもまたどんなに注意していても「必ず落とし穴には遭遇する」のが人生だと思うから。当然、私も「何度も落とし穴に落ちた」経験がある。(笑)
一つだけ間違いがないことは「後悔、先に立たず」ってこと。そんなことも70年も生きていると嫌ってほど経験するわけですが、「後悔しない生き方」と「必ず後悔することはあるから、そこからどう復活するか」も息子たちと共に考えるようにしています。
それでも大事なことを伝えるのは難しいと思っていて、「人は自分の目線の高さ以上のものは見えない」のね。経験したこともないことは理解できないというべきかもしれないけれど、私が良く思うのは「人って傘をさして歩いている」のと同じで、傘があるから「上は見えない」のね。でも傘から下の世界はよく見えるし、それが「世界のすべて」だと考えてしまいがち。
かく言う私も同じで、どう頑張っても「見えない世界、理解できない世界」がある。
だから「他人の視点」を私は非常に大事にするし、参考にするわけです。そして「他人の経験」をどうにか自分に取り込めないかいつも考えています。
自分がさしている傘が、10センチ、30センチ、1メートルと高くなれば、それだけで見える世界は広くなるから。でも本来は「その傘そのものを取っ払う」ことも可能なはずでそれを仏教では「悟りを開く」というのかもしれない。
結局、何が言いたのかと思う読者は多いと思うけれど、要はですね、「常に前を向いて歩き続ける」しかないってこと。それは「戦うことを放棄しない」ということでもあって、それは「インフレにどう対処するのか」も同じだと思うんですよ。
逃げても何も解決せずに、自分は取り残されていくだけ。
さきほど「ハワイのユーチューブ動画」を見ていたのですが(昔、人口の40%が日本人だったと。知らなかった~)、やっぱり半端じゃなく高くなっていて、「こんな物価じゃもうハワイに行けない」と思った。でもそんな中でみんな生活しているし、旅行者も多いのは次男坊が住むシドニーも全く同じで、「どうして自分は逃げることばかり考えているんだろう」と思ったのね。そんな生き方をしていたら、「ベトナムにしかいけない」「その後はバングラディッシュか?」なんてなるわけで、この流れはどうにかして変えないとうまくないと思うんですよ。
特に歳を取ると「逃げ切り」ばかり考えたくなるけれど、人生は昔と比べて長くなったのは間違いがなくて、「40代で逃げ切りを考える人はいない」のと同じようなことが70代でも言えると考えるべきなのかもしれない。
歳を意識しなくても「衰えていく自分」を間違いなく感じるし、それは「心身ともに劣化する」のと同時に【気力がどんどん減っていく】のね。でも「身体も脳みその働きも良くすることは出来ない」にしても、「気力を保つ、強化する」ことは歳に関係なくできるはずで、実はその「やる気」こそがすべての根源なのは間違いがないはず。
上杉鷹山の「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」は事実だと思う。
自分には他人に劣る部分があったり、障害も持っている人も多い中、「だから諦めれば良いんだよ」という人はいないのと同じで、【歳を取ったから諦める、努力しない】なんてのはやっぱり「言い訳でしか無い」のを強く感じる今日このごろ。
昔から、「私の強み」は【諦めが悪いこと】(でも逃げ足は早い 笑)だと思ってきたけれど、それでもどんどん弱気になっていく自分を感じています。
人生に「敵」や「ライバル」がいるとすれば、やっぱり「それらは自分の中に存在する」ってことが真理なのだと今更ながらそう思う。
そんな私にやる気を起こさせてくれるこんな曲を聞きながら、これからも発破をかけようと思う。70代だからと言って諦めるわけにはいかない。
「このままでは終われない。まだ夢の途中、諦めない・・・」
人生って所詮「儚いもの」だと思うけれど、簡単に消えていくわけにはいかない。またそれが自分の子孫なり後に続く人たちの「肥やし」になるべき【義務】だと思うのね。私達はそういう先人がいたから今を生きられるのだと思うし、ウクライナの前線で戦う老人たちも同じ気持ちだと思う。
特定の企業や自治体、政府をあてにするのって「ただのお荷物」みたいなもので、それを「彼らの義務、私の権利だ」なんて考えたら大間違いで、やっぱり「自分で将来を切り開く強い意思と実行力」が何よりも重要だと思う。
今の時代って誰でも「働けば収入がある、給料をもらえる」のが当たり前だと思っているし、それを「原点」として考えているフシがある。ところが「現実はそうなっていない」と私は考えていて、古代から命をかけて猟に出ても「手ぶらで返ってくる」のが当たり前に起きていたし、長い年月を掛けて育てた農作物も「一夜にして全滅」なんてことも頻繁に起きていた。これこそが「原点」だと私は思うし、その対処法を知らない人たちは「淘汰されていった」し、それは現代でも同じじゃなかろうか。特に「独立」「転職」「FIRE」、あるいは「移住」も厳しい現実を見ることになる「頻度は非常に高い」わけで、「夢を追うために差し出さなければならないものがある」のをしっかり自覚することが重要だと思う。
でもそれ以上に重要なことがあって、それは「自分には無限の可能性がある」ことを信じることかもしれない。でも「柔軟な考え方が出来ない。立ち止まってしまう」ことがあれば「可能性は逃げていく」ってことかと。
この歌ほど奥深い歌ってないと思う。メロディも演奏も映像も完璧だと思うし、何を伝えたいのかがビシバシ伝わってくる。この曲も大好きで、いつも元気をもらっています。
ただ「自分に発破をかける」のもストレスが溜まるようじゃ全く意味がないわけで、「自分をどう変えるか」のノウハウを知るのは重要だと思っています。
私も若い頃から「自己啓発」関係は興味あっていろいろ取り入れることはありましたが、近年、「これが自分には合っている」と思う出会いがありました。
それはこの人。
苫米地 英人(とまべち ひでと、1959年9月7日 – )は、日本の認知科学者(機能脳科学、計算言語学、認知心理学、分析哲学)。カーネギーメロン大学計算言語学博士(Ph.D. in Computational Linguistics)。
合う合わないはあると思うけれど、私はこの人との出会いは大きな意味がありました。「やる気」も「実行力」も【意識すること無く、自然に湧いてくるようにする方法がある】ということだと思う。
それは「しっかりと将来の自分を夢見て、それを心に焼き付ける」ところから始まるんじゃなかろうかと。イーロン・マスクを見ていると「それの天才」みたいな気がしています。必要な「知識、技術、スキル」は【後から追い着いてくるもの】かもしれない。