出会いの喜びより別れの悲しみの方が大きい

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ブログって適当な事や趣味のことを書いている時って結構楽しいのだけれど、心の内にあることとか本音を書くと重くなって、書いた後でも後悔することが多いのね。子育ての事とか移住、永住の話になるといつも暗い話ばかりだし。

なんでそうなるのかなぁ、なんて根本的なことを考えていたら一つのことに気がついた。

出会いの喜びより別れの悲しみの方が大きい、ってこと。

私達だって、希望に溢れて舞い上がっていた頃はあったんですよ。オーストラリアの移住ブームってあって、1980年代後半から1990年台はごっそりきた。やっぱりバブルの影響があると思うし、日本ではシルバーコロンビア計画なる通産省が音頭を取るものがあって、ジジババを世界に送り出そうという政府の方針もあったし。

私は30代後半で子供は3歳と1歳。似たような人たちが一杯いたっけ。でも全体からいうと私は若い方だったかもしれない。やっぱりシルバー世代が多かった。でも彼らは永住というより、退職者の一時滞在ビザね。

私達より年齢が低い人って少なくて、でももっと下の世代、20代はそれなりに多かったような気がします。彼らの多くはワーキングホリデーでオーストラリアに来て、永住権を取ったような人たち。永住権ってどんどん取るのが難しくなりましたが、昔は今に比べればはるかに簡単。

どちらにしてもあの時点で10年以上在住している人たちって少なくて、みんなが新参者。あの時点で長く在住していた人たちって、戦後、オージーと結婚して渡ってきた女性が多かったっけ。かつては白豪主義バリバリのオーストラリアでかなり苦労した話を聞いたこともありました。

ま、そんなこんなで多くの日本人が同じ時期にスタートしたこともあって、考えることは皆一緒。不安と期待が交じり合って、情報も欲しいし、そして多くの人達は核家族で来ているわけで親も親戚もいないわけですよ。また今思うと不思議だけれど、友達、知り合いさえいない、仕事さえどうなるかわからない外国にどうして来ようと思ったんでしょうね。だから孤独、孤立って一番怖いから、皆が集まる切っ掛けも多く作ったし、一緒に遊んだり、また一緒に仕事を立ち上げたり。

それぞれの繋がりって、日本で言う友達や親戚より深いつながりになったと思います。それぞれの家庭に子供がいるわけだけれど、親類の子供って感覚がありました。子どもたちも兄弟みたいに育って、みんな本当に仲が良かった。

でも、知りあう瞬間って別に感激も何もないのね。知り合いが多いほうが安心感があるし、お互い助けあうこともできるし、知りあう切っ掛けって多くあったし、多く作ったし、どんどん知り合いが増える中で、気の合う人も見つかって、それぞれマッチング(笑)するような機会が多くありました。

パーティも頻繁にやったし、飲み会も多いなんてもんじゃなくて、私は週に4,5日は外で飲んでいたかも。うちはヨメサンが私以上に飲兵衛だから良く外に出かけましたっけ。で、お食事というより飲み屋、居酒屋の類に行くと、必ず誰か知り合いがいるのね。待ち合わせしなくても毎度の顔ぶれがいて、酒盛りは盛り上がったっけ。で、その帰りに家に来て朝まで飲み続けるなんてこともしょっちゅうでした。

こういう繋がりって段々と深くなるわけで、出会った時には軽く挨拶をするだけで、仲良くなるかどうかなんてわかりませんし、感激も何もないわけですよ。

ところが付き合いが深くなると、それぞれの家の事情もわかるし、子供の問題とか、夫婦間の問題もわかるようになるのね。離婚しようと思うんだけれど・・・なんて家出して我が家に来て、朝まで泣きながら話をしていたり。そしてそのまま我が家に泊まり続けたり。(笑)

こちらで子供を産む人も結構いて、親も親戚もいないわけだから、友達同士で支えあったり、コミュニティのあり方としては最高だったと思います。

中には駐在員もいて、普通、駐在組と永住組って接点がないし、話も合わないのだけれど、子供を介して知り合って付き合う人もいました。で、駐在組はいつか必ず帰るわけですよ。と同時に新任の人が来る。こういう時にはもちろん送別会もしましたし、新しい人の歓迎会もしました。会社の同僚もゴールドコーストでは大企業で日本人がいっぱいいるわけじゃなく、日本人はその人だけみたいなことが多かったから、前任者の友人関係を引き継ぐのも良いだろうと、新任の人を皆で歓迎したり。

そんなこんなで日本では考えられないような深いつながりがどんどん出来上がっていました。

ところがですね、5年も経つと消えていく人たちが目立つようになるんですね。理由はいろいろで、やっぱり多かったのは経済的理由。そして家庭内の事情、そして子供が地元に馴染めないとか。

帰ろうと思う・・・・なんて話を聞いて、あっそう、残念だねぇ、元気でね、なんて会話にはならないんですね。みんな親友と言って良いような付き合いをして、子どもたちは兄弟同然に育って、お互いに心の支えにもなっていた友人が去っていくんですから。

あまりにも悲しいですから、仲が良ければ良いほどさよならパーティーってやらないし、やった覚えがありません。でも飛行場には送りに行くわけですよ。その時の悲しさなんて半端じゃなくて、泣きながら抱き合って別れを惜しみ、何度も何度も振り返って手を振る姿をどれだけ見てきたでしょうか。今でもその姿が目に浮かぶ人たちが多くいます。

こういうことが段々と増えてくるんですね。

特に駐在組は必ず帰るのがわかっていますから、ある時期、駐在組と深く付き合うのをよそうか、なんてヨメサンと話したことがあります。でも、ゴールドコーストに骨を埋めるつもりで来た永住組も段々といなくなるんですね。

そして20数年。あの時の友人たちはほんの一握りしか残っていません。

だから私にとってゴールドコーストの日本人に対する印象って、「悲しみ」そのものなんですよ。「別れ」がキーワードであって、希望とか夢とか、そういう印象じゃないのね。今では親しい一握りの人たちと付き合うだけで、新しく人脈を広げようなんて気も起きません。

だから、私の頭のなかでは、どうして彼らが帰らなければならなかったのか、どうにか帰らないで済む方法はなかったのか、そんなことをよく考えるわけです。で、振り返ってみれば、「あの時、ああしていれば・・・」というのがいくらでも出てくるんですね。これは帰る人達も同じで、何が悪かったのかを認めたくはなくても、「人生って甘くないね~」みたいな言葉を残して帰っていく。

どうしていとも簡単に国替えをしなくてはならない状態になるかというと、やっぱり「夢と希望」があまりにも大きくて「現実を見る」ことができなくなるのが最大の原因だと思っています。

これを思い出すと腹が立つのは、その現実ってどうにもならない現実じゃないんですね。ちゃんとそれを見つめていればどうにか対処できた現実なわけですよ。落とし穴が目の前にポッカリ口を開けているのがわかっているのに、それに落ちたみたいな。

国替えを読者の方には簡単に考えてもらいたくありません。海外に出て、そして日本に帰ることになったという国替えと捉えたら駄目なんですよ。そこに生涯住もうと思った国から去るということは、我々日本人にとって、日本で生きていたいのに海外に出ざるを得なくなったのと同じなんですね。どれだけ悲しく、落胆するか想像ができると思います。

私の中にはこの別れの悲しさと、そうなることへの苛立ちがあります。そしてどうにかなることなのにどうにもならず(どうにかせずに)に帰って行かざるをえないことに対する怒りがあります。

でもそもそも、人生なんてそんなもんだということもわかる。そして落とし穴だらけの道でもその道を歩いてみたいと思ったら、もう自分でもそれを止められないんでしょう。だったらもう少し目をしっかり見開いて、足元を見つめ、将来起こりうることの想定もしっかりすれば、その道を歩き切る可能性って間違いなく高くなるはずなのね。

親はまだ良いんです。というか好きにすれば良くて、自分の尻は自分で拭けばOK。でもあの泣きながら帰っていく子どもたちの顔を思い出すと、親の責任は重大だと思うわけです。

でもそれらすべてを含めて、「良い経験が出来たね」って思えるのならそれで良いのかもしれませんね。

でも私としては、最初に志を持ったのなら、どうにかそれを完遂して欲しいですから、お節介とは思いながら発信したいと思うことがあるわけです。

「後悔先に立たず」。でも人間には将来を夢見るのと同じに、起こりうることを想定する能力もあるんですね。そしてそれを乗り切ることさえ可能だってこと。

福島の原発と同じですよ。あれだけのことは想定できなかったとか、対処なんて無理だと考えるような生き方をするのか、それともああいうことも起こりうると想定して生きるのか。

「何か起きてから考える」という生き方は、後ろから追いかけてくる鬼にいつか必ず追いつかれ、食われるし、それが人生の怖さだと思っています。でも私みたいに、後ろを向いたまま前に走って逃げるみたいな人生もつまらないかもね。(笑)

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