舛添氏はどうなるんだろうか・・・。私は右翼?

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結局、始まった審議も今までと変わらないと感じました。舛添氏は「絶対に非を認めない」。でも非とはなにかと言えば民が感じる感情的なものでしか無くて、法律的にはほぼ問題がなく、舛添氏が考えていたのはその点だろうけれど、皆は感情論で押す。

「ホテルで会議をしたのは誰か公表しろ」と皆が言うし、私もそう思うのだけれど、じゃぁ誰かが出てきて「会議をしたのは間違いがありません」ってことになればそれで満足するのか?

でも感情論ってやっぱり大事で、「信用出来ない」「都政を任せられない」と思うような人がリーダーとして存在できるわけもない。普通、「あいつはどうしようもないけれど、しっかりやっているから・・」ということで感情を押さえることができるわけだけれど、「しっかりやっているように見えない」のだから救いようがない。

音楽の鑑賞やイベントに「都知事としてご家族でいらっしゃってください」と言われたけれど「それを言ってきた団体の名は言えない」なんて、こんな馬鹿なことがありえるんですかね。相手が「都知事として」というということは「公式に」という意味であって、「公式」ならどこの誰に言われたのか「公」にできないってあり得ないじゃないですか。

オバマ氏が日本を公式訪問するときに、日本側では「受け手はいない」なんてことがあり得ないのと同じじゃないですかね。つまり、受け手を言えないってことは「自分が勝手に公式だと思っている」と言っているのと同じ。

中国服の説明も馬鹿みたいだし、子供だってあんな言い訳が通るとは思わないはず。でも中国服を買っても良いという法律なんだからどうにもならない。民は感情論で押すしか無い。倫理だモラルだと言っても、それに基準はなく、法的にはどうにもならない。でも誰も目の前の舛添氏を引き下ろすことばかりに夢中で、あんなセコい奴を選んだ選挙民の読みの甘さは棚に上げて、そして政治資金改正法の問題点も言わなければ、改正しようなんて話はどこからも出てこない。私に言わせれば政治資金規正法こそが問題なのであって、それをそのまま真に受けた舛添氏は被害者だとも言えると思うんですよ。

「駐車禁止の決まりがない場所」に車を駐車し、あとで「こんなところに止めるのは何事か」と騒がれたらどうします?

私だったら、馬鹿言うなって反論しますよ。

でも「倫理的に考えれば駐車すべきではないでしょう」と追求される。そしてもう運転してはいけないと言われているのと同じ。運転免許は返上しろと。

でも舛添氏の肩を持とうなんて気は全く無くて、あれほど別荘や美術展にはあしげなく通ったのに、福祉施設とか、あるいは福島の原発事故関連で東京都は全く関係ないわけでもないのに、また災害が起きた時にも彼はそこに行かない。視察してくれと職員に頼まれても行かない。でも美術展には行く。私はこれだけで「彼はアウト」だと思うわけです。ましてや別荘に毎週行くなんてのは「危機管理者」としては無能と同じ。

でも舛添氏は都知事にしがみつく。平身低頭で「生まれ変わる」という。

これが企業だとすれば、彼をそのまま残すって方法もあると思うんですよ。コテンパンにやっつけられて命乞いする部下を助ければ、そいつは間違いなく「イエスマン」になるわけだから。仕事は有能だとすれば、その方向性を指示するだけで誰よりもうまくこなすかもしれない。

でも政治家はそうもいかず、選挙民は黙っていない。

どうやっても彼を救う道はないと自公民の重鎮も考えだしたようで、自公民ともに「不信任決議案」を提出する様子。ここでの動きが参議院選にも影響するだろうし、都議たちにも火の粉が振ってくるのは間違いがない。辞めさせないと問題がどんどん大きくなるからここらでどうにかしないとならない。

「同じ穴のムジナ」ってこういうのを言うんじゃないかと。

政治資金規正法に大きな問題があるということ。そもそも政治とは?選挙とは?そこにある問題点を無視して、舛添氏を引きずり降ろせばそれで良いのだろうか。

どこを向いても「国士がいない」。自分の保身だけ考えている。私はそれが日本の問題点だと思うわけです。そして日本は戦後「国士を育てる教育はしなかった」のが問題。国士とは右翼そのものだと日教組もマスコミも考えて、「国の利益」を言っただけで右翼扱い。「国を愛し国のために・・」なんて事を言ったらおかしな奴とレッテルを張られる。

どこの国でも「国民は国に忠誠を近い」「国を守るために戦う」のは普通。市民権を取得する時に宣誓させられる。国歌の中にもその文言が入っている国もあって、その国歌を大事にする。でも日本でそんなことを言えばキチガイ扱いされる。教育も同じで、「何のために勉強するのか」の基本が日本にはない。「世のため人のため」なんていうのは古臭くて、それは右翼のいうことであって、戦後教育は「人は自分のために生きろ」と「権利」を教える。そして「自分の権利を守るためにも他人のそれを認める」という一見、スジが通っているように思えるけれど、「自己中」なのに変わりは無し。

なーーんてことを言えば、ダボは右翼だと言われる。(笑)

舛添氏を引きずり下ろしても日本は何も変わらない。でも自分のことだけで忙しい人たちはそれで安心する。そして忘れる。気に入らないものを消せばそれでOK。

法律的には「辞めさせるほどのこと」は起きていないのに、倫理だモラルだとそれで舛添氏を消そうとする。これをリンチっていうんじゃないんですかね。でもそれを正当化するには、そして日本が法治国家であるならば「法改正」もペアで話が出てこないとおかしいはず。

「お前みたいな奴は嫌いなんだよ!!」で辞めさせて良いのか。これって私が大嫌いな「村社会」の行動原理と全く同じ。選挙民に責任はなくて「俺達をうまく騙した」「俺達の期待通りに動かないあいつが悪い」という有権者で良いのか?

これで良いのか、日本!

私は舛添氏には辞めてもらいたいけれど、引きずり下ろすだけの正当性があるとは思えないわけです。それは公私混同でもOKな政治資金規正法の問題点。

でもそこに焦点が飛び火すると政治家は全員困るはずで、「舛添氏の意志による辞職」という形をどうにか取るんじゃなかろうかと。

 
 
 

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