自営業って本当に大変だと思う

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日本の友人から連絡があった。もう付き合いは40年以上になる友人。かつては一緒に仕事をしていたこともあって、私の弟分みたいな友人。

彼は30代で独立して小さな会社を立ち上げたのだけれど、それなりに上手くやって小さいながらも「自社ビル」を建てて、その最上階を自宅としていた。

私達家族がオーストラリアへ移住してからは会う機会も減ったものの、日本に行った時には会ってお互いの近況報告をし合うような仲になって、それでも私が日本に帰国することも減ってからは段々と連絡を取ることも無くなった。

そして突然の連絡。

彼は30年近くどうにかやりくりしていたものの段々と業績も落ち、借金も増え、倒産こそしなかったものの廃業し自社ビル(兼住宅)も売り払い、裸同然になったとのこと。

60も過ぎてしまって、これからどう生きていったら良いのか全くわからないと。

資産らしい資産もなく、でも年金はあるのでどうにか生きていけるのだろうとは思うのだけれど、それなりに社長業を長年続けていてそれなりの生活をしていたわけで、地方のどこか生活費の安いところに引っ込んで夫婦ふたりだけで生活するにしても、「自分は落後者である」という思いから逃れられない様子。

「あの時、ああしておけば」という後悔の念に押しつぶされているのが伝わってくる。愚痴を言うことしか出来ない。

お互い中小企業のオヤジとしてやってきて、簡単に生き延びられる世界じゃないのはわかっていたものの、まさか自分がそうなるとは思わなかったと。

私達がいた業界って独立する人たちも多かったけれど、良くて3年~5年で、10年以上生き延びていたのは非常に稀で(トレードの世界は80%が損をすると言われるけれど、実業の世界は生き延びるのはもっと大変)、ほとんどの仲間達はいつのまにか消えていった。彼らがその後、どこで何をやっているのかもわからない。そんな中で、彼は「自分は勝ち組だ」と思っていたのね。

彼ら夫婦には子供がいなくて、子供の失敗のお尻を拭かなくてはならないことはなかったけれど、子供からの援助もない。夫婦ともども60歳を過ぎて、再就職も考えられないし、極端に安い時給でパートタイムをやる気も起きないと。

私にとっては親族みたいな感覚がある友人だけれど、私にはどうにも出来ない。相談にも乗りようがない。「どうにか頑張れよ」なんて言葉もあまりにも空虚で、そんな言葉をかけようとも思えない。

トレードをやってみるか?なんてことも言えなくて、言えば、私に責任が生じるし、下手をしたら「生き延びる道が他にあるのに、それを潰すことになる」ような気もしてくるわけです。

彼はどうしたらよいのだろうか。また私は親しい友人としてどうすればよいのだろうか。見捨てるしか無いのが薄っすらわかるけれど、それも「しょうがない」と受け入れるのは簡単ではない。

私は私で、「あいつを助けることも出来ないのか」と思うと、落ち込んでくる。一体、私は何を目指して頑張ってきたのか、所詮、私も「自分の家族と親族のことを考えるのに精一杯」でしかない。

これが人間の「実相」だとは思うものの、なんだか人生ってつまらないと思う。夢を追って挑戦を続けると言ってもやっぱりそれは50代までで、心身ともに駄目になるのがはっきりわかる60代がどうやってチャレンジすれば良いのか、私にはわからない。

でもフト思うのは、「食える技術を持つことの重要さ」で、私には料理人の友人が多いのだけれど、彼らはそれなりに「生きる場所」を見つけられているのね。60代でも再就職の道はあるように見える。また小さな小料理屋、焼き鳥屋、おでん屋だって開業できるわけで、逆を言えば、「経営のプロです」なんてのはどれほどの実績があっても、結局は失敗し、60を過ぎれば煙たがれるのがオチで、「じゃ、自分でなにかやってみれば?」と突き放されるだけのことじゃないんですかね。

私にはいわゆる技術者とか、難しい国家試験をパスした技量のある人達のことはわからないけれど、60を過ぎてからの再出発って半端じゃなく難しいんじゃなかろうか。それも「独立してやっていて、失敗した経験しかない」としたら、どこに生きる道があるのか私には想像もできない。

でもま、私の友人の場合、「借金がない」のは良いことなのは間違いがない。

私も我が人生では二度の「廃業」の経験があるけれど(オーストラリアの会社は売った)、借金を残したことはなくて、まあ若かったから「再出発」も【転業、転職みたいなもの】で大きな負担だとは思わなかったけれど、60を過ぎてからのそれは「不可能かもしれない」としても、【借金がない】【年金はある】ってもしかしたらとんでもなくラッキーなような気もしています。

しかしどうしたもんですかね。

「知りたくないこと」「聞きたくないこと」「見たくないもの」ってあるわけですが、それは【無かったもの】として知らん顔をして生きるのが良いとも思えず。でも自分に何が出来るのかもわからず。

見えない存在に手を合わせて「どうにか救ってやってください」としか祈ることしか出来ないのが自分の真の姿だとしたら、今までの自分、今の自分にはなんの価値もないような気がしてくるわけです。

もし彼が私の本当の弟だったらどうするか?

ほぼ間違いなくマレーシアに呼び寄せてトレードを叩き込もうと思うけれど、所詮、友人でしか無い彼に「お前、死ぬ気でやれるか?」と言えるとも思えない。また彼もそれに飛び込む自信があるとも思えない。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

そんな言葉が頭に浮かんでくるけれど、諸行無常だとしても、決して世の中は「無情」ではない。

彼にとっても私にとっても、新たなる「挑戦の時」なのかもしれない。

彼は60を過ぎても、私は70を過ぎても、人生のやるべきことって同じなんですかね。

「明けない夜はない」言われても、年寄りは「夜明けまで生きていられない」と思うわけで・・・・・・

なんだか笑うしか無い・・・・、みたいな。(笑)

「このままでは終われない。まだ夢の途中、諦めない・・・」

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