読者に元気を頂いた

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ちょっとこの数日、落ち込んでいる私ですが、読者の励ましで若干持ち直すことが出来たようです。

気を紛らわすわけでもなく、世の中の非情さと自分の甘さとの乖離が問題になるわけですが、でもその甘さは本来甘さではなくて人間として守るべきものを守れば必然的にそうなるというのがわかったうえで、この曲を聞いてくれと言われたように感じました。

中島みゆきの「ファイト」。

そして同じく中島みゆきの「地上の星」を思い出し聞いてみました。NHKの「プロジェクトX」の主題曲でしたね。私はこの曲は大好きでやる気が出てきます。

私は子供の頃からダメな奴と言われ続けて生きてきまして(笑)、トラウマがあります。そして人生って楽しいことなんかなくて、「生命とは悲劇そのものである」と考えています。ところが結婚をし新しい生命を見て段々と考えが変わってきました。生きることは悲劇なのに変わりはないものの、その悲劇の中を一緒に生き抜く「仲間」の存在に気が付きました。

生まれた限り生きて生きて生き抜いて、その仲間たちと泣きながら前に進む。これが人生なんだろうと。自分は決して一人ではない、孤独ではない。ここが大事なところなんでしょう。

そしてその仲間って親族だけじゃないんですね。でも親友とも違う。親友とは所詮その時その時で変化していくし、いつか敵にもなりうるのは私の人生の中で何度も経験をしています。でも親友ではない「戦友」としか言いようが無い関係があるんですね。「同士」も同じかもしれませんが、そういう友人関係を持つことが出来ることにも気が付きました。

「生死を共にする関係」とでも言いましょうか。その友が生きることは自分が生きることであり、友が死ぬことは自分が死ぬことと同様であるという感覚。親が子に持つ気持ちもそれと同じだと思います。

こういう関係が自分にもあると自覚した時に、ここで負ける訳にはいかないと力が出てきます。

実は私はこの数日かなり落ち込んでいるのですが、それでもある人のことがいつも心に引っかかっています。

その人はこのブログで知り合った方なんですが、今までに会ったことがないような聡明さと理解力の凄さ、そして誠意を感じさせる人。こういう人がいるんだ?と思ったくらい私にとっては変わっている人です。

でも若い方なんです。そしてやっぱり若さを感じる。

若さって一体なんなのかという定義はいろいろあると思いますが、私流に言いますと「吹っ切れていない」というのが一番近いかもしれません。いわゆる理想、常識、感情、プライド、そういうものが強い。

そんなの誰でも同じじゃないかと思うかもしれませんが、私みたいに地べたを這うように生きてきた者に取ってはそれらは排除するべきものでしかないんですね。「夢があるから人間は成長する」とよく言いますが、それはある部分は正解で、ある部分は大外れで、それがあるからこそ破滅に向かうことがあるのは実社会をちょっと生きてみればすぐわかることなんですね。

こだわっていい部分とダメな部分があるんだろうと思っています。

私はその方との付き合いの中で、その人がこの感覚を手にしたら鬼に金棒だと思ったんです。でもそれってやっぱり月日が掛かるわけで、話を聞いて「なるほど」なんて思う人はいない。でもその人の聡明さと逸脱した吸収力を考えると、その人は簡単に普通では超えられない壁を乗り越えて理解しちゃうだろうと思ったんです。

でも通じないようで、逆にこの人ならと思った私の言動が、その人を傷つけてしまう方向にしか動かなかった。

それが残念でしかたがないのです。良かれと思ったことが逆効果になる典型。

もし目の不自由な人が道を歩いていて、その人が目の前にある口の空いたマンホールに気が付かなかったらどうするべきか。これと似たようなものを感じました。

そのまま行けば穴に落ちますよと言っても、何を言うんですか、この道は私が毎日通って知っている道でそんな危険はありません。と答えるんですね。

では知らん顔するべきか。それとも無理矢理でも進路変更させるべきか。

私はタックルしてでも穴に落ちないようにしようと思うタイプですが、そうされた方は「とんでもない人だ」と言うに決まっているんですね。

マンホールの穴なら、その後に「ほら、確かめてみてくださいよ」と言えば、「あ、ホントだ。助けてくれて有難う」となるわけですが、世の中の様々なことって後ろを向いてもそこに穴があったかなかったかはわからないんですね。落ちてみない限りわからない。

ではどうしてそれが危険だとダボにはわかるのかとなるわけですが、これは私が生きてきた人生の中の経験則としてその確率が高いということでしか無いんですね。私なら当然回避しますが、その危険が見えない人には何を言っても通じない難しさがある。また絶対に穴に落ちると決まっているわけではないのが難しいところ。

たとえ親友でも戦友でも親子でも価値観は違うし、性格も違うし、持っている常識も感性も違う。だからそれを認め合って生きようというのはその通りなのですが、それを重視し過ぎると駄目なんですよね。これは子育てを考えればわかるように、子供の好きな通りにやらせたらまずいと誰でも思うはず。

人を傷つけてはいけない。相手の立場を考えろ。迷惑をかけてはいけない。そういう風に育てるのが普通の時代になりましたが、私が知っている日本の教育はそうではありませんでした。人は一人では生きていけず、迷惑をかけ、かけられながらその中で支えあい、影響を(いい意味でも悪い意味でも)与え与えられて生きて行くものだと教えられた。だから昔はクレーマーなんて存在しなかった。

でも経験しないことはわからない。

これを書きながら私の友人の子育て法を思い出しました。まさに放任主義そのもので何でもやらせるんですね。うそだろ~~と私も思うことが何度もありましたが、彼は娘に好きなことをやらせて育てたんですね。女の子ですよ。女の子。

そりゃいろいろ想像できるように、まさにその子はいろいろ経験したわけですが、二十歳を超えるころになりますといっぱしの大人に育ったんです。こんなにしっかり自分を保ちつつ、世の中が見えている子供って私は始めて会ったと思ったくらい。私のほうが子供に思えた。(笑)

その子も凄いけれど、そういう風に育てた親も大したもんだと思いました。そりゃ心配ばかりで夜も寝られないことがあったろうと思います。でも一切口出しせずになんでも経験させた。

ま、思い出してみれば私も放任主義で育ちましたし、親の言うことを聞くような子供じゃありませんでしたが、結局、「話」で子どもや他人を説得なんか出来ないんですね。経験するしかない。やるしかない。

目の前に穴の空いたマンホールがあれば、やっぱりそこに落ちて痛い思いをするしか無いんでしょうね。それで命を落としたら運が無かったと思うしか無い。また助けなかったことを後悔する必要もないのかもしれない。

それが人生なんだろうと思うわけですが、でも自由奔放で生きた私でも、ある人の一言で気がついた、目が開いた、理解できた、救われたことって何度もあるんですね。だからそれなりに有能な人に会うと私も一言言いたくなってしまうんです。この人ならすぐに理解できるはずだと。

でもやっぱりそうは簡単に行かない。それどころか私はその人を傷つけてしまって(傷つくようなことではないと私は考えていた)、その人のためになることは何一つ無かった。とても残念ですし、その方に対しても謝るしか無いと思う、今日このごろ。

でも世の中を生き抜くためのノウハウって実は大して大事ではないと思うんですよ。これはいつもこのブログに書いている相場に関しても同じで、「どうやったら勝てるか」というのを追い求めて、知識じゃノウハウじゃと取り込みますが、これは小さな商店や中小企業の経営も同じで、そんなものを吸収したり取り入れても駄目なんですね。

大事なのは性格を含めた「生き方」であって、それによって全ての結果は違ってくると私は考えます。

たとえば、水泳界でのし上がる知恵、知識、ノウハウをどれほど勉強しても、そもそも泳げない人だったら意味が無いし、実はマラソンの才能の方があるかもわからないんですから。

こんなことは当たり前なことですが、意外にそれに気が付かないのが普通だと思っています。こういう私もそうで、中小企業がどうあるべきか、金儲けって何がポイントなのか、あるいは相場にしてもどうやって利益を出すのか、一生懸命答えがどこにあるのか悩み続けた人生でしたが、ある日ある時気がついたんです。

その答えは「生き方」によって違うのだと。同じようにやれば同じ結果が出るなんてことはあり得ないと。それどころか手法は違っても「生き方」が似ていると同じような結果になると。

私が考える基本中の基本は、夢や理想は捨て、自分の感情やプライドも捨て去る。でも現実主義になるってことではなくて(なろうと思っても簡単になれるものではない)、自分の中からそういうものを捨て去ると世の中がよく見えるようになりますよね。自分が掛けている色眼鏡を外して世の中を見ると、一緒に仕事をしている同僚も、友人も、親兄弟でも子供でも本質的なものが簡単に見えるようになる。

ここがまずスタートであって、ありのままの世界をありのままに見るには「自分を消さないかぎり見えない」と私は思うのですよ。

滅私という言葉がありますが私は非常に重要だと思っていて、でも滅私というと滅私奉公みたいなものを連想することがあると思いますが、自分が主となり、その主に滅私奉公するというちょっとややこしいですが、そういう状態を作るのがベストだと思っています。

でも夢や理想、感情やプライドも消し去るなんてことは出来ることではなくて、でもそれを極限まで抑えこんで、どうしてもここだけは譲れないという部分まで削り落としてから、さてどうするべきかと世の中を見渡すと我欲に囚われていた時とは違うものが見えるはずなんですね。

夢を実現するためには、夢さえも徹底的に抑えこむ必要があるという禅問答みたいな話ですが、それが真理だと思うんですよ。

そんなことに気がついたのは残念ながら私の場合は50代で遅すぎたと思っていますが(笑)、ま、そうやって生きると世の中が面白くなってくるのは確か。

それはもしかすると狡賢さに似ているのかもしれませんが、自分が拘っていたものがいかに意味のないものか、大したことではないと理解すると人間が変身するのが可能になるんですよね。性格なんか変わらないとよく言われますが私はそんなことはないと思っていまして、今まで見えなかったものを垣間見ただけで、自分の性格さえも変えられると思っています。

これって世界は違うものの、宗教の修行、座禅でも同じことだと思うんですよ。そしてそれは日常の生活も同じだし、ビジネスの世界も同じ。宗教に入りますとどこでも「お布施」と「勧誘」がつきものですが、これを「宗教は金儲け主義」と見たら駄目で、「金を出すこと」「他人を誘うこと」って何よりもやりたくないことの代表ですよね。でもそれができるようになることが宗教の中でいう「滅私」の重要性であって、金も出せない、人も誘えないという心境にある限り、宗教の真髄は見えないはず。

またビジネスの世界でも、たとえ東大を優秀な成績で出た新入社員にも、街頭でティッシュ配りをやらせたり、ある地区の住宅を戸別訪問して注文を取らせる教育をしたり。これもろくでもないプライドや我欲、理屈っぽさを捨てさせるための行為だと私は思うし、非常に重要だと思っています(古いでしょ~?)(笑)。

これは「洗脳」と非常に似ていますが、洗脳を全てひっくるめて悪いものだと決めつけるのはおかしなことで、実は人間は「常になにものかによって洗脳された状態」「人間は自己暗示の世界に生きている」と私は考えていて、それを「修正」することは可能だし、自分で思うような自分を作ろうと思えば作れるんじゃないでしょうか。

でも滅私とは決して到達点ではなくて、始めの第一歩でしか無い。

そんなことを思いながら生きていて、それでもちょっとした簡単な罠にハマってしまう自分がいる。ま、滑稽なんてもんじゃないですが、自分の中に甘さもあるし、やっぱり「世の中はこうであって欲しい」という期待、理想を捨てられないんですね。それがある日ある時まわりまわって自分の損失となって表面化する。

世の中ではこれだけ注意喚起が行われているのに、振り込め詐欺が減らないのは同じ原因があると思っています。俺は大丈夫だと思っても大丈夫じゃないのね。(笑)

でも私は振り込め詐欺が成り立つ世の中って、それだけ「温かい世界」だと思うんですよ。それを悪用する奴らは最低ですが、子供なりなんなり「自分を助ける以上に助けたい存在がある」という証拠ですから。

投資詐欺に引っ掛かるのは「同じ穴のムジナ」と思うのですが、振り込め詐欺はまるで違うものだと思っています。

でも引っ掛かるのはバカだと言えばその通りで、いくらでも確かめる方法があるわけですからそれをするべきなんですが、お金を払ってしまう人の「優しさ」は大事にしたいと思うわけです。

でも世の中はそれを全面に出すと生きていけない様にできているし、まして海外に出ると「利益追求型」の人ばかり(笑)と言って良いわけで、自分のお人好しもどの辺で抑えるかというのは難しいですね。

だから夢や理想、常識や感情、プライドは捨てるべきなのは間違いがないものの、でも捨てきれないものがあるし、捨てるべきではないものもあるし、でもその最後のパンツ一枚を脱ぐか脱がないか(笑)が大事なところだと思うんです。

ただ言えることは、パンツどころか何枚も何枚もいろいろな価値観、常識、プライドを着込んでいたら絶対にこの世の中で勝てないのは間違いがない。

もしかすると、たくさん着込んでも「誠意」という着物を一枚脱ぐだけで世の中では成功するのかもしれませんね。そういう人は結構いるし、海外ではそれが当たり前かもしれない。でも逆に「誠意」だとか「信用」だとか、それに拘るのは「自分には判断力がないから相手のそれに頼る」ということでしかないのは間違いがなくて、最後の最後でどう人が動くのかの根本的な「誠意」とか「信用」とかそういうものを見抜く目を持たなくてはならず、それらを確保する為に、相手に「約束は守ってください」みたいに言えることじゃないですよね。幼稚園じゃないんですから。

でもやっぱり難しいのが現実で、私みたいに偉そうなことを書きながら、でも実は大人になれない大人なのも自覚があって、モラトリウム人間って私みたいなのを言うんだろうなと思いつつ、「利益があれば喜ぶ人間ではない」ことに誇りは持とうと思ったり。

ま、死ぬ気になればこそ、大事なものを守れるってことなのかもですね。

じぐそ~~、負けてたまるか~~~ってんだ

これを書きながら、頭の隅で「特攻隊」のことを考えていました。そうそう、あの特攻隊です。

今、安全法案でもめていますし、あの戦争に関しては「戦争は悲惨だ」ということで全てをまとめてしまい、なんら日本流の総括がなされていないことが戦後という言葉がなくならない理由のような気がしています。

また戦争反対を唱えていればなにか高邁な思想を持っているが如く自分の思想に酔う人が多く、あの広島の記念碑にある、主語がない「もう過ちはくりかえしません」というわけのわからない言葉が日本の戦後を象徴しているように思います。

それどころか、祖国の為に命を捧げた人たちを悪者、軍国主義の権化みたいにいう人までいるのは異常としか言いようがないと思っています。特に特攻で散っていった人たちをなぜ悪く言えるのか、私には想像さえ出来ないのです。

特攻を美化しようというのではなく、無駄死かもしれないと思いつつ、砂の一粒よりも小さな可能性に賭けて命を投げ出した人たちの思いを無にしてはならないと思うのです。あれは洗脳だ、命令だ、イヤイヤやったんだなんて言う人もいますが、確かに洗脳の部分は大いにあると思いますが、普通どんな人間でも命令で命を捧げられる人ってこの世に存在しないと思うんですよ。

最後は天皇陛下万歳ではなくて「おかーちゃーーーん」と叫んで行ったなんて聞いたようなことを言う人もいますが、きっとそれは事実でしょう。天皇陛下のために死のうと思った特攻の人は少ないかもしれないと私は考えていて、でもその天皇をも含めて「愛するものをどうにか救いたい一心」だったと思います。

でも特攻で日本を、愛する人を救えるわけがないじゃないかというのは、私はそういう人は人生で勝負をしたことがない人だと思うんですよ。ただ頭で損得を計算するのは得意な人だろうと。でも無駄かもしれないけれど命を賭けようと思う一瞬って人間には間違いなくあるんですね。「ここで死を恐れないことが自分が生きる道に繋がる」(生き延びるという意味ではない)という感覚を理解する必要があるはず。こういう死生観は物質主義を超えた日本人の間に多くある考え方だと思います。

でもそういう純真な若者に「明らかに無駄な命令」を出した人間がいるわけで、この罪は日本国家の最大級の罪だと私は思っています。この組織、人間は徹底的に罪の追求をするべきだと思っています。

ご要望があれば紹介しますが、興味ある動画を見たことがあります。ある特攻兵の回想録なのですが、彼は最終的には自分も特攻が決まり、待機中に終戦となって命は助かったのですが、彼の経歴は正真正銘の有能な戦闘機乗りであり、かつ後に特攻隊の教育をする立場にあり、そして最後は自分も特攻することになったという、3つの部署を経験した唯一の飛行機乗りだそうです。

その彼が若く有能な青年たちに飛行機の(簡単な)操縦だけを教えて特攻隊として送り出さなければならなかった時の話。また特攻隊を援護する飛行隊もあって、彼はそれも経験し、特攻が成功するように一緒に飛び立ち援護射撃をしたんですね。

この時の話は、彼も涙を流し言葉をつまらせたのですが、これからまさに突っ込むという時に、彼らは飛行機の左右の翼を上下に振らして合図をするんだそうです。ではその合図とは何か。「行きます」かもしれないし、「さようなら」かもしれないですが、彼は「後は頼む」だったと言うんですね。

これは戦場を経験した人でないとわからないことだと言いますが、なぜ自分が死ねるのかと問われれば、それは「自分の死が無駄にならないようにしてくれる仲間がいるから」だというんです。この話は涙なしには聞けない話ですが、私はその通りだと思いました。

多くの親は子供のために命を落とすことをなんとも思わないと思います。もし暴漢がナイフを振り回し襲ってきたら、普通の親ならまず子供の前に立ってそれを防ぐ。もちろん自分が素手で、相手が銃を持っていたとしても同じだろうと思うんです。

それは無駄かもしれませんが、子供を守りたいという一心、また自分が先に死ぬのは無駄ではないと信じているからですよね。

私は特攻兵も、多くの兵隊も同じだったと思うのです。命令だから死んで見せる、なんてバカは日本の2000年以上の歴史の中で一人もいなかったと思うくらい。

「俺は死ぬけれど、後は頼む」と死んでいった人たちに、一体今生きている私達に何ができるのか、何をすべきなのか。非常に考えさせられることだと思います。

ルバング島から帰ってきた小野田さんですが、彼は歓待されるどころかいろいろな批判の対象になったんですね。そして彼は黙ってブラジルへ渡ってしまった。彼はその後、自然塾というこども教育の事業をはじめて数千人がそこを卒業しましたが、彼が一体変わり果てた戦後の日本を見てどう思ったのか。

小野田さんてやっぱり大した人だと思うのですが、あの人って優しい人で嫌なことをはっきりいう人じゃないんですね。それでも変わり果てた日本にはびっくりしたとは言う。まさか自分が非難の対象になるとは思わなかったと。

その小野田さんの対談を聞いて思ったんですよ。小野田さんってあの戦争で死んでいった数百万の兵隊たちの代弁者ではないかと。

要はですね、何が言いたいかというと、今の日本って本当に幼稚園みたいなんですね。子供がワイワイ騒いでいるのと同じような感じがするってこと。選挙にもいかないくせに、面白くないことがあると戦争反対だとわけのわからんことを言うし、戦争反対なら国会の前じゃなくて、台湾やアメリカを、そして東南アジアの国々を恫喝するようなあの抗日パレードに対してなぜ文句を言わないのか。

ヤクザに対抗できるように警察も頑張らないとならないのに、警察署の前に行って「揉め事を起こすな」というバカがいますかね?

こういう子供みたいな論理がはびこっている日本って本当に幼稚園そのもので、「迷惑をかけてはいけませんよ」「約束は守りましょう」「喧嘩しないでくださいね」と言われ「はーーーい」と皆で声を揃えているような、そんな姿が目に浮かぶようです。

こういう傾向って日本にいると当たり前すぎてわからないかもしれませんが、たとえばフナッシーだかなんだか知りませんが各地のキャラクターにしてもそうだし、女性のしゃべり言葉が「子供対象」になっているんですね。外から観察しているとそれが良くわかります。さすがにテレビのアナウンサーは子供相手のしゃべり方はしませんが、あちこちの案内とか看板とか「子供が主体」なんですね。

料理番組が好きでよく見ますが、料理人が「ここで余分な脂は拭きとって【あげて】ください」とか、幼児言葉を使う人が非常に多くなりました。男性でもそういう「あげる」というリカちゃん人形と話すような言葉を使う人が増えてきた。

これって私はやっぱり「日本人の幼児化」だと思うんですよ。クレーマーが多いのも同じで、スーパーに「賞味期限の切れたもの」があってそれを買ってしまった場合、店長に文句をいうなんて、どうしてそんな恐ろしく馬鹿げていて子どもじみたことが当たり前になったのか。

こういう国民がどんどん増える日本が、どうやってしたたかな韓国や中国と付き合えるのか、またその何倍もしたたかなアメリカとどうやって手を繋いで生きていけるのか。これを考えると、もう日本の将来は無いぐらいに思うことがあります。

いろいろ書いたついでってわけじゃありませんが・・・、やっぱりついでに靖国神社に関して書いておこうと思います。

基本的には「外国にガタガタ言われることじゃない」と思っていますが、私は靖国神社って非常に変わった神社だと思っています。「祖国の為に命を捧げた英霊」と言いますがそれはウソなんですね。

事実は「国が認定した戦いで命を落とした【政府側の】人達」だけがあそこで祀られていて、命を捧げたけれど死ななかった人はあそこには入っていない。まさに上に書いた小野田さんは靖国に入れないわけです。では小野田さんは日本のために命を捧げたのではないのか、否か。小野田さんを無視した状態で良いのか?

西郷隆盛は?白虎隊は?シベリア抑留で亡くなった人たちは?氏名が特定できない爆撃や移動中、引き上げ時に死んだ兵隊たちは?同じように戦い帰ってくることが出来た兵士たちは関係なし?

こういう靖国神社の特殊性を無視して、アメリカでもどこでも国のために戦った人たちに敬意を表すのに、靖国に行って何が悪いと言っても、海外は靖国神社みたいじゃないわけですよ。もっと公的なのが普通で、ハワイのパンチボウル (国立太平洋記念墓地) に私の叔父の墓がありますが、彼は戦後進駐軍で日本に来た日系二世で戦闘経験は皆無。

また死んだから自動的にそこに祀られるってこともないわけで、私としてはかつては日本だったとしても韓国や台湾の遺族が合祀から外してくれというのは一理あると思っています。皆が皆、「靖国で会おう」って死んでいったわけではないし、「靖国で会おう」というのは一つの表現方法でしか無くて、靖国に形だけ祀られることを望んでいたとは思えないんですよ。

そういう祀り方に一方的なものが靖国にあるのは間違いがなくて、何が何でも靖国を守る的な発想って私は変だと考えています。だからといって廃止とか分祀なんて出来るようなものじゃないのもわかるわけで、本当に変な立場のまま今日まで来てしまったと感じます。ましてや国家機関ではありませんから、国はもちろん、我々国民も何も言えない。

一つ言えることは、戦争で亡くなった人全ての慰霊ではなくて、それこそ小野田さんでも今の一般の自衛隊員でも入ろうと思えば入れる「場所」、つまり米国で言うアーリントンやハワイのパンチボウルに相当するものが日本には無いんですね。この異常さも考えるべきじゃないんですかね。

勝った負けたは時の運。またもし戦いがない時代を生きたとしても、「国のために命を捧げる」と誓った人たちは(どんな死に方をしようが)未来永劫、政府も国民もその勇気をたたえ感謝すべきであって、でもそういう場所が日本にはない方が靖国問題より大問題だと私は思うわけで、それを放置している保守系や右翼もどこかおかしいんじゃないかと。

今は自衛隊を好意的に見る人が増えているとのことですが、かつては酷かったんですね。罵声をはかれることもあったと。そんな時に、一般の隊員は「どうしてここまで言われなければならないんだ」と悩んだ。そこである元自衛隊のお偉いさんが言うには、そういう時に「ああやって誰もが自由になんでも言い、生活できる日本を守るのが俺達の仕事だ」と言ったら多くの隊員は納得したとのこと。

完全なる自己犠牲で報われるのことのない自衛隊ですが、ま、それはそれで仕方のない事かもしれませんね。それだけ日本が幸せってことなんでしょうし、そもそも自己犠牲の精神は自分の問題であって、誰にほめてもらいたいとかそういう考えはないはずですから。

亭主が一生懸命働いているのに、カーチャンは好きなことを言うのと同じで、それが何よりも平和な証拠なんでしょうね~。(笑)

 
 
 

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